「貴方を愛しています」
 ゲンイチロウが慌てふためいているのが分かった。アタシが俯いて泣いていると、ゲンイチロウの隣に座っていたはずのセイイチがアタシの隣へ移動してくる。それからサラ金の広告が載ってるティッシュを差し出してくれた。アタシはそれで涙と鼻水を拭く。
「なんていうか……ありがとう」
 その言葉に顔をあげると、セイイチのきれいな顔が微妙に歪んでいた。嬉しそうにも見えるけど、悲しそうにも見える。隣のテーブルのカップルが何事かとこっちをちらちら見てたけど、構いやしなかった。
「俺……ううん、俺たち、蓮二のこと好きなんだ。もちろん本人の前では照れくさくて言えないけど、じいさんになるまでずっと友達でいたいって思うやつってなかなか巡り会えないと思う。蓮二はそう思えた数少ないヤツの一人なんだ。……蓮二は、もしかしたらそうは思ってないかもしれないけど」
 バツが悪そうに一瞬顔を逸らすセイイチ。でもすぐにまたアタシの方を向いた。
「だから、ありがとう」
「……えっと」
「キミ、友達はいる?」
 急に何を言い出すんだ。
「いない」
「じゃあ、いつかできたら分かるよ」
 悪戯っぽく笑って誤魔化すセイイチを睨むと、彼はアタシの頭を何度か軽く叩いて元の席に戻る。
「とにかく、このままだと蓮二が警察に捕まるってことは理解できたかな?」
 急に真剣な顔になるセイイチに、重苦しく頷いた。アタシの所為でレンが捕まる。普通の生活ができなくなって、本が読めなくなって、
 あの絵葉書を受け取ることができなくなってしまう。
 それは今のレンを見ていたらとても危険なことだと分かった。レンは別に自殺願望者というわけではないけれど、あまりにも生きることへの執着が少なかった。生き甲斐はたぶん文学の研究とあの絵葉書だけだ。そう断言してもいい。
「……だめ」
「エマちゃん?」
「ダメだっ……!」
 またあふれ出してくる涙。レンのそばを離れる気なんて毛頭なかった。でも、このままアタシがあの部屋に居続けたらレンがあの部屋に居られなくなるんだ。それだけは。
「本当に蓮二が好きなんだね」
 頬杖を付いてそう言うセイイチ。ゲンイチロウの方は腕を組んでただ黙ってアタシを見ていた。そうだよ、好きだよ悪いか。
「本当に蓮二を慕っているなら、もう数年待てるな?」
 厳つい声が告げた言葉に頭痛がする。セイイチがゲンイチロウをなんか叱っていたけど、彼が言ったことはたぶん最善策だ。問題は、アタシが18歳以下だっていうこと。
「お前っ、そんなんだから縁談が片っ端から流れるんだよ!?」
「何だと!? では遠回しに言って余計な期待を持たせろというのか! それこそ蛇の生殺しではないかっ!?」
「そうじゃなくって! ……ああもう、いいよお前黙ってろよもう」
「……勝手についてきた癖に随分と偉そうだな幸村。俺は今仕事中だぞ、これは公務執行妨害に当たる」
「これが仕事中なら守秘義務違反でしょっ引かれるのはお前だ馬鹿」
「……」
 サメになって、レンを海の底まで引きずり込んで。それで? その先でレンには何があるの。アタシにはレンがいるけど、レンには何もなくなっちゃう。
「守秘義務違反ついでにもう一つ教えてやろう。……実は俺たちの出身校である大学で、再来年度に新しく文学部が設立される」
 レンと過ごした2カ月を思い出していると、ゲンイチロウは急にそんなことを言いだした。彼らの出身校っていうと、立海とかいうところか。
「その准教授に蓮二の名前が挙がっているらしい」
「えっ!? マジ!?」
「本当だ。もっとも、これは俺の祖父と立海の大学部の理事が知り合いだから入ってきた情報だ。まだ本人すら知らない」
「再来年っていうと丁度博士号が取れる年か……。悪くない話だね」
「首席卒業の秀才だったからな。立海としても確保しておきたい人材なのだろう」
 とっくの昔に運ばれてきていたカルボナーラは冷め切っていた。喉の渇きを潤すために水を飲む。
 そうか、レンはもうすぐ偉い人になれるのか。
「……俺も、友として幸村と同じくお前の気持ちを嬉しく思う。だからこそ、頼む。……蓮二の七年間の努力と未来を、潰さないでやってくれ」

 今はゲンイチロウの知り合いの弁護士と警察が間に入って宥めてくれているらしいけど、オーナーがレンを告発するのはもう時間の問題だとゲンイチロウは言った。もってあと2日。それまでにアタシは覚悟を決めてあの深海へ戻らなければいけない。ひとりで。
 その時、ふと大事なことを思い出した。
 レンの家にすぐ転がり込んだおかげで正直忘れかけていたけど、そもそもアレがなければアタシは今もあの深海にいたはずなんだ。人魚姫として。
「ねぇ、例えばなんだけど」
 早口で話し始めると、ゲンイチロウとセイイチの表情が見る見るうちに変わっていった。暗い表情から希望を見出したような表情へだ。


 ***


 あの後、一人きりで過ごした帰路の新幹線は恐ろしいほど過ごしにくかった。行きも彼女とずっと話をしていたわけではないが、文庫本を忘れてきたことに気付かなかったということは、そういうことなのだ。
 新青森駅で買ったベストセラーの小説は恐ろしくつまらなかった。本当は面白いのかもしれないが頭に内容が入ってこない。自由席の窓際、隣に彼女の影を求めてはため息を噛み殺した。隣では故郷から東京へ帰るのだろう三十代の男性が眠り込んでいる。
 もうあと三十分拘束されていたら耐えられないだろうというところで、新幹線は東京駅に滑り込んだ。そこから目黒の自室へどうやって帰ったかは覚えていない。ただ、気が付いたらロフトの上に登って彼女が寝ていた布団の上に仰向けで寝転がっていた。
 古書の匂いが立ち込める中、薄暗い天井をぼんやりと見上げる。
『……自分のことが、どうでもいいんだな』
 それはお前のことではないか。こんな男に惚れて、こんな狭い場所に二か月も押し込められて。それなのに毎日「おかえり」と告げてくれて、他愛ない会話で笑顔を見せてくれた。自己犠牲的な愛を振りまいていたのは誰だ。
 もっと見返りを求めてくれと、言えたなら。

 我ながら卑屈で面倒くさい男だと思った。急に距離を詰められると戸惑うのだ。それでも振り回されている内は気が楽だった。自分で考えず、ただエマに任せていれば良かったのだから。
 いざ選択権を持たされた時、やはり俺は自分の気持ちを伝えることはできなかった。

 もういい。疲れた。大学時代に付き合っていた女と別れた時もこのような感覚に襲われたような気がする。どうせ一カ月もすれば元の生活に戻るのだ。丁度三日後が提出期限の論文もある。そう踏ん切りをつけて、その日から俺は寝る間も惜しんで論文作成に勤しんだ。テーマは芥川の初期作品に見られるエゴイズムと晩年の告白的自伝の比較検討。その論文は今までのものとは長さも出来も違い、研究科内ではちょっとした噂となった。
 丁度その頃、俺は立海大学文学部設立について母校に呼び出されて説明を聞くことになる。
「……しかし、私はまだ文学界で目に見える成果を挙げていませんが……」
「我々はきみの将来に投資するつもりで迎え入れたいと思ってね。だがまぁ、パンフレットの見栄えを良くするために卒業までにどこかの新人賞を取ってもらいたいのは山々だが……」
 現在所属している研究室に未練が無いと言えば嘘になるが、准教授などこの機会を逃せばしばらくなれないことは明白だろう。そして、文学者は世間が思っている以上に食べていくのが困難な人種だ。卒業後の進路を書店員にしないためにも、俺は年内新人賞受賞を目標に研究に殊更没頭した。
 そして、文学に溺れていい具合にエマのことを忘れかけていた8月最後の晩。貞治が一升瓶を片手に襲来した。
「失恋したと聞いたんだが、やはり本に埋もれていたか」
「どこからの情報だ」
「かわむら寿司で幸村一家に会ってな」
 やはりあの男一枚噛んでいたか。
「お前たちはどうしてそう人の惚れた腫れたで盛り上がれるんだ。女子か」
「蓮二。多少の女々しさはモテるための必須条件だと俺は思うぞ」
「ああそうかい。さぞ博士殿はモテるんだろうな」
 貞治が持ち込んできたのは青森の地酒、田酒。何の嫌がらせだ。俺はそれをガラスのコップに注ぐと一口で半分ほど呷った。
「嫌味か。テニススクールに通っていた頃から俺はお前に女を取られっぱなしだった」
「だってさだはるくんきもちわるいんだもーん、だろ。俺の所為じゃない」
「さだはるは気持ち悪いんじゃなくてちょっと頭が悪いだけだ! というお前のフォローの方が痛かった記憶がある」
「意外だな。お前のフォローをしてやるとは、小学生時代の俺は中々良いヤツだったらしい」
「ああ、良いヤツだったよ」
 貞治がグラスから口元を離してそう言った。こいつ、酔いが回るのが早すぎないか?
「酒の力を借りて言うが、お前いい加減に前へ進んだらどうだ」
 貞治の眼鏡は相変わらず逆光で、その奥の目は見えない。俺は残り半分のグラスの中身を胃の中へ流し込んで新たに注いだ。
「いつまで人に期待しているつもりだ」
「なんの話だ」
「こんなところに籠っていたって誰も迎えに来ないぞ。初恋の女も、人魚姫も」
 何を、分かりきったことを。
「放っておいてくれ」
「……では言葉を変えようか」
 貞治がグラスを空にする。今日は二人とも注ぎ足す頻度が多い。
「お前を許していないのはもうお前だけなんじゃないのか」

 俺の掴んでいたグラスの中身が揺れて波紋を作った。

「あれから10年だ、蓮二。小5の事件からはもう15年経った」
「関係ない。俺は最初から自分を許してばかりだった」
「幸村も、彼女も、あの事件に関わった者は全て幸せになっている。お前だけだ」
「はっきり言わなければ分からないようだな。貞治、貴様には関係ない」
「では俺もはっきり言わしてもらうが、あの事件と魚住エマはもっと関係ないだろう」
 貞治は穏やかな人間だ。というよりもどこか抜けている。自分があからさまに馬鹿にされている時でも、新しい汁のレシピを考えながらうわの空で流していることが多かった。友人やチームメイトが侮辱された時は静かに怒るタイプだが、それでも声を荒げることは少ない。その彼が語尾をかなり強めた。
 ロフトの上にはまだエマの私物が残っている。衣服が数着と楽譜が数枚。申し訳なさそうにひっそりと。

 会いたい。エマに会って、その温もりを両腕の中に感じたい。あの勝気で幼い笑顔が見たい。

「彼女はアメリカに旅立つそうだ」
「……なんだと?」
 エマへの想いを馳せている最中、貞治が告げた言葉に我が耳を疑った。
「今夜だ」
「はっ?」
 何故
「何故それをお前が知っている、とお前が思っている確率85%」
「っ、もったいぶらずに言え!」
 思わず声を荒げた。つまみもなしに酒を飲み始めた所為か悪酔いし始めていることが分かった。自分が冷静な判断を下せなくなっていることを自覚していたが、今はむしろその方がいいのではないかと思えた。
「お前に相応しい女になるため修行してくるのだと」
 答えになっていない言葉を告げ、貞治はニヤリと笑う。15年前と何ら変わりのない、あのイタズラ小僧の笑みだ。
「人付き合いに向いていないだとか、遠くから眺めているだけでいいだとか。格好つけてないで自分がただの不器用だと認めろ。いい歳して、これだから文系男は」

 少女の甘く落ち着いた声が聞こえたような気がした。
 いつか絶対にアンタに噛みつくからと、そう言って過酷な世界へたった一人で身を投じていく姿を想像した。
 手を伸ばしても届かない苦しみをまた味わうのか? 幸せを遠くから見るだけの辛さを、あの繊細な少女にも背負わせるのか?

 エマに、たった一人で戦わせることだけはしたくない。そのことだけを考えていたら、体は自然と動いていた。


 ***


 強姦未遂の容疑でしょっ引かれていくオーナーを横目に、アタシは舌を出して笑ってやった。レンが犯罪者だっていうなら、もちろんアタシを襲おうとしたあの男はそれを上回る極悪人というわけで。
 店長が証人になってくれたおかげで過去の未成年買春も明るみになり、アタシの養子縁組の書類偽装を暴くまでの時間も十分すぎるくらいとれた。
 アクアリウムバー『Mermaid』の経営権は店長に移譲され、万事は丸く収まった。全面協力してくれたセイイチとゲンイチロウ……いや、ユキムラさんとサナダさんには頭が上がらない。
 ユキムラさんに至っては、決着がつくまで衣食住の面倒まで見てくれた。2LDKのマンションでユキムラさんの奥さんや息子さんと過ごした2週間はそれなりに充実していた。
 ただ、ふとした瞬間にレンを思い出すのは許してほしい。
 すべてが片付いた時、ユキムラさんはレンとの仲立ちを申し出てくれた。一緒に暮らすことはさすがに勧められないけれど、健全な交際をする分には何の問題もないと。でも、それをするにはアタシの立場は危う過ぎると思った。
 ただでさえ褒められた育ちをしていない。外見ももろアメリカ人で目立つし、何より今はレンにとって大事な時期だということは分かっていた。変なウワサがたってレンの身が危なくなったら、今度こそアタシは黙ってレンから離れられる自信が無かった。
『本当に蓮二を慕っているなら、もう数年待てるな?』
 本当は。
 本当は、故郷に帰った時にもう決意していたことがある。あれはレンに全部を伝える他に、父さんやおばさんへのその報告も兼ねていた。

「夢を追う女の子ってのは、やっぱり綺麗だね」
 ユキムラさんはアタシを見ながら目を細めてそう言った。空港の出発ロビーでのことだ。大きい荷物はもう預けていた。ツテもなく単身で乗り込む異国だが、不思議と恐れはなかった。元をたどれば母国だからだろうか。
「ユキムラさんもやっぱり、あの女のこと忘れられないの?」
 レンの部屋に、まだあの写真は飾ってあるんだろう。ユキムラさんはどの写真でも必ず女の隣を死守していた。彼女の方に体を傾けてピースサインを作って。
 あの女も、夢を叶えるためにニューヨークにいるんだったな。
「奥さん泣きますよ」
「ふふっ、ご心配なく。もう散々泣かせました」
「うわ、サイテー」
「でも俺が今一番愛してるのは嫁と息子だから」
 おっさんがウインクしてやがる。サマになるから余計むかついた。
 夜遅いから、奥さんは家で息子さんと留守番している。奥さんは日本人の持っている美を全部詰め込んだようなアジアンビューティーで、息子さんはユキムラさんそっくりだ。
 あんな良い家庭があって、まだ中学時代の同級生に未練があったらアタシが殴り飛ばしてやるところだった。
「若い頃はさ、俺の恋の記憶は名前別に保存してあるーとかカッコつけてたけどさ」
 腕に付けた使い込まれた黒い腕時計を確認するユキムラさん。懐かしそうな笑みを浮かべていた。
「やっぱり、別の記憶の要領が増えれば増えるほど、思い出っていうのは薄れていくんだよ」
「……はぁ」
「蓮二は俺たち凡人より、ちょっとその頭の容量が大きいんだ。だから」
 その時だった。

 背後から慌ただしい足音が迫ってくる。幸村さんがその音の方を確認してニヤリと笑ったのが見えた。

「がんばって、ふたりとも」
 肩を、強い力で引き寄せられる。


 ***


 最近の俺は可笑しい。記憶があいまいなことが多々ある。
 まずあの日東京駅からどうやって自宅へ戻ってきたのかが分からないし、気まぐれにロフトの上に上るとそこで半日経過していたことも稀ではなかった。
 そして極めつけは今日だ。貞治を置いて家を飛び出したのはいいが、なんで俺は今成田にいる? こんな真夜中に。
 目の前にはエマがいた。二週間ぶりのエマだ。収まりの悪い金髪は豊かに波打ち、相変わらずタンクトップにデニムのショートパンツ、履き古したスニーカー。青い瞳をこれでもかと見開いたエマだ。なぜここにいる? いや、何故俺がエマの前に?
 聞きたいことは山ほどあった。どうして俺を深海へ引きずり込んでくれなかったのか。急に姿を消したのか。何故アメリカへ行くのか。精市と親しげにしているのはどういう経緯を経た結果だ?
 ここ数カ月で随分と頭がイカれてしまったようだ。本当に簡単な事しか分からなくなってしまった。おそらく冷静に考えてみればすべての答えはエマの言動などの与えられたヒントで解けるはずだ。だが今はもうただ一つのことしか俺は分からない。
 とりあえず、それを伝えることから始めよう。
「会いたかった」

 そう言って、急に恥ずかしくなったのでその華奢な体を抱きしめた。エマは呆気にとられているようで微動だにしない。
「あ、アタシ、も……」
 戸惑ったような声が聞こえる。エマの声だ。
 我慢できず、いったん体を離して彼女の肩を強く掴んだ。美しい瞳をじっと見つめる。
「……いろいろと考えた。俺の将来やエマの将来のこと。俺には一応文学者として身を立てるという目標があり、お前も今アメリカに旅立とうとしている。その理由はおそらくは、ああ、おそらくは俺も把握できているはずだ。だからつまり、俺は日本に居なくてはならなくて、エマはアメリカに行かなくてはならない。行くからにはそう、きっとしばらくは戻ってこないのだと推測する。むこうには俺などよりも眉目秀麗で実力がある男が多いだろうな、ああたぶん多い。エマはその……とても魅力的だから、これから数多の出会いがあると考えるのが妥当だろう。その中でずっと俺がお前を独占することはあまりにも、あまりにも非現実的だ。というより理不尽だ。……だからお前は俺の中にエマが存在しているということを忘れていい、いや忘れてくれ。お前はまだ若い。これからたくさん恋をする年頃だ。だが文学者は生憎モテない。その上この狭い国でお前以上に魅力のある女に出会う可能性はおそらく皆無だろう。だから俺の中でお前の記憶が塗り替えられる可能性は万に一つもないわけだが、それでもお前の許しさえもらえるなら、俺はお前の中に俺が残る一縷の期待に縋ってお前を憶えていたいのだが」
 詰まった末にやっと出た言葉は酷く頼りなく且つ長く、自分の不器用さに愕然とする。どこからともなく精市の盛大なため息が聞こえてきた。十も年下の娘に格好つけることすらできないのか俺は。
 エマの頭上に疑問符が乱舞している。
「……ごめんレン。アタシバカだからもうちょっと分かりやすく短く言ってもらえると……」
「……すまない」
 喉が渇いている。青森の田酒がグラス五杯ほどほしい。また俺が酔いつぶれたら、この少女は俺を拾って歌を歌ってくれるのだろうか。
 頭の中で過去の映像がぐるぐると旋回していた。高架下で貞治に告げられなかった別れ、中学の廊下で精市に伝えなかった真実、あの日とうとう言うことができなかった好意。成長した彼らはここにいるけれど、あの日の彼らはもうどこにもいない。
 けれどエマはここにいる。今、目の前に。

「つまり……お前のことが好きだから、お前がアメリカに行っている間も想わせてほしい……」

 言った。
 言ってしまった。
 そこで初めて気づく。異性に好意を伝えたのはこれが初めてだった。途端に羞恥心が込み上げてきて、顔を見られるのをまずいと思いエマを再び抱きしめる。
「……ほんと?」
 エマの声は震えていた。
「本当だ」
「レン、アタシのことが好きになったの?」
「ああ、根負けだ。完敗だよ。……今まですまなかった」
 金髪を撫でる。猫毛で絡まりやすいその髪を、しばらくは撫でることができない。緊張で指が強張っていた。口にできないようなことは散々やってきたというのに。
「あ、ああ……」
 エマは言葉になっていない声を発し、俺の背中に手を回してきた。その腕も強張っている。
「5年間……とりあえずは、それだけ頑張ってみようかなって」
「……そうか」
 五年後、俺は三十一か。大丈夫だ。エマが帰国した際にやっぱり無理でしたと振られても婚活には十分間に合う。また数年再起不能になったとしてもだ。
 そのようなことを考えていたら、急に彼女は俺と距離を取った。そして今度は彼女が俺の肩を強く掴む。
「待ってなくていい! 好きに恋愛してて良いから! アタシ、戻ってきた時にレンの女全員け散らせてレンを今度こそさらうから!」
 その瞳から大粒の涙がこぼれはじめる。彼女は言葉使いの割にしっかり者だが、時々とても泣き虫になる。
 ああ、愛おしいとはこういう時に使う言葉か。文学者志望が聞いてあきれる。
「レンが、今、アタシのこと好きならっ……それだけで5年間がんばれるからぁ……」
「お前、俺の今の言葉聞いてたか?」
「聞いてたよ! でもっ、現実味無さすぎてよく分かんない……」
「勝手に待ってるって言ってるんだ。待たせておけばいい」
「でもっ……」
 うるさい口を塞ぐ。おそらくエマが乗るはずである航空機の搭乗案内が始まる放送を聞きながら、月並みだが時が止まればいいと思っていた。頭が綿菓子のように甘ったるい靄で支配されているような感覚。十も年下の少女が愛おしくて仕方が無かった。俺も、今の彼女の言葉で五年間は生きていけるだろうと実感していたのだ。


 翌日、二日酔いかつ精市と貞治の冷やかしに耐えるという苦行を強いられたのはまた別の話である。当然ながら夜中とはいえ公衆の面前であのような破廉恥行為に出た記憶は俺の黒歴史、そして精市の遊び道具になるのである。

 その年の冬。俺は批評部門で文学新人賞を受賞し、エマからは向こうで音楽プロダクションに拾ってもらえたという知らせが届いた。何の当てつけか、彼女から届く便りはすべて鮫の写真が印刷された絵葉書だ。
 余談だが、アクアリウムバー『Mermaid』で飼われていたアナスタシアは予想外の急成長を見せ、水槽が狭くなってしまったため近くの水族館に引き取られた。今は広い疑似深海の中で仲間とともに泳いでいる。


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