少女と青年
 その日、砂漠の国アバンダルに一カ月ぶりの雨が降った。夜半前から降り出した天の恵みに濡れながら、不二は気絶した一人の少女を背負って城への道を歩いていた。その手足には切り傷が走り、血が滲んでいる。
 雨水が傷にしみたが、彼はその少女、アイシャを大切に背負ってただ歩いた。だが、城にもうすぐたどり着くというところで力尽きた不二は、そのまま地面に倒れ込んでしまった。


 目覚めた時、そこには見覚えのあるモザイクタイル張りの豪奢な天井が広がっていた。
「よぉ。色男が台無しじゃねーの」
 そして視界に飛び込んできたのは、ターリックの意地悪そうな笑顔である。ゆっくり体を起こそうとした不二だが、その途端体のあちこちに鈍い痛みが走った。
「まだ起きんな。……全身切り傷だらけでどうしたんだよお前」
「っ、アイシャは……?」
 不二の脳内で反芻される昨夜の出来事。不二は必死になってアイシャを探したが、彼女は意外なことに不二のすぐ隣で寝息を立てていた。
「お前よりちょっと前に目覚ましたんだよ。んで、お前の隣が良いって駄々こねてな。……まぁ、何があったかなんて、なんとなく予想ついちまうけど」
 アイシャの右頬は手当されていたが、確かに殴られた痕があった。
 あの時、アイシャの悲鳴を聞きつけた不二が見たものは、二人の男に襲われるアイシャの姿だった。口髭を蓄え頭にターバンを巻いた小太りの男が二人、アイシャに跨って服を剥ぎ、体をまさぐっていたのだ。その手には三日月のような形をした鋭い刃物が握られていた。
 不二に考えている暇はなかった。作戦も無しに飛び掛かった不二が、武器を持つ二人の男を退けることができたのは奇跡と言えるだろう。だが負った傷はけして浅くなかった。満身創痍の状態で、彼はアイシャを負ぶって仕方なく城へと引き帰した。そこしか行く当てがなかったのだ。
「いち早く発見した俺に感謝しろよ。衛兵に見つかってたらお前即刻処刑だったぞ」
「どうして」
「ったりめーだろ。暴行の痕がある王女背負って倒れてる男がいたら、打ち首にされるのは当然だ」
 少々怒ったような素振りで豪快に焼き菓子にかぶりつくターリック。お前も食うか? と差し出された別の細長いパイ生地の焼き菓子に、不二はそっと首を横に振る。
「しかしまぁ……お前ほんと根っからのお人好しなんだな」
「えっ?」
「普通見殺しにするぜ。……そんな大怪我まで負って、どうして助けた?」
 王女のこと、憎んでたんだろ?
 口の中で菓子を咀嚼しながら、彼はそう問いかけてくる。
「彼女が、子供だから……」
「は?」
「自分でもよく分からない。ただ、そうとしか言いようがない」
 不二は行き場のない感情をぶつけるように、アイシャが自分へ話したことをターリックに聞かせた。
 美しいものを穢したいと言った彼女。
 不二のことを羨ましかったと言った彼女。
 アイシャが不二に残酷な行為を行った理由。それを解き明かすのにもう一つなにか、決定的なピースが足りないような気がした。ターリックなら知っているかもしれない。不二はなぜだかそんな気がしたのだ。
 そして案の定、ターリックは全ての話を聞き終えたとき、少々切なげに微笑んだ。
「子供か……ああ、そうかもな」
「ターリック?」
「フジ。……これ聞いたら、アイシャ様のこと素直に恨めなくなると思うけど……それでも聞くか?」
 そう前置きするところからして、どうやらターリックもその話を誰かから聞き、アイシャに妙な情が湧いた口らしかった。すでにアイシャに憎しみ以外の何かを抱いてしまっていた不二は、戸惑うことなく頷く。
 ターリックは念のためアイシャがちゃんと寝入っていることを確認すると、小声で話し始めた。
「まぁ、あれだ。政略結婚ってヤツ」
「えっ?」
「アイシャ様な、12歳の時に隣国の王子のところへ嫁がされてんだよ」
 不二はその切れ長の目を見開く。彼女が結婚していたことにも驚いたが、何より耳を疑ったのはその年齢だった。
「12歳って……子供じゃないか」
「いや、でもここいらの国じゃ女子は一応12歳から結婚可能だ。でも男の方もちゃんと相手がまだ子供だってことを把握して娶るのがほとんど。上流階級は家同士の結びつきのため、下流階級は口減らしのため、ってのが早婚の主な理由だからな。その証拠に初産の平均年齢は16歳、まぁ当然だ。……ただ、アイシャ様の元旦那は、それを理解してないヤツだったらしい」
 これは俺も、侍女たちから聞いた話なんだけど。とターリックは俯く。
「ひでーもんだよ。たった12歳のガキ組み敷いて、ギャンギャン泣くから殴って蹴って、挙句『この女は不感症で石女だ』って離縁。……唯一の救いは、突っ返されたアイシャ様を、父上のサイイド王が温かく迎え入れたことくらいだな」
 ターリック曰く、その隣国とアバンダルでは隣国の方が国力で勝るため、王は強く抗議することができなかったそうだ。
「だからかな。14の時に帰ってきて、それから一年とちょっと。サイイド王はアイシャ様のやることを全て黙認してる。たぶんもう、嫁に出す気もないのかもしれない」


 腑に落ちない気持ち悪さと引き換えに、不二の心中は言いようのない同情心で埋め尽くされていた。その憐みの心が、アイシャにとってはありがた迷惑であることも理解していた。だが、その小さな体が経験してきた修羅の道を思うと、もう不二は以前のように彼女を悪魔とは言えなくなっていたのだ。
 この子はもしかしたら、このまま一生この宮殿の奥で、男を穢しながら暮らすのかもしれない。かつて自分を辱め傷つけた『男』という存在に、自分と同じことを仕返して。
 そんな薄ら寒い予感を抱きながら、不二は夜の市街地を窓から眺めていた。
「……フジ?」
 窓枠に座り、片足を外に投げ出して揺らす。その手には、あの混乱の中でも奇跡的にポケットの中で潰れずにいた青い花があった。その茎を親指と人差し指で摘みくるくると回す彼の背後に、小さな影が寄り添う。
「どうしてここにいるのだ……?」
「いたらダメ?」
「いや……」
 目覚めたアイシャの方へと向き直る不二に、彼女は咄嗟に目をそらす。その隙に不二は、アイシャの髪にその青い花を挿した。目を見開いて呆けるアイシャに、不二はそっと微笑む。無意識のうちに零れた笑みだった。
「キミの方が似合うよ」
 途端、小麦色の頬が赤く染まった。そしてその褐色の瞳が潤み、薄く色づいた唇は歪む。
 何かを堪えるような表情の彼女を、不二はじっと見据えた。
「世辞はやめてくれ……」
「お世辞じゃないよ。花は女の子に似合うものなんだ」
「違う。……私に似合うのは」
 言葉は一度そこで切れた。そして、彼女は軽く息を吸う。
「……似合うのは、汚れとか、悪臭とか、欲とか下品な笑い声とか……そういった、不快なものだ」
 フジとは正反対なものばかりだ。そう吐き捨てるように呟き、足早に去ろうとする彼女。華奢な手を掴んだのは、他でもない不二の右手だった。
 男にしては華奢なその腕が、少女を力強く引き寄せる。


 重なった唇は、ほんのり甘い様な気がした。


「……フジ……これは?」
 一瞬で離れた唇をなぞりながら、アイシャは首を傾げる。アイシャとは今まで一度も口づけをしたことがないという事実に、不二はこの時初めて気が付いた。もしかしたらキスの習慣が無いのかもしれない。彼はそう仮説を立てる。
「今まで、こうやって唇を誰かとくっ付けたことは?」
「……ないぞ。これに何の意味がある?」
 自分が想像していたよりもずっと早く、ずっと厳しい状況下で、女としての誇りを奪われていた少女。不二の心中では、同情から何か別の気持ちが生まれようとしていた。唇を重ねるという行為が理解できないアイシャに、彼はもう一度キスをする。今度は深く、ゆっくりと舌を絡めるように。
 息苦しそうに縋りついてくるアイシャを感じ、不二は優越感を抱く。それは独占欲によく似た恋慕だった。
「アイシャ。僕以外と、こういうことをしちゃダメだよ」
「えっ……?」
 不二のその言葉に、ますます首を傾げるアイシャ。
「何故?」
「さぁ、何故でしょう」
「っ、フジ!」
「周助」
「えっ」
 不二はその唇で弧を描き、穏やかな声でもう一度その単語を繰り返した。この一カ月間誰にも呼ばれることがなかった、懐かしい自分の名前だった。
「しゅうすけ。はい、言ってごらん」
「……シュースケ?」
「よく出来ました」
 不二の胸の内に温かみが広がった。アイシャの口から紡がれた自分の名は、甘く、優しい響きだった。


 すべてを許すことなどできない。この気持ちが純粋な恋心でないことも彼は自覚していた。憎くて憎くて仕方がなかった相手に対して、ちょっとしたきっかけで抱いた関心。そこから芽生えた、ひどく不安定な同情心と独占欲だ。アイシャの大きな褐色の瞳に映る自分の様を、不二はぼんやりと眺める。見たことのない自分の表情だった。
 憎しみから生まれた憐みは、はたして恋愛感情になり得るのだろうか。
 傷つけてしまった相手から、愛を乞うのは罪なのだろうか。


 二人がその答えを出すのは、また別の話。


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