情夫と少女
 情夫生活28日目。とうとう不二の涙が流れることはなくなった。
「どうしたのだ、フジ!? どこか体調が悪いのか? 待っていろ、今医者を呼んでやる」
 そのことに関して一番取り乱したのは、他でもないアイシャだった。不二の涙を気に入っていた彼女は、それを見られなくなってしまったことに大層衝撃を受けたようだった。国中の名医に彼を見せたが、もちろん本当のことを言える医者などいない。神経を高ぶらせる効果があるとされる薬草を調合する者もいたが、不二にその効き目が表れることはなかった。
「アイシャ様。彼は、心が麻痺して泣けなくなってしまったのです。……心の病気です。治す方法はただ一つ、貴方がもう酷いことを彼にしないことでございます」
 そう助言した精神科医は、その日のうちに処刑された。
「アイシャ様。もうあのような欠陥品は放っておきましょう。表情一つ変えない男と遊んだって、何も楽しくないじゃないですか」
 そう発言した情夫も、アイシャに散々殴られた末に翌朝処刑された。
 自分の女主人が短い期間で二人も殺した。その事実を目の当たりにしてもなお、不二の表情が変わることはなかった。不二は今、アイシャの部屋のさらに奥にあるアイシャの寝室で横になって、ただ呆然と日々を過ごしている。そんな彼にアイシャは何かと高価な貢物をしたが、それが見当違いであることは誰の目から見ても明らかだった。
「アイシャ様……」
 不二の首へ、アイシャが彼の瞳と同じ色の宝石が埋め込まれたチョーカーを付ける。その手を取って、不二はあくまで義務的に愛撫を施した。貢物の礼は体で。それは不二がここに連れてこられて教え込まれたことの一つだった。
「フジ……どうして表情を変えない? こ、怖いぞ、お前……」
 丁寧に愛撫を施していく指先に、情は一切籠っていない。城内では「王女が新しく拾った人形に大層ご執心だ」という噂話が広がっていたが、正しく人形のようであった。
 アイシャはたまらず、目の前でただ自分に奉仕する青年をぎゅっと抱きしめる。だが、不二の表情に変化はなかった。


 明け方。アイシャが侍女を伴って水浴びへと行っている間、彼女の寝室に忍び込んだのは例の男だった。
「よぉ、食うか?」
 彼はミルフィーユのように何重もの層を重ねて焼き上げた焼き菓子を、一切れ差し出してくる。力なく寝台に横になっている不二は、その問いかけに答えなかった。
「その内慣れると思ったんだけどなぁ……」
 諦めたのか、彼は自分でその焼き菓子を口に含み始める。食べかすが彼の足元に落ちた。
「でも俺、お前が何にそんな絶望してんのか分かんねぇよ。……好きなもの食えるし、酒は飲めるし煙草は吸えるし、高価な服とか宝石に興味はねぇけど、女抱いて衣食住の面倒見てもらえるなんて最高じゃねぇの」
 明るい声音でそう告げる彼。見る見るうちに手に収まっていた焼き菓子は消え、最後に彼は手に付着した甘いべた付きを舐め取った。
「そういや名乗ってなかったな。俺はターリック。たぶん極東出身だけど物心付いたころから奴隷市場でたらい回しにされてたから、本当の名前は知らねぇんだ。ターリックの名はアイシャ様が付けてくれた」
 しかしお前、珍しい組み合わせだよな。黄色の肌に茶髪碧眼とかさ。と興味深そうに不二を覗き込んでくる褐色の目。不二は億劫そうに眼球だけを動かして、そのターリックと名乗った青年の方を見た。典型的な日本人顔である。人懐っこい笑顔が、どこか彼の旧友を彷彿とさせた。
「アイシャ様のことは嫌いか?」
 不二の横に腰掛け、ベッドサイドに置いてあった酒瓶を手に取り蓋を開けようとするターリック。不二はやはり、下半身に布をかぶせたまま、その場からピクリとも動かない。
「まぁ、なんだ。そんな悪い人じゃねーよ。ちょっと世間知らずで高飛車だけど、血も涙もある普通の女の子だ」
「どこが……」
 その時初めて、不二が初めて声を出した。押し殺していたものが堪えきれずに吹き出していくのを、彼は感じ取っていた。だがそれを再び抑え込む気はしなかった。
「フジ……?」
「自分が気に入らないからと言って、人を平気で殺す。気に入ったからと言って無理やり囲う。望まない性行為の強要、自尊心をわざと傷つけるような言動の数々! これを無知だとか高慢だとか、そんな言葉で僕は片付けられない! あの子は悪魔だ!」
 捲し立てるように不二がそう叫び終えたのと、何か硬い物同士がぶつかり合う衝撃音が響いたのはほぼ同時だった。
 不二とターリックの視線が、入口の方へと向かう。そこには目を見開いて立ち尽くすアイシャがいた。その足元には、高価そうな青い宝石が埋め込まれたイヤリングが二つ転がっている。
「ち、違うんだアイシャ様! これは……」
 慌てて取り繕おうとするターリックを片手で制したのは、他でもない不二だった。彼は寝台から起き上がり、ゆっくりとした足取りでアイシャへと向かう。ここへ来た当初、裸になるのを必死になって抵抗した面影はもうない。一糸まとわぬ姿で、彼は何の感情もなく王女の前に立った。
「悪魔」
「っ!!」
 光を映さない、薄暗い海色の瞳がアイシャを射抜く。
「早く僕を殺してよ」
「ふ、フジ……。やめろっ……」
「帰せよ……元の世界へ、帰せっ……!」
 かぶりを振りながら後退するアイシャの両肩を不二が掴む。
「もうキミの顔を見たくないんだ……」
 その時、数週間ぶりに不二の表情が変わった。憎悪と悲哀によって歪められたその顔は、確かにアイシャが見たがっていた『表情』だった。だが、アイシャは不二を突き飛ばして勢いよく離れた。その頬には今まで見ることのなかった、アイシャの涙が伝っていた。
「ごめんなさい……ごめんなさいっ」
 朝日の差し込む室内には、ただアイシャのすすり泣く声だけが響いていた。




 砂漠の国の太陽は何事もなかったかのように昇り、沈んでいった。夜中まで相手をさせられることの多い情夫たちは、基本的に太陽が昇っている間は寝ている。ターリックを初めとした三人の情夫が部屋で寝静まる中、不二はただ寝室の窓辺に腰掛け空を眺めていた。アイシャは明け方に泣きながら部屋を出て行ったきり、帰ってはこない。
 血も涙もない悪魔だと思っていた少女が、自分の前で声を上げて泣いていた。不二は明け方に見たアイシャの泣き顔を思い出す。その泣き顔だけは年相応だったと、不二はやっとアイシャが自分より年下であることを認めることができたような気がした。だからと言って、今まで彼女がしてきたことを許すことはできない。
 不二はその鳥籠の中から地上を見下ろす。それほど高くはないが、頭から落ちれば死ぬことができるだろうか。そんなことを考えながら、不二は窓から身を乗り出す。日が沈んだ後のことだった。砂漠の冷たい夜風が頬を撫で、足が浮くような感覚を覚える。ほんの少し勇気を出せば、この手を放すことができる。不二は本気だった。
「フジ?」
 縋る様な呼び声と同時に、不二の上着が力なく引かれた。振り返ると、そこにはアイシャが俯き立っていた。
「何か用?」
「死ぬ、のか?」
 上着を掴む手は弱々しく、不二の力なら簡単に払えそうだった。不二はそのしおらしいアイシャの態度に苛立ちを覚える。
「随分な豹変ぶりだね」
「……」
「この間まで、僕を泣かせることで快感を得ていた変態が。……どういう風の吹き回し?」
 不二の声に抑揚はない。それがかえってアイシャを怯えさせる原因になったようだった。しかし今にも泣き出しそうな年下の少女を前にしても、不二の怒りが収まるはずもない。
 いつか覚める夢だろうと、高を括っていた。痛みを伴う夢なら、なるべく痛くない方へと進んできた。その結果がこれである。不二はいつの日か、死ぬほどの痛みを味わったとしても早く目覚めたい、と願うようになっていた。
 その結果たとえ目覚めることがなかったとしても、この生活を続けるよりは良い。自暴自棄になっていた不二に怖いものはなかった。口から滑り落ちてくるのはアイシャへの罵倒。
「淫乱。売女。キミみたいな女に、泣く資格があると思ってるの?」
 不二の脳裏に今までアイシャにされた屈辱の行為が蘇る。死を望むが故の言葉。しかしそれ以上に、不二は今自分の目の前でしおらしく泣く少女が、あの悪魔と同一人物であることを彼は認めたくなかった。
「泣くなよ……。いつもみたいに酷くして、僕を殺せよっ!」
 寝室の青い絨毯の上に、二人分の涙が落ちる。
 自分はこの少女を死ぬほど憎んでいるというのに。そしてこの少女は自分のことを、ただの奴隷としか思っていないのに。どうして同じ場所で泣き合っているのか。不二はそのことが不思議で仕方がなかった。
 そして、しばらくするとアイシャはサテン生地の袖で目元を拭い、不二を真っ直ぐ見据える。
「フジ……ついてこい」


 アイシャは象牙色の布を頭から足元まですっぽりと被り、不二にも同じ布を渡して寝室のベランダへと出た。そしてその後彼女が隣の部屋のベランダへと飛び移った時は、さすがの不二も一瞬肝が冷えた。しかし何食わぬ顔で次は隣の棟へ移ろうとしているアイシャ。無言で顎を動かし、不二に着いてくることを促した。彼は仕方なく布を被り、ベランダを飛び移る。
 建物を二回ほど飛び移り、木を伝って地上へ降りる。看守の目を盗んで宮殿の外へ出た時、夜はすっかり更けていた。満月は街を明るく照らし、アラビアンナイトの神秘性を助長している。岩を削って作ったブロックを積み上げて建てた家。それらが立ち並ぶ裏通りは、心地よい静寂に包まれていた。
「私は、美しいものが好きだ」
 入り組んだ人気のない道を数分あるいた後、口を開いたのはアイシャだった。
「フジは美しい。……だから、死んでほしくない」
 彼女は纏った布の内側から、青い花を取り出した。それは不二の知らない花で、薔薇に似ていたがそれよりは花びらの枚数が少なく、丸みを帯びていた。青い椿と言えばそれが一番近いかもしれない。


 アイシャは、その花をそっと不二の髪に挿した。
「やはり、良く似合う」
 不二は思わず息を呑んだ。
 不二を見て微笑むアイシャが、この上なく可憐な乙女に見えたからだった。


「フジ。この道を真っ直ぐ行けば街道に抜けられる。お前がどこから来たのかは分からぬが、その道を西に行けば青い目の者がたくさんいる国へ、東に行けば肌が淡い黄色の者が住まう国へ行けるはずだ。分からなければ数週間に一度通るキャラバン隊に乗せてもらうと良い。旅慣れした気の良い連中が多いと聞く」
 一瞬で表情を元に戻したアイシャは、そう言って不二の背後に伸びる道を指差す。
「食べ物に困ったらお前が身に着けている貴金属を売れ。当分の生活には困らない」
「えっ、と……」
「行け」
 口ではそう言っていても、彼女の手は不二の手を掴んだまま話そうとはしなかった。
「行け。どこへでも行ってしまえ。……だから、殺せだなんて言うな」
 不二は戸惑う。縋る様に己の手を掴みながら、そう言う彼女が本当に誰なのか分からなくなっていた。無理やり自分を情夫にして、身ぐるみを剥いで慰み者にした。男としてのプライドを、丁寧に一つずつ折っていった悪魔。魔性の女という言葉が相応しかった彼女が、年相応の表情で自分を解放しようとしている。
「どうして……」
「えっ?」
「そんな簡単に開放するくらいなら、どうしてあんなに、ひどいことをしたの」
 不二の表情が悲痛に歪む。アイシャは暫く何も言わなかった。
 やがて、ゆっくりと口を開く。
「美しいものを見ると、穢したくなる」
 彼女は力なく項垂れる。
「みんな最初はフジみたいに振る舞うのだ。男としての矜持を砕かれ、少なからずショックを受ける。だがそのうちに順応し、私に好かれれば優遇されるのだという事を知り、欲に溺れていく。私に気に入られれば高価な貢物を手に入れることができると、味を占めて我先にと胡麻を摺る。……その時初めて、人は穢れるのだ。そして私は満たされる」
「悪趣味だね」
「理解している。……だが、フジは穢れきる前に、一度壊れてしまった」
 不二の両手を、アイシャの小さな掌が包み込む。俯く彼女の額が不二の胸部にくっつきそうになるほど、彼女は不二に接近していた。不思議とそのことに、彼は嫌悪感を抱かなかった。
「本当に美しいものは、穢れずに壊れてしまう。私のような矮小な存在に、お前を穢すことは無理だったようだ。……いい勉強になった。じゃあな!」
「!?」
 そして、手を放した彼女は、一瞬だけ不二の頬と髪に挿した花に触れて、元来た道を掛け出した。
「アイシャ!!」
 その口から王女の名が飛び出したことを、一番驚いたのは他でもない不二自身だった。アイシャは金縛りにあったように静止し、一度だけ振り返る。
 泣き出しそうな表情だったが、それでも辛うじて笑っていた。
「お前が羨ましかったんだ……っ、すまなかった」
 象牙色の影が、裏通りの入り組んだ道へと消えていく。不二は暫くその場から動くことができなかった。

 不二は自分の髪に挿し込まれた花を抜き取る。自分の瞳の色と同じ青だ。そういえば、彼女は自分への貢物の多くに青い宝石が埋め込まれたものを用意していた。そんなにこの目が好きだったのだろうか、と不二は花を眺める。
 美しいものを穢したい。そう告げた彼女は確かに苦しげに見えた。そのことに気付いた不二は、アイシャの最後の笑顔を思い出す。
 もしかしたら、彼女は本当にただの子どもだったのかもしれない。ただ、自分よりも綺麗だと思ったものに嫉妬していただけだったのかもしれない。
 子供特有の無自覚な残酷さに、不二は今まで自分が抱いていた憎しみが、消化できない気持ち悪さに変わっていくのを感じた。憎んでも憎み切れない。そもそも、相手が子供だったのだとしたら、本気で怒っている自分が大人げなく思えてくる。呆気なく終わってしまった屈辱の日々に、さてこれからどうしようという絶望だけが残った。途方に暮れ、不二は月を見上げる。


 その時だった。
 人気のない通りに響く少女の悲鳴。それは微かな音だったが、確かに不二の鼓膜を震わせた。そしてアイシャの悲鳴に違いなかった。
「アイシャ……!」
 元来た道、アイシャが消えていった道を、不二周助は駆け出した。その時彼は何も考えていなかった。
 ただ、あの王女の寂しげな笑顔だけが、彼の脳裏を支配していた。


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