彼女が紡ぐ『真相』
 私は一枚のメモ用紙を握りしめたままその喫茶店を出て帰宅した。Dさんの友人に渡されたものだ。そこには神経質そうな筆跡で11桁の数字が書かれていた。緊張で胸が高鳴るのは、記者としての本能か。それともただ純粋に、憧れだったBさんとの確かな繋がりがここにあるからなのか。震える手を押さえて携帯でその番号をなぞる。Bさんの声はDさんが真似た声とそっくりな、柔らかくて優しいソプラノだった。
 取材を始めてちょうど三日目の朝、私はやはり都内の某喫茶店で彼女と待ち合わせることになった。
 Bさんは待ち合わせ時間の10分前に到着した。
 彼女は私が知っている舞台上の姿とは大きく異なった風貌で現れた。艶やかだった胡桃色の長髪はバッサリと切られ、さっぱりとしたベリーショートの髪型をしている。シンプルなコートを脱ぐとその下はやはりシンプルなTシャツジーパン姿だった。どちらかというと女の子らしく甘い顔立ちをしている彼女にその格好はハッキリ言って少し違和感を覚える。可愛らしいデザインのワンピースなどの方が似合うと思うのだが。
「えっと……初めまして」
 Bさんは席から立ち上がり挨拶をした私に対して、上目づかいにそう言葉を返した。その表情には明らかに怯えを映している。互いに席に着いた後、彼女は戸惑いながら私にこう問いかけてきた。
「あの、私のことを記事にしたいというのなら止めません。私が犯した罪なので。でも、私の周りに迷惑がかかることだけは」
 どうやら話はDさんやDさんの友人たちからは伝わっていなかったらしい。私は今回の件は全くもって私情による取材であること、記事は作るがあくまでそれはバレエ団と立海大を非難する内容であってAさんとBさんのプライバシーは必ず守るということを伝えた。私がなぜこうもBさんのことについてこだわっているかの説明や、前日までの取材で分かったことも付け足しつつ。すべてを話し終える頃には、彼女の怯えも消えていた。
 Bさんの表情は諦めからか懐かしみからかひどく寂しそうな表情を浮かべ、それでもなお彼女は心の底から『可愛らしい』という賛辞が似合うと思える人だった。
「私のファン?」
――ええ。初めて出会った18の夏から、23の冬に貴方が引退するまでずっと見ていました。
「……そうですか」
 嬉しい。
 そう言って笑った彼女は、まさしく天女と見違えるほどの愛らしさを纏っていた。
「貴方が知りたいとおっしゃるなら、私はかつて私を応援してくれていた貴方へのせめてものお礼に、すべてをお話ししたいと思っています。それに何より、貴方には私の大切な人たちへの誤解を抱えたまま記事を書いてほしくない」
 Bさんが頼んだアイスティーの氷が、店内の暖房の熱によって溶けて小さく音を立てる。彼女は注文したそれに口を付けることなく、居住まいを正した。

「Dくんは私を騙したわけじゃないんです」
 彼女の話はその一言から始まった。
「何をやっても上手くいかない時期がありました。コンクールでは入賞圏内に入れず、練習でも先生に怒られ、挙句Aには実力差を見せつけられる毎日。周りのバレエ関係者からも、BはもうダメだとかAのライバルにはなれないだとか好きな事ばかり言われました。金がかかりすぎるから才能がないなら辞めてしまえと父に言われたこともありました。母も、故意なのかそうでないのか私の前でAちゃんばかりを褒めて。……私が苦しんでいる間も、AはCくんと仲良さそうに笑い合っていました。AとCくんが惹かれ合う理由は、頭ではよく分かっていたはずなのに心が納得していなかった。結局どっちに嫉妬しているのかも分からず、私はその悔しさを糧に彼女たちが遊んでいる間も必死に練習した。けれどやっぱりAにはどうやっても勝てなかった。人には誰しも向き不向きがあって、Aを恨んだところでどうにもならないと分かっているのに。私は、うまくいかない理由をすべてAに押し付けていた。その癖親友だった彼女に嫌われるのが怖くて、不満を口に出すことが出来なかったんです。今も昔も、変わらず私は弱虫でした」
 そんな時、ハマっていたストレス解消法があったんです。と彼女は自嘲を浮かべてそう言った。
――どんな内容ですか?
「死んだふりごっこ」
 私はただ目を見開くばかりで、感嘆詞すら漏らすことができなかった。
「授業中に体調が悪いって言って教室を抜け出すんです。その足で保健室ではなく屋上へ向かって、柵を乗り越えて外側の僅かな隙間に立って、目を閉じるんです。風が唸り声を上げながら下から吹き上げて、潮の匂いが肺にいっぱい満ちて、足元が一瞬だけふわりと浮く感覚がします」
 彼女の表情は酷く安らかだった。
「その瞬間、私は一回死ぬんです。それから後に起きることはすべて死んだ私が勝手に見てる夢。だから、どんな辛い状況でも私は踊っていられる」
 それは、当時たった14歳だった彼女にとって、悲しすぎる処世術だった。
「その危険なストレス解消法を始めたのは中学三年の二学期からでした。一種の麻薬みたいな行為だったんです。そのうちに、一日一回は必ず死んだふりごっこをしなければ呼吸が苦しいほどにまともでいられなくなった。だから私はあの日も、私は懸命に柵を上った」
――あの日?
「ええ。忘れもしない9月中旬、まだまだ湘南は照り返しが眩しかった」

 私、柵から足を滑らせたんです。


 喫茶店の店内では、50代のマダムたちが暇を持て余して大声で世間話をしていた。店員が歩く足音や何やらビジネスの話をしているサラリーマンたちの声が響く店内で、ただ私たちだけがその場を切り取ったような静寂に包まれていた。
「罰が下ったんだって思いました。辛うじて屋上のコンクリートの出っ張りに両手を掛けることはできたけれど、私ひとりの力じゃおそらく30秒も持たなかったと思います。大声を上げようとしても恐怖で喉が縮み上がって妙な泣き声しか出せなくて。ただひたすら死にたくなかった。まだ踊っていたかった。Aにも勝ちたかったし、お父さんにもお母さんにも私が一番になっているところを見せたかった。AやCくんと同じ光に、一度でいいから当たりたかった」
 ああ、そうか。彼女がまだここでこうして話ができているということは。
「その時、男の人が私を呼ぶ声がしたんです」
 彼は、助けてしまったのか。偽りの姿で。

「今助ける、絶対にうごくな、って。そう叫んで左手を伸ばすCくんが、私には神様に見えた……っ」

 それは、神の子に擬態しようとしたDさんへの罰だったのだろうか。それとも、偽りの死に縋ろうとしたBさんへの報いだったのだろうか。

「気が付けば私は、命の恩人であるはずのCくんに今まで抱えていた不満を全てぶつけていました。死にたいのに死にたくない。踊りたいのに踊りたくない。大好きだけど、大嫌い。Cくんはただ黙って私を抱きしめてくれていて、彼の体からは少し甘い香水の香りがしました。彼の温もりに包まれながらその匂いを嗅いでいたら、段々冷静さを取り戻して。謝ろうと思って彼から離れようとしたら、Cくんは私を強く抱きしめてこういってくれたんです。『俺は、Bさんの踊りが好きだよ』って」
 嬉しかった。
 そう呟いて泣き出しそうな顔で笑った彼女。私に対して嬉しいと言った時とは、言葉のニュアンスも彼女が纏う雰囲気も全く異なっていた。
 彼女曰く、Cさんに扮したDさんとの秘密の逢瀬は、その日から一か月半ほど続いたらしい。


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bkm
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