数多の天才が存在した故に
 喫茶店から出た私が携帯を確認すると、すでに時刻は夕方の5時を回っていた。取材を初めて二日。明日は本社に戻ってバレエ団と立海大付属についての記事を書かなければならない。結局Bさんの話は直接聞けなかったが、ここまで六年前に事件があった証拠が揃ったなら余裕で記事は書けるだろう。Aさんが言った「隠ぺいを承諾したのは自分だ」という証言が引っかかったが、それでも書かなければ私が編集長から怒りを買うことになる。結局AさんやBさんを潰したのはDさんだったという結論に達したが、そこも上手く誤魔化してバレエ団内での軋轢が原因だとでも書けばいいだろうと計算していた。
 その時だった。私の携帯に一本の電話がかかってきたのは。
 電話の主は、元立海大付属のテニス部でDさんの友人と名乗る男性からだった。丁寧な言葉遣いの彼にどうしても話したいことがあると言われ、私は彼に呼び出されるがまま都内の別の喫茶店まで赴くことになった。
 彼は眼鏡をかけたいかにも誠実そうな好青年で、おおよそ不良っぽいDさんとのつながりが見えない清廉な雰囲気を醸し出していた。訊けば有名私立大学の医学部生だという。彼は恐る恐る、Dさんが私に何を語ったかを問いかけてきた。私がDさんから聞いた腹立たしい事実を全て話せば、彼は深いため息の後に頭を片手で抑えた。
「申し訳ありません。私の口からは詳しく語れないのですが、それは貴方の言う『真相』のほんの表面に過ぎません」
――では貴方は真相のさらに奥にあるものをご存じなのですか?
「知っていると言えば嘘になります。いいえ、実際知らないことの方が多いでしょう。でも、Dくんが軽い気持ちでBさんの気持ちを弄ぶようなことなんて絶対にしないということだけは、知っています」
 説明の言葉端々から、私のDさんへ対する嫌悪感を感じ取ったのだろう。彼はレンズ越しに冷ややかな情熱を秘めた目で私を見据えた。しかしそれは彼が男性でDさんの友人だから言えることなのだろう。だいたい、テニスの技術向上のためとは言え友人に成りすますというその発想が理解できない。余程奇天烈な思考回路をしていたのだろう。テニスではなく宴会芸人にでもなっていた方が良かったのではないか。
――弄ぶ気持ちがなかったのだとしたら、Dさんは余程自分に自信がなかったのですか?
 自分ではない姿で他人と密接な交流を持つなど奇人変人の域だ。そんな気持ちを内包させながら、私は彼にそう質問した。いいや、質問というのは形式ばかりでほとんど八つ当たりに近かっただろう。
 彼は暫く黙りこくった後に、静かにこう告げた。
「いいえ。自信があったからこそ、彼は日々模倣の技術を磨いていたのでしょう」
――どういうことですか?

「テニスに限ったことではありませんが、どの分野にも天才というものは必ず存在しています。そして一言で天才と言っても多種多様です。難易度の高い技をいくつも扱いこなせる天才、ある一部分の技術のみに特化した天才、努力の天才、分析力に長けた天才。そしてそれらのすべてを凌駕した、理屈では説明できない天才。それがCくんやAさんだったのだとしたら、Dくんは間違いなく、模倣の天才でした」
 どれほど模倣が難しいとされた名選手でも、いとも簡単にプレイスタイルを模倣してしまえるのです。そう語る彼の眼は寂しげに輝いていた。
「Dくんはその模倣の最後の砦としてCくんを見ていました。そこには私などが推し量ることなどできないくらい、複雑な感情が渦巻いていたはずです。チームメイトとしての友情、同じテニスプレイヤーとしての嫉妬、そして男としての羨望。Cくんは誰にでも等しく憧れと嫉妬の対象でした。誰もがCくんのようになりたいと願い、そしてそれは無理な願いだと悟っていたのです。けれどDくんはCくんにならなければならなかった。何故だか分かりますか?」
 私は答えることが出来なかった。
「それが彼に課せられた役割だからですよ」
 Cくんは学生時代、コート上の詐欺師という異名でジュニアテニス界では恐れられていたらしい。Cさんは神の子、Aさんは天才少女、BさんはけしてAさんには勝てない二番手。
 完成したと思われたパズルがとても歪な形をしているのに、たった今気が付いた。
「詐欺師は自分でないことが自分なのです。自分を主張しないことが自分である証なのです。初めは彼もただの遊び半分で仲間やライバルの技を物まねしていました。そのうちレギュラー入りして、頭角を現すようになって。誰が言い出したのか『詐欺師』などと大層な二つ名を付けられて、後戻りができなくなってしまった。しかし彼はそのプレッシャーに押し殺されることなく、勝手に押し付けられたイメージを自分のプレイスタイルとして受け入れ、誇りに思っていましたよ。それこそ、日常の数少ない『自分が自分でいられる時間』を削ってまで、模倣の研究をするほどに」
 貴方はそれでも、Dくんを軽蔑しますか?

 私にその結論を出す権利はない。おそらく誰にもそんなものはないのだろう。Dさんだけにその権限がある。
――どうしてDさんは、不本意なイメージを黙って受け入れたんでしょうか?
「さぁ。私には皆目見当がつきませんが、おそらく自分が生き残るにはその手に乗るしかなかったのでしょうね」
――と、言いますと?
「先ほども言ったでしょう。天才とは多種多様ですと」
 彼は眼鏡を押し上げて足を組み直した。
「私たちの世代はとにかく個性的なプレイヤーの宝庫でしてね。校内も校外も癖のある天才プレイヤーばかりでした。その中でDくんが勝ち残るための唯一の手段が、変幻自在のカメレオンになることだったのかもしれませんね」
 たとえそれが他人の色であっても、その化け物たちと戦うために彼は模倣を受け入れたのではないでしょうか。


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bkm
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