抗う道化
 大きめの段ボール箱に洋服を片っ端から詰めていった。別の箱には大量の本が、また別の箱には日用品が詰まっている。身一つで来てくれれば大概のものは買ってあげると言われたが、私はあの人に買ってもらった服をのうのうと来て歩ける自信がなかった。
 引っ越しはとうとう三日後まで迫ってきている。必要最低限の物のみを残して、私は荷造りをしていた。三日後には私は東京で彼との同棲が始まる。彼のお母様はあからさまに不快そうに顔を歪めていたが、なにも口出しをしてこなかった。最近になってやっとあの親子の本当の力関係を理解できた気がする。
 あの人は母親に逆らえないマザコンなんかじゃない。母親を上手くコントロールした上で、憎まれ役をすべて母親に押し付けている。
「楓? 入るわよ」
 ノックの音と共にかかる声。こちらが頷くよりも早く扉を開けた母は、部屋には入ってこないで扉の隙間から顔を覗かせた。
「買い物行ってくるけど、一緒に来る?」
「なんで?」
「ほら、数日前に変な男が家に来たばかりでしょう? 物騒だから」
 変な男だなんて言わないでほしい。この世で一番美しい人なのだから。
「大丈夫だよ。鍵かけてあるし、カーテンも閉じてるから」
「……そう」
 どこか心配そうな表情を残したまま、母さんは扉を閉めた。しばらくすると玄関の扉の開閉音が聞こえる。父さんは仕事、姉さんは。
 姉さんとは、しばらく顔を合わせていない。
 バレエ団との再契約の話は自ら蹴ったと聞いたし、婚約者もそう語っていた。今はどこで何をしているのか分からない。もしかしたら両親は知っているかもしれないが、私のところまで情報は回ってこなかった。おそらく不二周助の家だろう。
 今頃、姉はあの男と。
「……」
 昔こっそり姉の部屋から拝借したものを、分厚い辞書の間から抜き取った。
 中学年一年生の時の体操着姿の可愛らしい幸村さんが、リレーのバトンを持ちながらはにかんでピースをしている写真だ。高校一年生の頃、姉がいないのをいいことに幸村さんがたくさん写りこんでいるアルバムを自由に取り出しては眺めていた時、たった一枚だけ見つけた幸村さん一人だけが写っていたものだ。思わず盗んでしまったが、バレてはいない。
 お守りだった。ずっと隠し持っていた。
「幸村さん」
 なぜ、もっと早くに気付かなかったのだろう。
 あの男の言っていることはもっともかもしれない。私は彼と私の境遇を重ねているだけで、もしかしたら幸村さんが姉に片思いしていなければ見向きもしていなかったのかも。
 けれど。
『事情が変わりました。あの日のことは忘れてください』
 あの時の胸の痛みは本物だった。疑いようもないくらい、私は彼への愛おしさと罪悪感でいっぱいだったのだ。
 酷いことを言っている自覚はあった。あんなに辛い演技など今までしたことはない。あの後私の暴言にも愛想を尽かさずにずっと外で立ち尽くしている幸村さんが見ていられなくて、警察を呼んだ。風邪をひいてしまうかもしれない、熱を出してしまうかもしれない。もうこれ以上、私なんかのために彼の体を冷やさせるわけにはいかなかった。
 しかし、今となっては自分があそこまで必死になって守ろうとしたものがなんだったのかよく分からない。
『自己犠牲でしか自分の価値を見いだせないの?』
 今はただ、いつ殺されるか分からない姉と両親の生贄として黙々と荷物をまとめる毎日。しかしその姉がこの言葉を言っていたのだ。
 これで私がすべてを投げ出し幸村さんのもとへ逃げ出して、姉が殺されたとしても。彼女は文句を言えない。

 そんな薄暗い妄想を無意識のうちに抱いていた自分に寒気がしたのは、日がだいぶ傾いてからだった。今すぐにでも幸村さんのもとへ駆け出したい体を納得させるのにも限界が来ている。けれど一度決めた道だ。どうせ幸村さんにももう嫌われてしまっている。
 そう思い、この写真を姉の部屋のアルバムに戻そうと考え付いた、その時だった。
 コンコンと、窓際から音が二回聞こえた。
「?」
 何だ。まさかまた窓枠の上にスズメが巣を作ろうとしているのか。数年前のスズメの巣駆除大騒動を思い出して、慌ててカーテンを開ける。見たところスズメの影は見当たらないようだが。
「はぁ」
 ため息をひとつ。一応、窓枠の上を覗いておこう。そう思い窓を開けてベランダに出た、その時だった。
「ひっ!?」
 大きな手に後ろから抱きこまれた。悲鳴を上げようとした口はごつごつとした手のひらに抑え込まれ、そのまま部屋の中に引きずり込まれる。背後であわただしく窓が閉まってカーテンが閉じられるシャーッという音が聞こえた。私の体を押さえていた手が離れたその隙に、思いっきり鳩尾に肘を叩き込む。呻き声と共に不届き者が崩れ落ちた、よし。
 まだ閉じられていない段ボールの中から分厚い本を数冊掴んで投げようと振り向いた、その時だった。
「楓、容赦ないなぁ」
「ゆっ!?」
 お腹を押さえて蹲っているのは、先ほどまで私の頭のほとんどを占領していた、美しい人だった。
 そうとう痛かったのだろう。歪められているその顔を見て、自分から血の気が引いていくのが分かる。
「ご、ごめんなさいっ! 救急車呼びますかっ!?」
「いや、そこまでではないけど。ちょっとショックだなぁ、俺一応鍛えてるんだけど」
 何か格闘技とかやってたの?と少し茶化しながら立ち上がろうとする幸村さん。だがその足取りはどこか覚束なく、私は慌てて制して自分のベッドに寝かせようとした。
 だがその時。
「……え?」
「捕まえた」
 彼の体を支えていた手を取られて、引かれた。肩を押さえつけられて、柔らかい布団の上に押し倒される。先ほどまで苦しそうに歪んでいた顔は、雄っぽいどこか野性的な笑みを浮かべていた。
 えっと。
「か、帰ってください」
「いやだ」
「警察呼びま……」

 言葉は乱暴なキスで妨害された。
 片腕で頭部を押さえつけられ、逃れる術を失われる。何度も何度も角度を変えて押し付けられる唇に、なんだか食されているような気分になった。わずかに離れた隙に息を吸おうと口を開けば、待ってましたとばかりに深く口づけられ、咥内を柔らかな舌で蹂躙される。身長にそう大差があるわけでもないのに、体を押し返してみてもビクともしない。そうか、演技だったのか。そうだろうな。
 歯列をなぞられ、舌を吸われて喫煙者独特のほろ苦い唾液を流し込まれ。息も絶え絶え、押し返していた手がやがて彼のニットへ縋りついていた頃。
「楓、好きだよ」
 数ミリだけ唇を離した状態で、彼は熱っぽくそう囁いた。
「好き、大好き。キミのことだけが好き。誰になんと言われようと、俺はキミを諦めるつもりはない」
 たとえ、キミ自身に拒絶されても。

 脳内に直接刷り込むかのごとく、執拗に愛を囁かれた。今更、自分が化粧水すら塗っていない生まれたままの顔だということを思い出していた。髪の毛もボサボサ、格好は高校の時の青い体操着。
 下着が上下で違うことを思い出したのは、彼の顔が私の首筋に埋まった時だ。
「まっ、待ってくだ……んっ」
 甘えるような仕草で、私の首筋にキスを落す幸村さん。時々生暖かく柔らかいものが首筋を伝う感覚がする。そしてスンスンと可愛らしい音を立てて髪の匂いを嗅がれた。
「か、嗅がないでっ……」
 さっきまで引っ越し準備してたから、汗が。
「どうしても嫌なら、もっと本気で嫌がってよ」
「……」
「俺は、女の演技とか見抜くの下手だけど。でも、楓が嘘ついてるかどうかなら分かる自信がある」
 幸村さんが顔を上げる。その深い藍の瞳で、真っ直ぐ見つめられた。頭の芯まで熱に浮かされそうなくらい、愛情の籠った視線。それでいて鋭くて、強いその意思を裏付けるような。

 夢を、見ているのだろうか。

「ごめんなさい」
 強がりは、長く保てなかった。
 絶対に嫌われたと思っていた。
『勝手に凍死してください。さようなら』
 あんな酷いことを言って、嫌われない方がおかしい。あの晩、寒空の下で彼だけを残して部屋に引っ込んだ後、どれだけ咽び泣いたことか。苦しかった。嫌われたことも、彼を突き放したことも、自分がまた嘘をついたことも。
 けれど、今。この愛おしい口から、暖かく甘い言葉を聞いて。
 耐えられるはずがない。
「ごめんなさい、ごめっ……」
 それを告げることが、どれだけ危険なことだったか。生みの親と血を分けた姉妹への酷い裏切りだったか。理解していた、だからこそ誰にも言えなかった。その前に、誰にも信じてもらえないだろうと諦めてもいたのだが。
 でも、どうか分かってほしい。
 幸村さんにだけは、知っていてもらいたいと願ってしまった。
「楓」
 姉の事。
 あの男の正体。
 家族に迫る危険。
 そして姉との言い争い。
 全部全部話した。上手く話せた自信はない。けれど話し終えた時、幸村さんは静かに私の頭を撫でてくれた。
 そして。

「一緒に逃げようか」

 優しい笑みと共に、そのキラキラとした言葉をくれた。
「ここじゃないどこかへ行こう。楓が好きなことをできる、誰も楓のことを傷つけない場所へ」
 泣き出しそうになるくらい、優しくて希望に満ちた言葉だった。自然と笑みが零れる。
「……それは、素敵ですね」
 本当にそんなところがあるのなら。行きたい。
 後先考えずに突っ走れるほど子供でもなく、かといって計画的にそれを実行できるほど大人でもなかった。十九歳、大学生とはそういう時期なのだ。そんな私たちにとってその話は非現実的すぎる夢物語だったが、それでも。けして結ばれはしない恋人同士の睦言としては十分すぎるほど愛おしい会話だった。
「狭くていいからアパート借りて、二人で暮らそうよ。ね?」
「二人だけで、暮らせるでしょうか?」
「バイトさえ見つかれば何とかなるんじゃないかな。でもゴメン、最初に謝っておくけど俺料理って苦手なんだ。卵焼きは得意なんだけど」
「あ、ごめんなさい、私も」
「じゃあ、二人で頑張って作らなきゃね」
 ふふっと可笑しそうに笑う幸村さんは、まるで悪戯を覚えたての子供のようだった。夢物語だけど、彼が言うと本当に実現できそうで、怖い。
「嘘でも、うれしい」
 素敵な提案、ありがとうございます。そう言うと、幸村さんは目を細めて微笑んで、私の寝癖が付いた前髪をそっと撫でた。

「大真面目だ」


prev next

bkm
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -