価値観は無数に存在し
 千代田楓はその日朝から一歩たりとも部屋から出ていなかった。前々日の衝撃、前日の邂逅と別れ。忍耐強い彼女の精神ももはや限界に近かったのだ。
 白いシーツに寝癖が残ったままのセミロングの髪が広がる。本人も自覚はしているが活用しようとは思っていないその美貌は、心なしか目の周りが腫れているようにも見えた。生まれたままの顔を晒し、今はパジャマ代わりにしている高校時代の青い体操着を纏い、ただ仰向けになって天井を見据える。目を閉じれば愛しい男の顔が浮かび上がってくるため、彼女は昨夜から一睡もしていない。
 楓の部屋は彼女の雰囲気や性格とは一見結びつかない少女らしい部屋だ。白い壁に薄桃色のカーペット、桐の洋服ダンスには縫製がしっかりとしたブランド物の服が所狭しと掛けられ、西洋風の可愛らしい白いチェストの上には高校時代の学友との写真がたくさん飾られている。全体的に白とピンクが基調となった部屋だった。というのも、彼女はピンク色が好きなのである。
 無気力にただ白い天井を見据えていた虚ろな目が違う場所を見たのは、ノックも無しに侵入者が彼女の趣味で揃えられた可愛らしい空間に入ってきた時だ。
 侵入者、千代田渚は少々礼儀知らずな一面があることで定評があるが、それでも妹の部屋にノックなしで侵入するような無粋な女ではなかったはずだ。しかし彼女は謝りもせずにしばらく扉の近くで仁王立ちしていた。楓も今は姉に構える体力もなく。部屋にはオレンジ色の西日が差し込み始めていた。
 しばらくすると、白いニットワンピースを纏った渚は俯いたまま妹のベッドまで駆け寄る。楓は面倒くさげにゆっくりと体を起こした。
「何度言われても、私は彼との婚約を破棄する気なんて」
「新宿バレエ・シアターとの再契約を断ってきた」
 楓の切れ長の瞳が大きく見開かれた。長い睫を携えた瞼が痙攣する。
「今すぐ幸村のところ行きな」
 渚の大きくも小さくもない、どこか子供っぽい光を帯びた目が妹を見つめた。しかし珍しくその眉間には深い皺が刻み込まれている。
 妹は声が出なかった。最初に襲いかかってきた感情は驚愕。しかしそれは徐々に怒りへと変わっていった。
 当然だろう。楓が戦っている理由はすでに姉の夢云々の次元ではなくなっているのだから。
 それは、目の前でふてぶてしい態度をとる女の命が懸った戦いなのだ。
「楓ちゃん、私言ったよねだいぶ前に。楓は楓なんだから、楓が私になったら楓はどこに行っちゃうの、って」
 楓がベッドに腰掛けたまま俯き唇を噛みしめるのに気が付かず、渚の口からは次々と言葉が飛び出していった。
「まだ乗り越えてなかったの? 楓ちゃんはいまだに、私になりたいと思ってるわけ? 自分が千代田渚じゃないから愛されないと思ってるわけ?」
 渚はその小さな手で固い握り拳を作った。
「どうしてそういう発想しかできないの。どうして、千代田楓として生きないのよ!」

 引き金は、静かに引かれた。

「……なんで姉さんに、そんなこと言われなきゃいけないの」
 女性にしては低めの、震えた声がその可愛らしい部屋に響き渡る。楓の綺麗な形をした指はベッドを強く掴んでいた。
「楓として生きて、姉さんみたいに好き勝手なことして。そしたら私は私として、ちゃんと見てもらえたっていうの?」
「アンタさ、自分が不幸な少女だとでも思ってるわけ? 好きなもの買ってもらって、好きなもの食べさせてもらえて、大学まで行かせてもらってるのに!」
「……そういう問題じゃない。私はただ、私と比べて姉さんの方が」
「私の方が? なんなの、えこひいきされてたって? 何を根拠に!」
「見てもらえなかった。期待されるのはいつも姉さん、バレエの天才千代田渚。馬鹿で単純で素直で感情表現が上手い出しゃばりばかり。私はどれだけ他のことで頑張っても全然見てもらえない。頭も撫でられてもらえなかった。母さんにも呆れられた。いつもいつも私だけがっ!」
「私はバレエを母親から愛されるための道具にした覚えはない! 私がしたいからずっと続けてきたの! 勘違いしないでよ!! それにね、自分を見てもらいたいならもっと行動で示したら? アンタそれらしいアピールした? 分かりにくいのよ、いっつもムスーッと仏頂面で小生意気で暗い!!」
「……まったくアピールもせずに無条件で見てもらえて撫でてもらえた姉さんにだけは言われたくな、」
「私の所為にするなっ!!」
 楓の言葉が詰まる。鋭い相貌で姉を睨みあげていたその顔は、少しだけ下げられた。渚はその怯んだ隙を逃さない。
「なんでもかんでも、わたしのせいに、するなっ」
 渚はいつも通り、怒りながら泣いていた。
 楓はいつも通り、表向きは冷静だった。
「何のために口が付いてるの。自分の意見を言うためでしょ? 主張をしなかった怠慢を私の所為にされても、困る」
「……」
「特別扱いされなかった理由を私の所為にするな!」
 薄紅色の絨毯に渚の涙が一滴二滴と零れ落ちた。目元の化粧がぐちゃぐちゃになっている。
「寂しくて、つらくて、でもそんな矢先に幸村に出会ったんでしょ? 愛し合えたんでしょ?」
 楓は耳をふさぎたくなった。もうその先の言葉を聞きたくなかったのだ。
「そんな大事な相手をどうして簡単に手放すわけ。今回の自己犠牲はいったい何が理由なの? また母さんに自分を見てもらいたくて? それとも、私に感謝されたくて?」
「やめて」
「結局楓っていつもそうだ。被害者意識が強くて悲劇のヒロインぶりたいだけ。自己犠牲でしか自分の価値を見いだせないの?」
「やめて!」
「何が何でも譲れないもの、1つくらいないのかよ腰抜け!!」

 楓の目の前が真っ暗になった。
 鈍い打撃音が、楓にはとても遠くに聞こえた。

 我に返った時、立ち尽くす彼女の前には小さな姉が赤く腫れた頬を押さえて倒れこんでいた。

「アンタに一つだけ、少しだけ長く生きている先輩として教えておいてあげる」
 手をそのままにしてゆっくりと上体を起こした渚は、床に座り込んだまま突き放すように言い放った。

「他人のリアクションに怯えながら生きることほど、バカバカしいことって無い。どうせ人間なんて、ふとした瞬間で簡単に考えを変えるんだから」

 甘えんな。自分の不幸を他人の所為にしないでよ。


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