幸村精市くんの女難について
 静かに階段を上がっていた。いつも通り、その階段を上りきった右側にあるドアを開ける。見慣れた自室。ベッドとローテーブルと備え付けのクローゼット、本棚、テニス用品、画材、ノートパソコン。学習机は高校を卒業する時に処分したから、もうない。
 クローゼットを開ける。大学に通うようになってから増えた私服が掛けられているスペースのその下には、大学のシラバスや今まで履修した講義のノート、小学生の時に荒らしまくってた近隣のジュニアテニス大会の表彰状などが仕舞い込んである引き出しがあった。
 その引き出しの一番下の段の一番奥に、それはひっそりと存在している。
 見返すのは、たぶん2年ぶりくらいだ。
 千代田渚が無自覚に、俺だけのために書いたラブレター。行き場のない怒りと悲しみが詰まったその数十枚の紙切れの上に、まだその書き殴りの切れ端が残っていたことに俺は少し驚いた。そうか、俺はこれも大事にとってあったんだ。


 幸村精市さんへ

 このような物を、無断で貴方の部屋に置いていくことを、どうかお許しください。
 そしてどうか、姉を嫌わないであげてください。
 この文章は千代田渚が書きました。貴方宛の、ラブレターです。

 千代田楓より


 当時中学3年生だった楓は、どんな思いでこれを書いて俺の部屋に置いていったんだろう。自分の欲しいものをすべて持っていた姉と自分の好きな男の橋渡しを、どんな気持ちでやってのけたのだろう。
 楓が俺に施してくれたことは数多くあるのに、俺が楓にしてあげられることは何もない。いつだってそうだ。
 俺は、好きな女の子に何もしてあげられない。

「幸村、入るぞ」
 今まで好きになった女の子の顔が浮かんでは消えていた、その時だ。腹に響くような低い声と扉の開閉音がほぼ同時に聞こえてくる。クローゼットの中に上半身を突っ込んでいた俺は、慌ててそこから出た。
「蓮二と千代田と不二は帰ったぞ」
「……お前も帰ったら?」
「年末にテニス部で飲んだ時に貸した2000円を返せ」
「それは天然のKY? それとも敢えて空気読んでないの?」
「どちらかと言えば後者だ」
 ムカつく確信犯皇帝を尻目に通学用のバックから財布を取り出した。中から野口を二枚取り出して押し付けるようにして渡す。それをどこか緩慢な動きで自分の財布に入れた真田は、まだ俺の部屋から出ていかなかった。
「帰れ」
 返事はない。
「出てけよ真田」
「どうやら熱があるようだな」
 妙なところで雷もどき発動させるなよマジで。お前それが原因で足痛めてプロへの道奪われたの覚えてないのか? 雷の100分の1程度だけどそれでも素早く一瞬で俺に詰め寄ってきた真田は、俺の額に相変わらずゴツイその手を当てる。俺は思わず背後にあったベッドに座り込んでしまった。
 え、なにコイツエスパー? ちょっと怖いんだけど。あの蓮二にも気づかれなかったのに。
「昨夜は雪がちらついていたからな」
 おそらく深い意味は込められていないんだろう。同じ言葉をあの糸目のどちらかが言ったなら裏の意味合いたっぷりなんだろうけど、真田はそんな高等話術を身に着けていない。
 いつもそうだ。コイツは。
「しばらく何も考えずに安静にしていろ。そうすれば体調も良くなるだろうし、頭も冷える」
 無意識に、俺の核心をつく。

 どうしようもない思いをどこかへぶつけたくて、俺はダウンジャケットを片手に部屋を飛び出した。持ち物は、携帯と財布と煙草とジッポーがあればいい。
「おい! どこへ行く幸村! 寝ていろ!」
「お前に関係ないだろ」
「たわけ! 寝ていろと言っているのが分からんのか!? どこへ行くつもりだ!」
「神社だよ!」
 階段を下りている途中で、振り返って怒鳴った。3段上にいる真田を見上げるのは首が疲れるからヤツの顔を見たのはほんの一瞬で、俺はそれから後は真田の膝あたりをじっと見つめる。
「な、何故神社なのだ?」
「お祓い」
「は?」
「もっと早く気付くべきだった。思えば初恋の時からずっと、好きな子とはちっとも幸せになれない。そのくせ変な女にばかり好かれるし、ノリで付き合った女の子とはいい雰囲気になってきたところで浮気相手の子供妊娠とか。挙句の果てに今回のコレだよ? 絶対呪われてるよね俺」
 そうに違いない。というよりも、それ以外に考えられなかった。真田にそれを語る口調は軽かったが、冗談などではなく割と本気でそう思っている。自慢じゃないけど顔はいい方だ。性格だって癖はあるけどそこまで崩壊してはいない。大学は中堅だけど就職には困らない程度のレベル、運動神経はみなさんご存じのとおり。それなのにここまで女運がないとか、他に何の理由がある?
 女難の所為にでもしなければ、やってられない。
「いつも初詣行ってる神社でいいよね? あ、でもここは気合い入れてもっと大きな神社とかの方がいいのかな? いっそ春休みだし傷心旅行を兼ねて旅行でも」
「相変わらず残酷だな、お前は」

 熱でボーっとする頭が作った強がりな文章を、真田は容赦のない一言でぶった切った。一段下りてくる大きな足。引退した今でも、その筋肉量に劇的な変化はないように見える。オーバーワークと技の酷使でプロ転向できなかったのになぁ、もっと大切にしろよ。
「今更気付いたの? そうだよ、魔王様は残酷なんだ」
「そういう意味合いではないし、俺はお前を魔王だと思ったことは一度もない」
「じゃあ何? 女に好かれないかわいそうな女難美青年?」
「お前のことを一生懸命好いてくれた女や、お前が惚れ込んだ女を簡単に女難だ呪いだと切り捨てる。これを残酷と言わずしてなんと言う?」
 真田はもう一段下りてきた。けして広いとは言えない階段で、男二人が向かい合うってすごくむさ苦しい。
「またお得意のお説教? そういうのは赤也にでもしてなよ」
「どうしてちゃんと向き合わんのだ、幸村」
「意味が分からない。とっとと帰れ」
「小2の初恋の相手、どうして絵画教室の教師に頼んで連絡先を教えてもらわなかった?」
「帰れって言ってんだろ」
「小4の時好きだった女子生徒、不登校になったならずっと家に通ってやれば良かっただろ」
「帰れ、真田弦一郎」
「小6の時、お前が原因で虐められたクラスメイトに、どうして『守ってやる』と言わなかったのだ」
「分かった、帰る気が無いんだな。じゃあいい、俺が出ていく」

「千代田渚に思いを伝えたことで成長できたとお前は勘違いしていたようだがな、幸村! 最初から玉砕するつもりの言い逃げのような告白など何の意味もない! それでもお前が成長できたと言い張るのなら、今すぐ千代田妹を迎えに」
「そろそろ黙らないと本気で殴るぞ」

 おまえに、なにがわかる?
「後から他人が好き勝手言うことは簡単だろうさ、でも俺はいつだって必死に考えて行動した。お前に何が」
「必死? 被害者ぶって、自分の保身を図るのにか?」

 悔しいけど、本当に悔しいけれど。図星だった。
 小さいころからの癖は悲しいことに、もうすぐ20歳になろうとしている今でも尾を引いている。高校3年の時に付き合った年上の彼女に、何故自分は本気だと伝えなかったのか?大学入ってすぐに付き合いだした彼女に別れを告げられた時、どうして笑顔でその別れ話を快諾してしまったのか?
 望まれぬ妊娠をしてしまったと言う彼女にだって、もっと伝えたいことがたくさんあったのに。
 俺は言わなかった。言えなかったんじゃない、言わなかった。嫌だったんだ、それで自分の中の平穏だとか冷静さだとかが崩れるのが。
「話を少し聞いていただけで、断言はできんが。お前と千代田楓は似ているな」
 知ってる。
「彼女は自分が嫌われないように言葉を噤んだ。お前は、自分が傷つかないために行動を控えた。どちらも同じくらい弱い」

 ああ、そうだ。
 そうだよ、真田。

「誰だってな。お前や千代田みたいに、強く生きられるわけじゃないんだよ」

 俺は、俺たちは弱いんだ。
 自分が思った通りに生きられるほど、開き直れやしないんだよ。
「迷惑がられるかもとか、気持ち悪がられるかもって思ったら、連絡先なんて聞けなかった。不登校の子の家にだってしばらくは通ったさ、でもその子の両親に言われたんだ。娘が嫌がるからもう来ないでくれって。女子のイジメから守る? 四六時中一緒にいられるわけじゃないのに。体育の着替えは? トイレは? 守れない可能性が高いから敢えて言わなかったんだ」
「……おい幸村」
「言い逃げの告白で何が悪いっ!! 俺に部活と恋愛を両立は無理だ、俺に勝ち目はないって最初から分かってたから!!」
「……」
「あっ」

 突然口から出た言葉に一番驚いたのは、他でもない俺自身だった。
 今まで、あの時千代田に対して本気にならなかったのは、千代田自身のため。俺と不二との板挟みになって苦しむ彼女を見たくなかったから。そう言い張ってきたし、自分でもそう思っていた。でもどこか釈然としていなかった。俺自身が、その理由に納得していなかったんだ。
 たった今、ようやく分かった。
「結局、勝つ自信がなかったんだ。本気で勝ちにいって勝てなかったら、悔しいから。だから不二にあげるフリをした。不戦敗を決め込んだ」
 俺は真性の負けず嫌いだ。だからこそあの時、頭の中で計算した。テニス三昧の日々の合間を縫って、頻繁に千代田へ連絡を取って愛を囁ける自信はどこにもなかった。自分がそんな小まめな人間だとも思えなかった。
 無意識のうちに、ここでも俺は保身を図っていたんだ。
 後からキツネに宝物を横取りされた、可愛そうな被害者を演じていた。恐ろしいことに自覚なしで。

「ならば、今はどうなんだ」

 真田の声は恐ろしいほど静かだった。


「何かの所為にするのは簡単だ。実際、いつもお前が知らないところで亀裂は生まれる。しかしそうやってまた、保身のために惚れた女を逃すのか?」
「……真田」

「気付いているか、幸村。大事なものを諦めるたび、保身を図るたびに、深く傷ついているのは他の誰でもない。お前自身なのだ」
 お前は残酷だが、自分で思っているほど自分だけが可愛いわけではないようだぞ。


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