告げる愚か者、告げぬ卑怯者
 僕の恋人は泣き虫だ。
 そして少し頭が悪く、要領も悪い。空気も読めないし、他人の感情にも鈍感。そして騙されやすい。
 人が悪意を持つ生き物だということを、20歳にもなって理解していない節がある。
 いや、理解したくないんだろうな。世の中は素敵なもので満ちていると思い込んでいる方が、ずっと生きやすいんだから。
 そんな、弱い存在だ。
 僕らが出会った10代半ばの頃は周りにそんな存在はごろごろといたから違和感はなかったが、もうあの頃とは違う。僕の周りに、彼女みたいに危なっかしい子はもういない。
 そんな欠点を補っているのが、彼女のその絶対的な前向きさ、努力家な部分、そして人のために泣いたり怒ったりできる優しさなんだろう。それがあるからこそ、いつまでたっても子供のように不安定な彼女に、人は愛想を尽かさない。それどころか彼女に魅了される。
 誰もが、生きてきた道のりの中どこかで捨ててきた純粋さを、彼女はまだ持っている。だからそれほどまでに人を惹きつけるんだ。
 けれど、それは時として人をひどく疲れさせる。彼女自身も含め。

「渚。大丈夫、キミの所為じゃない」
「……」
 無言で首を横に振る彼女を、ただ抱きしめた。

 数週間前から続けていた再就職活動。23区内にあるバレエ団を虱潰しに当たっていたが、とうとう昨日最後の砦と呼べる場所に門前払いされたらしい。その足で僕のところに来ればいいものの、彼女は酒を浴びるように飲み、前後不覚に陥った。そこから先の記憶は断片的にしか存在せず、ただ、妹に泣きついたことだけは何となく覚えているのだとか。
 目覚めたのはいつも通り自室のベッドで。だから最初はそれも夢だと思っていたらしい。しかし朝一番で解雇されたはずのバレエ団からの呼び出し。そして告げられたのは、寝耳に水の再契約の話。その発言に当然彼女の頭は追いつかず。
 混乱の最中で目撃したのは、妹が別れたはずの元婚約者と寄り添っている姿だったという。
 その場で妹をとっ捕まえて尋問してみても、知らぬ存ぜぬ。あの整った冷たい顔で「私は彼と結婚します」と淡々と告げられたらしい。どれだけ前日の晩のことを謝っても「姉さんには関係ないから」の一点張り。
 それでショックで僕の家まで押しかけたはいいが、それはもうどうしようもないのではないだろうか。

「どうしよう……どうしようっ……」

 渚は自他ともに認める童顔だが、それでも年相応に大人らしさは身についていた。表向きは。化粧もただ塗りたくればいいという女子高生メイクからは卒業したし、ファッションも品のいい大学生風になった。けれど中身は何も変わっていない。4年前のまま、女子高生のまま。
 それが愛おしくも、疎ましかった。
「渚」
「楓が……幸村、が……」
 僕の前で他のやつを思って泣くな。そう言えたなら、どんなに楽だっただろう。

 けれど泣きじゃくる彼女にそんなことを言えるわけもなく。僕は彼女を抱きしめ、ただ撫でていた。こうすれば彼女の感情の高ぶりを抑えられると知っている。可笑しな話だと自分でも思う。僕の記憶が正しければ、4年前は立場が逆だった。僕が取り乱して、彼女が宥める。
 気を許してくれたということなのだろうか。頼ってくれているのだろうか。
 そう思うと、他の男を思って流れる涙も少しだけ許せるような気がしたけれど。


 いま僕は。

「帰ってくれないか」

 4年前には絶対に想像できなかったであろう光景を、いいや。
 ある意味で4年前の再現を、どこか満ち足りた気分で冷たく見据えていた。

「精市! その言い方は」
「どうやら、その空気の読めなさは健在のようだね。千代田」
 柳が懸命に幸村を抑えている。幸村は冷たくも激情にかられた様子で渚を見据え、愛しい彼女はただ成す術もなくソファーに座り、幸村に向かい合ったまま頭を下げていた。唯一の救いようがあるとするなら、昨日散々泣いたおかげでとても冷静だったという点だろうか。
 本来なら恋人である僕が、柳のポジションでいなければならないのだろう。彼女がこれ以上傷つけられないようにと、立ちはだかるべきなんだ。
 けれど僕は真田と共に傍観している。いいや、むしろ幸村を心の中で煽っていた。
 もっと傷つけるようなことを言えばいい。そして嫌われろ。
「ごめんなさい」

 とりあえず何も知らないであろう幸村に、直接事情を説明して謝罪したい。なんてバカなことを渚が言い出したのはその次の日。思い立ったら即行動の彼女は、僕だけじゃ不安だったのかその勢いで今回の件に少し噛んでいたからか参謀とついでの皇帝を召喚。そのまま幸村家に特攻した。運がいいのか悪いのかご両親は不在。ヨーロッパの輸入住宅と思われる品のいい一軒家のリビングで、その泥沼劇は急に始まった。
 渚は本当に頭が悪い。愛しているからこそそう断言できる。
 自分に都合が悪いことは全部隠せばいいのに。正直にありのままを話すことがすべて正しいなんて、誰がキミに教えたの?
「酒に酔って、その勢いで愚痴った? 意味が分からない。楓がどんな気持ちになるか、そんなことも想像できないのかキミは」
「精市、その時千代田は前後不覚だったと……」
「蓮二は黙っててよ、部外者でしょ」
 大体、その前後不覚ってのも胡散臭い。本当は意図的だったんじゃないの? と、幸村は渚を責め立てる。そうだろうな、僕が彼の立場だったら僕もそう思う。
 そろそろかな。
 僕が漠然とそう思ったその時だった。幸村のその発言が癇に障ったのだろう、ずっと俯いていた渚が顔を上げる。その目は敵意に満ちていた。
「……大事な妹に、シラフでそんな残酷なことすると思ってるの? 私が」
「大事な妹? どの口がそんなことを言うの?」
「……はぁ?」
「本当に、大事だと思ってるの?」
 自分が弱者だと。世間知らずで愚直だと気付かずに、その持前の気の強さと責任感を振りかざす。
「大事だよ。確かに少し無口で、感情が分かりにくいところはあるけど。それでも大事な妹だよ! 家族だよ!」
「黙れよ」

 ねぇ、渚。
 キミはその真正面からの体当たりで、いったいどれだけ負わなくていい傷を負ってきたの。

「楓はあの雪の日、さびしいって言って泣いてたんだ」

 呆然と、何を言っているのか分からないと言っているような表情で、渚は幸村を見つめる。
 幸村はどこか悲しげな冷たい表情で、彼女を見据えていた。

「千代田渚になれば必要とされる。姉の代用品になればお母さんに自分を見てもらえる。受け入れてもらえるって。でも彼女は受け入れてもらえなかった。だから、あの婚約者とかいう男へ逃げた。その男にだけは、千代田渚の代用品にすらなれない自分を、受け入れてもらえたからって」
 他に、逃げ場がなかったとも言ってた。と、幸村は残酷な言葉を吐き出し続けた。
「そんな状況下で、あの子はそれでも俺を選んでくれた。すごくすごく、勇気のいる決断だったと思う。今までの自分の生き方を変えるってことなんだから。でも、それでも、彼女は変わりたいと願ったんだ。それなのにキミが」

 渚の目から、雫が零れた。柳も僕も真田も、幸村の糾弾を止めようとはしなかった。

「あの子が無口な理由を知ってる?口下手なわけじゃないんだよ」
「……」
「『思っていることをそのまま口に出せば確実に嫌われるほど、本性が卑しくて鬱陶しいだけ』」
「……」
「『だから、嫌われたくないから、言う前に考える』んだって。『これを言えば困らせる。あれを言えば悲しませる』って、いろいろ気を使って」
 幸村がソファーから立ち上がる。ローテーブルを右側から回り込んで僕の隣にいる渚の前で膝を折った。そうして、渚に目線を合わせる。
「そうしている内に、何も言えなくなったんだって」
 渚が、これ以上ないくらいに怯えていた。
「大好きな人であればあるほど、何も本音を言えなくなったんだって」

 渚に囁くようにそう言って、幸村は立ち上がり、僕たちに背を向けた。いや、正確には渚に背を向けたんだろう。
「まぁ、兄弟は他人の始まりっていうし? 俺も妹が彼氏と別れようが本音を言えなかろうが『だから?』って感じだから、別に千代田が責任感じることではないと思うよ。楓が好きでやったことなんだし、あの子ももう子供じゃないんだから、それが自己満足だって分かってるだろうし」
「ゆき、むら?」
「でもさぁ、」
 さも『妹溺愛してます』みたいなポーズとらないでくれるかな。

 渚の表情が凍る。
「この前知り合ったばかりの他人から見ても、キミが妹を大切にしているとは到底思えないんだけど。まさか家族であるキミがそれに気が付いていないわけがないよね? 千代田」
 口調は軽かった。幸村お得意の神の子ジョークを飛ばしているかのような口ぶりだったが、確かにその両手は固く拳を作り、震えていた。
「帰ってくれ。もう話すことはない」
「待って幸村!!」
 そして。
「私がっ! 私があのバレエ団を辞めるっ! それで何とかして婚約解消させるから。……だから、だからもう少しだけ待ってて。絶対に楓ちゃんは取り戻」
「そんな無駄なこと企ててる暇があったら早く踊ってこいよ!!」

 最後の地雷に、渚は自ら飛び込んだ。

「分からないのか? 楓は俺や自分の気持ちじゃなくキミを選んだ。千代田渚を、家族を選んだんだよ。だったらキミが今することは、死に物狂いで踊り続けて、あのムカつくバレエ団の女王になることじゃないの? キミがバレエにかける思いってのが1人の女の子を潰したんだって、そろそろ気付きなよ」
 楓が自分の気持ちを犠牲にしてまで守りたかったものを、キミがぶち壊しにしたら、
「俺はお前を恨むからな、千代田渚」
 幸村は一瞬だけ振り返り、渚に鋭い一瞥を投げかけた。そして僕たちを放置して、リビングから静かに出て行った。


 無垢はけして褒め言葉ではないと、渚を見ているとつくづくそう思う。言い換えれば無知なんだ。何も知らない。人間の悪意だとか、狡猾な生き方だとか、理不尽なことだとか。
 いいや、渚はもしかしたらそれらを信じたくないだけなのかもしれない。
「渚、帰ろう」
 泣きじゃくる彼女。幸村が、自分にあんな明確な敵意を飛ばすはずがないと思ってたのだろう。
 渚。人は案外簡単に、勝手に傷ついて、誰かのせいにしたくて、そして他人を嫌いになれるものだよ。

 その中でも上手く生きるために、自分が傷つかないために。人は都合の悪いことを上手く隠すんだ。面と向かっての激突を避けるんだよ。
 自分が嫌われないためにね。


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