現実は戯曲よりも悪夢に近く
 春休みに入った大学生が何をするか。候補はいろいろあるだろう。友人や彼女との旅行、ゼミ合宿、インターン、ボランティア活動、資格取得に向けての勉強、新四年生になれば就活もある。けれど俺は、この国に存在するすべての大学生にアンケートをとったとして、一番多い答えを知っている。
 バイトだ。

「お疲れ様でしたー」
 今日はラストまでの業務だった。閉店後にレジ点検をした後、自分の担当である園芸フロアのモップがけを済ませてタイムカードを押した。最近総合レジに入ってきた二歳下のしつこい後輩の誘いを煙に巻きつつ、俺はコートを羽織ってバイト仲間たちに挨拶をしてから外に出る。2月の空気が俺の顔や手を容赦なく突き刺した。慌ててマフラーをして手袋をはめる。そしてバックから携帯を取り出すと、ライトが青く点滅していることに気付いた。メール?
 従業員専用のチャリ・バイク置き場で一服しながら携帯を開く。差出人はテニスサークルの後輩、日吉だった。

差出:金髪きのこ
件名:無題
本文
千代田楓の連絡先知りませんか?
歴史学科の履修のことで少し聞きたいことがあるんですけど。

 相変わらず無愛想な文面。誰が他の男に可愛い恋人の連絡先教えるかよ! なーんて、どっかの狐だったら思うんだろうな。でも俺ってけっこうそういうの寛大だから。楓が俺のこと好きでいてくれるなら構わない。男友達がいてもいいよ。むしろあの子はもっとたくさんいろんな人と交流すべきなんだ。
 どうだ不二周助、少しはこの余裕を見習え! とこの場に存在しない敵へ悪態をつきながら、俺は一応彼女のメアドを金髪きのこに回す了解をとるためにメールをした。時刻は10時半を少し過ぎたころ。すぐに返信がくるだろうと思った。
 その予想通り、メールはすぐに返ってきた。

 送った、30秒後に。

差出:×××メールセンター
件名:エラー
本文
送信されたメールは、宛先が正しくなかったため届きませんでした。
≫2008.02.03 22:35:42
宛先:……


 最初は、楓のことだからメアド変えたのを俺に伝え忘れてるだけだと思った。あの子、頭いいけどどこか抜けてるから。だからこそ放っておけないし、守ってあげたいと思う。そんな一歩間違えたら関係に亀裂が入る様なミスでさえ愛おしいと思った。だけどね。
『お掛けになられた電話番号は、現在使われておりません。お掛けになられた電話番号は、現在使われておりません。お掛けになられた電話番号は』
 これはさすがに、どうすればいいのか分からなくなった。携帯灰皿に煙草を押し込んで、原チャリの座席の中から銀色のハーフヘルメットを取り出して被ってエンジンかけて走り出すまで、おそらく1分もかからなかったと思う。このバイト先は自宅から原チャリで大体10分の位置にある。千代田家へは20分弱ってところだ。
 何も考えられなかった。ただ、俺の杞憂であれと、そんな祈りにも似た気持ちだけを胸に。俺はただスピードを上げた。

 千代田家に着いたのは11時少し前。相変わらずの豪邸だった。
 一つ一つの家が大きな住宅街の一番端に位置するその家は、ベージュを基調とした可愛らしい造りをしている。右隣は森で左隣は空き地な所為か空間に余裕があって、うちよりもずっと豪邸に見える。いや、さすがに某キングダムの男の家レベルではないけれどね。別荘地に建っていそうな浮世離れした一軒家だった。庭はあまり広くないけれど、その代わり車庫が広いのが特徴的だろうか。外車が2台と、新車の軽自動車が1台。これは楓のか。千代田はまだ免許を取っていないはずだから。
 インターフォンを押すべきか。それともまず千代田の携帯を鳴らして楓を呼び出してもらうべきか。いきなりインターフォンならして両親が出てきてもまずいからなと思考を巡らせていたその時だ。
 頭上から物音がする。正確には千代田家の二階から。

 丁度小さな庭の真上になるベランダに姿を現したのは彼女だった。
 いつの間にか、あたりには牡丹雪が舞い始めていた。

 どうしよう、話しかけるべきだろうか。でも、こんな時間になんで家に? って引かれるないかな。そもそも楓が俺にメアドとケー番変更知らせないからこうなるんだろ。さまざまな考えが脳裏を飛んだ。その間にも、薄着の楓は自分の肩を抱くようにしてその体を震わせ、白い息を吐いて右隣、彼女から見たら左隣にある森を見上げていた。
 息を飲む美しさって、たぶんこういうことなのではないだろうか。
 楓は別におしゃれをしているわけじゃない。化粧もしていない。髪が少し濡れてるから、たぶんお風呂上りなんだ。そんな格好で雪空の下にいたら風邪ひいちゃうとか、言いたいことはたくさんあったけど。
 綺麗だった。それ以上に、悲しかった。
 泣き出しそうな表情で、雪が舞う空と風に揺られて唸る森を見据えながら物思いにふける楓が、とても遠い存在に思えた。

「楓!」
「!?」
 気が付いた時には大声を上げていた。ここは端っことはいえ住宅街。時刻はもうすぐ真夜中。賢い選択ではない。けれどその時声を掛けなければ、もう永遠に楓は俺のものにならない気がした。生まれ持っての勝負勘とでも言おうか。こういう時の予感はよく当たる。なんでだろうね。俺たちは、両思いなのに。
 ねえ、そうなんだよね? 楓。俺たち、もうすぐ恋人になれるんだろ?

 なのになんで、泣いてるんだよ。

「楓、なんで勝手にメアドとケー番」
「帰ってください!!」
 押し殺すような叫び声が俺の鼓膜を切り裂いた。全力の大声ではない、けれど悲痛に塗れた叫びだ。
「帰って。帰ってください」
「……なんで?」
「帰って、お願い……」
 楓が、しゃがみこんでしまった。壁に遮られて見えなくなった彼女。
 どうして?
「なんで、そんなこと言うんだよ」
 楓のすすり泣く声が聞こえる。俺はいてもたってもいられなくなり、柵を乗り越えて千代田家の小さな庭に不法侵入した。ベランダの下に立つ。少しでいいから、楓の近くに行きたかった。
「ねぇ、楓」
「もう、会えません。会えないんです」
「キミはまた逃げるのか!? 俺からっ!!」
 楓が何を思って俺にそんなことを言うのかは分からない。もしかしたら、無意識のうちに俺がすごく傷つけることをしたのかも、それでも。
 今更、楓を諦めることなんてできない。
「せめて顔を見せて」
「できません」
「見せてくれなきゃ、朝までここにいるぞ」
「!」
「今夜は冷えるね、楓。でもキミのためなら、俺はずっとここにいる」
 何言ってんだと自嘲した。こんなものは愛の言葉に見せかけた脅しだ。優しい楓がそれを無視できないと理解したうえで、俺は彼女を脅迫している。
 でも本気だった。それだけは間違いない。
「もう、会えないんです」
 恐る恐るといった感じに、楓はそっと顔を覗かせる。ああ、頬が赤い。寒いんだね、ごめん。
「理由を教えて。納得したら帰る」
「……」
 嘘だ。帰らない。納得するはずがないからだ、どんな理由だとしても。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
「謝るよりも先に、言うことがあるでしょ」
「……」
「ねえ、どうして言ってくれないの?」
 楓を見上げている俺の目やら口やらに雪が入る。手でそれを払いながらも、懸命に彼女を見逃さぬよう首を無理に曲げ続けた。寒い。手足の感覚が無くなってきた。
 そして。
 俺の出した白い息の靄が消えた先で、楓が綺麗な、そして恐ろしく冷たい顔で俺を見下ろしていた。
 泣いていた面影は、もうどこにもなかった。

「婚約者とお付き合いを続行することになりました」

 は?

「彼とは別れないと言ったんです」
 彼女の濡れた毛先が、凍り始めている。
「来週にはここを出て、同棲を始めることになりました」
「ちょっと……」
「大学では、できるだけ貴方とお会いしないように心がけますので」
「待ってよ、楓!! 意味が分からない!!」
「大声を上げないでいただけますか、ご近所迷惑です」
 何のジョークだ? それとも夢か? 楓は俺が今まで見たこと無いような冷たい目で俺を見据え、突き放すような言葉を機関銃のように撃ち続ける。俺が混乱してまともなことを言えないのをいいことに、彼女は好き勝手言い続けた。
「事情が変わりました。あの日のことは忘れてください」
「はぁ!? 忘れられるわけ、」
「うるさいですね!! これ以上騒ぐなら警察呼びますよ!?」
 騒ぐなと言っている本人が一番騒いでいた。俺が聞いたことも無いような鋭い怒声。
 何がどうなっているのか全く分からない。楓のこの豹変ぶりも、口走っている内容も、楓がなんで俺に冷たく当たるのかも、ましてやなぜ警察に突き出されようとしているのかも。
「どうして、ねえ……楓!」
「勝手に凍死してください。さようなら」
「ちょっ!?」
 手を伸ばしたが、気休めにもならなかった。いつもそうだ、この右手は本当に欲しいものを掴めない。
 黒い手袋に覆われた手の甲に、虚しく雪が付いただけだった。

 音を立ててベランダに続く窓は閉じられる。振り向かない楓によって、ぴしゃりと桃色のカーテンが閉じられた。


 それから小1時間ほど呆然とその場に立ち尽くしていたけれど、本当に警官が様子を見に来たものだから俺はビックリして原チャリに飛び乗って逃げた。その頃にはもう、俺の一言も言葉を発せないくらい顔面の筋肉が凍り付いていた。


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