できれば知りたくなかった
 通されたのは、馴染みのある彼の自室ではなくリビングだった。数回入ったことはあるが、やはりあまり趣味が良いとは思えないその内装。団長の趣味なのだろうか、大きく不気味な印象画が壁に掛けられている。その隣には壺、天井には華美なスワロフスキーのシャンデリア。敷いてある赤い絨毯はペルシャ製だと、そういえばこの前自慢されたな。バレエ団運営には金がかかるのではなかったのか。
「紅茶でいい?」
「いえお構いなく、それよりも……」
 相変わらずの優男風の笑顔に、いつもは感じない違和感を覚える。ぎこちない様な、何かを誤魔化すような。私はそれに気づかぬふりをして、少し厳しい口調で彼にこの場へ留まるよう言った。彼は少し困ったような表情を見せてソファーに腰掛ける。私にも座るよう促した。
 妙にふかふかで逆に落ち着かないソファーへと腰を落ち着ける。私は元婚約者と向かい合う様な位置に座った。
「説明してください」
「何を?」
「姉を辞めさせたのは、貴方なのですか?」
 信じたくない。けれどそれ以外考えられない。彼と姉は幼馴染だ。幼少のころ、練習後にいつも仲睦まじく会話していたのをこの目で何度も見ている。実際、姉がリハビリを終えて海外から帰国した後、私が彼に姉の縁故入団を頼んだ時も、彼は自分のことのように
「キミはどれだけクールに装っててもやっぱり、お人好しのお嬢様だね」
 姉の復帰を、喜んでくれて。
「普通真っ先に疑うのは僕じゃないかな。キミにフラれた腹いせに、とか考えなかった?」

 嘘だ。
 貴方は、そんな人じゃ。
「まぁ、違うけどね。そんなくだらない動機じゃない」
「じゃあ、なんでっ!!」
 頭が痛い。気持ち悪い。今まで私にうんと親切にしてくれたこの目の前の男性、汚い部分など一つも持ち合わせていないのではと疑いたくなるくらい、お人好しだったのだ。いつだって兄のような優しさで私を甘やかしてくれた。
 だから私は。

「渚がウザかったんだよ」

 この人も、本当は私になんか興味がないのだろうと思っていた。
 本当は、姉さんのことが好きなんじゃないかと。

「は?」
 朝目覚めたとき、必ず彼は私の隣で微笑みながらおはようと言い、私の額にキスをした。その時と同じ笑顔で、彼は衝撃の言葉を吐き捨てるように言ったのだ。けれどそれをどうしようもなく愛おしそうな顔で言うものだから、もう私はどうすればいいのか分からない。
 知らなかった。人間は、こんな優しい顔をしながら冷たく罵倒することができるのか。
「渚のやつ、ムカつくんだよね。楓ちゃんのおかげで縁故入団できたのに、まるで自分の実力で入ったみたいに振る舞ってさ。自分はもうあの天才少女じゃないっていう自覚が足りないんだよ。それどころか、いまだに楓ちゃんの重荷になってる。今だってそうだ」
 渚が、キミをここへ走らせたんだろう?
 そう言って彼は私に近づく。何を言っているのかが分からなかった。
 姉さんはそんな調子に乗る様な人じゃない。私の重荷にもなっていないし、ここへ走らせたわけでもない。ただ私が居た堪れなくなって、勝手に駆け出しただけなのだ。
 ローテーブル越しに伸びる、綺麗な筋肉の付いたバレエダンサーの手。
「かわいそうな楓ちゃん。あんな自分勝手なお姉さんのために、今まで人生を犠牲にして、奔走して、土下座までして」
 違う。
「誰のせいで、こんなっ」
 少なくとも、姉の所為じゃない。
「僕だけは、キミの味方だ」
「……触るなっ!!」
 頬に触れるひんやりと冷たくも優しいその手が気持ち悪いと思ったのは初めての経験だ。以前の私なら考えられないその行動に、他でもない私が一番驚いた。
 振り払われた大きな手が一瞬静止する。優しい形をしていた目は、徐々に細められた。そして凶暴な光が帯びてくる。

 彼がローテーブルを乗り越えて私をソファーに押し倒すまで、おそらく2秒もかからなかった。
「やめっ、放せ!!」
 身体能力に自信はあった。懸命に足掻くがしかし、マウントポジションをとられたため両腕で彼の顔を殴るのがやっとだ。しかし彼は自分の顔がひっかき傷だらけになろうとも構わず、私のワンピースの前ボタンをすべて弾き飛ばした。
「!!」
「幸村精市、案外待てが得意な犬みたいだね」
 衝撃的な出来事に、さらに力強く抵抗しようとしたその時だった。その口から飛び出すはずのない名前が出てきたのは。
「相変わらず、キミの肌が綺麗で安心した」
 彼は私の首筋に唇を這わせながら、小馬鹿にしたように彼の名を口にした。全身の筋肉が硬直する。
 どうして、彼が幸村さんのことを。
「知ってるよ。幸村精市19歳、氷帝大学の仏文科2年生。昔渚のことが好きだった男だ」
「!!」
「かわいそうに。また楓ちゃんは渚の代わりにされてるんだね」
「違う! あの人はっ!!」
「やっぱりキミは一刻も早くあの家から離れるべきだ。でないといつまでたってもキミは渚の身代わりでい続けなければならない」

 渾身の力でその整った横っ面を殴った。
 鈍い音が部屋に響く。彼の体が私の上から退くことはなかったが、その唇の端からは赤い液体が零れた。

「はっきり言うよ、楓ちゃん。キミは異常だ」
 彼は右手の親指でその伝った血を撫でるように拭うと、ひどく生暖かい目で私を見下ろしてきた。同情の色を帯びていた。
「渚の身代わりとしてしか生きられないなんて異常すぎる。……分かってるよ。キミをそうさせたのは他でもない、キミの家族だ」
 違う。
 私はそれを自ら望んだ。愛されたかったから。
「幸村精市に惹かれるのだってそうだ。キミはもしも幸村が渚を好きでなかったとしても、彼を好きになったと言い切れるかい?」
「黙れ……」
「重ねているんだよ。渚から愛されなかった幸村と、家族から愛されなかった自分を」
「だま、れ!」
「千代田渚。すべての元凶はあの女だ。あの女がいるから、楓ちゃんはいつまでたっても家族に縛られている。自分の人生を生きられないでいる」
 違う。
 そう言いたかったのに言葉が出てこなかったのは、戸惑いからではない。
 その言葉と共に落とされた無数の写真を見てしまったからだ。

 彼はジャケットの内ポケットから写真の束を取り出して、中途半端にブラジャーを晒す私の上へとばら撒いた。そのどれもに姉さんが写っていた。主にバレエの練習風景。高校時代の友人とお茶をする姿や、不二周助とデートしているもの、カフェテリアで私と食事を楽しんでいるもの。パジャマ姿でベランダに出ている姿まである。
 そして私が知らない、居酒屋で幸村さんと仲睦まじく酒を酌み交わす姿も。
 優しそうな笑顔で姉さんと話している幸村さん。心臓が嫌な跳ね方をした。その写っている光景にも、この不気味な写真の束自体にも。

「あ、盗撮したのは僕じゃないよ? お金が大好きな、ちょっとコワモテのお友達」
「……なんだと?」
「彼女、いろいろな人から恨み買ってるみたいじゃないか。彼女のことを嫌っている人が危ない不良集団の中にもいるとは思わなかったけどね」
 誰のことを指しているのかはちょっとよく分からなかった。
「キミが思っているよりもずっと、キミの中で家族、特に千代田渚の存在は深く根を張っている。トラウマと言ってもいいかもしれない。ずっと付き合っていて予感が確信に変わったよ」
「……」
「キミは幸村とは付き合うべきじゃない。この写真を見て分からないかい? どれだけキミが彼を愛していたとしても、いつだって姉の陰に怯えることになるよ」
 彼は幸村さんと姉さんが写った写真を私の目の前に翳しながら、どこか苦しげな表情で私にそう告げた。私はその言葉を打ち消すように心の中で叫び続ける。
 違う。幸村さんは最初から、私と姉さんを混合してなんて見てなかった。
「楓ちゃん。渚の手垢が付いた男はダメだ」
「やめろ、そんな言い方するな!」
「僕はこれ以上、楓ちゃんの悲しむ姿は見たくない」
「絶対に、あの人だけは譲れないんだ!!」
 冗談じゃない。例え脅されたってその言葉には従えない。私は幸村さんとの約束を守るのだ。彼に相応しい女になって、彼の隣を堂々と歩く。この男の言いなりになってこの想いを告げられないまま終えるのは嫌だ。死んでも死にきれない。
 私の腹の上に馬乗りになる男を、私は自分ができる最大級の怖い顔で睨みつけた。
 貴方のことは嫌いじゃなかった。いいや、好きだった。あなたに受け入れられたから、私はあの極寒の地で生きていけた。
 けれど、それも今日までだ。
「キミを幸せにしてあげられるのは僕だけ……」
「お前にそんな事を指図される筋合いはない! 殺されたって私はあの人以外の男とはご免だ!!」
 さぁ、犯すなりなんなり、行動を起こせ。生物というのは三大欲求を満たしている時が一番無防備になる。この男も鍛えてはいるが、幸村さんほどではない。私との身長差も数センチ、腹の上から退きさえすれば勝てない相手ではなかった。チャンスは一度きり。渾身の力で蹴り飛ばせば、いける。
 息を整えて来たるべき瞬間に備える。大丈夫だ、もう処女というわけでもない。多少のリスクは覚悟して挑発を更に重ねようとした。
 その時、だった。

「ああ、もしもし」
「……?」
 何故か彼は懐から携帯電話を取り出して、どこかに電話を掛けだした。私には目もくれず、その視線は宙へ向けられている。その瞳はどこか虚ろで陰鬱としていた。
「ちょっと……」
「千代田渚のことだけど」
「!?」
 その名が男の口から飛び出すだけで、胃が冷やりとする。
「ちょっと襲ってきてよ」
「なっ!?」
 そして更に不穏な単語が飛び出す。
 いっそのこと、耳が聞こえなくなってしまえば楽なのに。
「うん、へぇ。今家の近くにいるの」
「おい、何をしようと」
「うん、そのまま家に火とか付けられそう?」

 息が、できなかった。
「なにを、やめろ!!」
「応援してあげるよ、楓ちゃん。千代田渚を殺せば、もうキミが悲しむこともない」
 なんだ、その意味の分からない持論は。
「ん? ああ、こっちの話。足がつかないように上手くやってよ。え? ふーん。両親も家にいるんだ」
「!!」
 狂気じみた、それでいて穏やかで愛情の籠った視線が私を射抜く。わざと会話の内容を聞かせるように強調した『両親』という単語を発した時、その口元が怪しく歪んだ。

 こわい。

「うん。千代田家は全員燃やしちゃってよ。そこが無くなれば楓は晴れて自由……」
「わかった……!!」


 想像してしまった私が、その遠回しな強迫に打ち勝てるはずがなった。
 視界が滲み、目尻から熱い雫が耳の方へと伝っていく。

 幸村さんの花のような笑顔が、滲んだ視界の向こうに見えた気がした。


「分かった、わかった、から」


 姉はよく、私を優しい妹だと形容した。けれど私は少しも優しくなどない。家族のことを思って何かを我慢したり犠牲にしたことなど一瞬たりともなかった。ロシア行きを決めた時も、足が血だらけになるまで踊り続けた時も。
 私は姉に向かう視線を横取りしたかったのだ。ただ、それだけだ。
 自分が幸せになりたかったから。ただそれだけ。他には何もいらなかったのに。

 今、生まれて初めて。家族のために自分の幸せを犠牲にした。


「え? なんで? 僕はキミを苦しめる根源を……」
「私は家を出ます。一緒に暮らしましょう」
 貴方に殺人の指示を出させるわけにはいきません。だからせめて、私の中にある家族の記憶を殺してください。
 歯の浮くようなセリフを突貫で作り、彼の上半身を引き寄せてそっと抱きしめた。いつもと同じ、私と同じくらいの体温。甘い香水の匂い。
 彼は、私が良く知っている彼の慈しむ様な笑顔で、私にキスをした。触れるだけの、優しいキスを。
「お安い御用だよ、楓ちゃん。僕が全部消してあげるから」
 血の味が、悪魔を騙しているというこの状況にひどく現実味を帯びさせていた。
「やっぱりちょっと待った。そのまま待機ね。お金はまた後日振り込むから」
 先ほどまで電話をかけていた人物にそう言うと、彼は間髪入れずに通話を切った。そして携帯を絨毯の上に投げ捨てると、両手で私を力いっぱい抱きしめてきた。
 このまま、窒息で死なせてくれ。
「引っ越しの日取りはいつにする? 費用は大丈夫だよ、うちの母親に出させるから」
「……はい」
「ふふっ、もっと早くにこうしていればよかった。そうすればずっと、僕がキミを守ってあげられたのに」
 そう言って可笑しそうに笑う男。世界で一番怖い睦言が今まさにこの瞬間私へと囁かれていた。それでいて彼は、昔一緒に見た恋愛映画のハッピーエンドを見終わった後と同じ顔をしているものだから、私は今更どうしてこうなったのかを嘆いた。この人は、私を一体どうしたいのか。

「僕が必ず、キミを救うから」

 そう言って私の服を脱がしにかかる彼は、私のことが好きなのか、嫌いなのか。もうわからない。


prev next

bkm
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -