姉を寝かせに一旦家へ戻り、そして再度駅に出向いた。電車を乗り継ぎ一時間と少し。目的地の最寄り駅からはタクシーに乗った。目的地についたのは十時近くだ。あたりはすっかり暗くなり、犬が鳴く声が遠くで聞こえる。某高級住宅街にあるその豪邸の前で私は立ち止まった。オレンジ色の洒落た外灯が、大理石と思われる豪奢な表札を照らしている。
その表札を見据えながら自身の心を今一度落ち着かせていた、その時だった。
玄関から出てくる影。
派手な毛皮のコートにシャネルのハンドバッグ、あの鋭い目つきは間違いなく。
「お母様!」
新宿バレエ・シアターの団長。そして元婚約者のお母様。門の前に立っている私の姿を確認すると、彼女は一瞬驚き、そして嫌悪感を露わにするような顰め面で私へと足早に寄ってきた。
「貴方、なんですかこんな夜更けに」
「申し訳ありませんでした!」
私は、煉瓦造りの玄関先で跪き、頭を地面に擦り付けた。
「ちょっ、何をしてるのですか貴方っ!?」
「もっと早くにお母様にはご挨拶に伺わなければなりませんでした。ですが、私が弱いばかりに」
「……頭をお上げなさい! うちの前で、そんな見っとも無いことしないでちょうだい!」
「いいえ、上げることはできません」
お母様はなんとか私の上体を起こそうと躍起になって私に掴みかかったが、私は頑としてその場、その体勢から動こうとはしなかった。
これから言うことは、正直勝てる見込みが全くない賭けだ。
「お願いいたします。姉を、これからも新宿バレエ・シアターに所属させてあげてください」
「……なんですって?」
「私がすべて悪いのです。姉は関係ありません」
額が痛い。煉瓦に擦れて、たぶん皮が捲れている。でも私には。
「私には、好きな人がいます。申し訳ありませんが、私には貴方の息子さんを選ぶことができません」
これくらいしか、できることがないから。
ここに来るまでたくさん考えた。嫌というほど、これからの姉のこと、家族のこと、幸村さんのこと、そして自分のこと。耳や鼻の穴から煙が出るのではないかというほど、たくさんたくさん考えた。
それでもやはり、私に彼を諦めることはできなかった。
「もう私は、貴方のご期待に添うことはできません。ですが、それ以外のことでしたら何でもいたします。ですからどうか、どうか姉のことをこれからも!!」
私が幸村さんと別れて彼と結婚する、それがきっとすべて丸く収まる結末なのだろう。それでも、それを選びたくないと駄々をこねる自分がいる。
あの人と一緒にいたい。
「お願いします! 私のことを許してほしいとは言いません。どうか、どうか姉だけは!」
土下座などしたことがなく、これからもする予定なんてなかった。それでも今私ができることといったらこれくらいしかない。安いプライドで姉と自分の未来が守れるなら構わない。この程度のこと、何度でも何時間でもするつもりだった。
毎日でも通うつもりだ。私は、徹底的に戦ってみせ「何を言っているのか分かりませんが」
ん?
「私はもう何カ月も前からバレエ団の人事には関わっていませんよ。渚さんが辞めさせられたのが婚約破棄の所為だというのなら、それは逆恨みもいいところです」
思わず、顔を上げた。
腕を組んだ冷たい眼差しが、私を虫けらのように見下ろしている。
「じゃあ、なんで」
「知りませんよ、あの子の考えていることなんて。全く、こちらとしては渚さんを団員として引き込んで千代田家から寄付金を集める算段だったのに」
咎める口調が私の脳内を混乱させる。
え、えっ。
つまり、
どういうことだ。
「とにかく、さっさと家に帰りなさい。貴方みたいな尻軽の顔など二度と見たくない。元々うちの息子には別の人をと考えていたのです。貴方の方から付き合いを解消してくれてこちらは好都合というもの」
「……」
「変な言いがかりを付けて、うちのバレエ団の看板に泥を塗る様なことだけはやめてちょうだいよ」
赤いハイヒールをコツコツと鳴らして、ガレージの方へ向かっていくお母様。やがてエンジン音が響き、ガレージから黒い外車が出ていった。私は立ち上がることもできず、オレンジの街頭に照らされながら。
ただ、自分の置かれた状況を理解できずにいた。
どういうことだ。お母様が嘘をついているのか。いや、そもそもあの人は嘘をつくような人だっただろうか。彼女の言い分はもっともなのだ。うちの父は毎年あのバレエ団に多額の寄付金を出していた。バレエ団の運営にはとにかく金がかかるから、運営者である彼女が姉さんを辞めさせても何の得もないのだ。ましてや姉は身長こそコールドに相応しくないが、実力ではそこら辺の端役といっしょにされては困る。確かに全盛期に比べると動きにキレがないが、それでも天賦の才はまだまだ健在だ。バレエ団に置いておいたって、何の問題もない金のなる木なのに。
じゃあ誰が。姉を貶めているというのか。
ちょっと待て。
数か月前から人事に関わっていない。そう彼女は言っていた。
では今、新宿バレエ・シアターの人事担当は、一体誰だというのだ。
「あれ? 楓ちゃん? 何してるのそんなところで」
慣れ親しんだ声が聞こえる。
幾度もの夜、私に愛を囁き続けた声が。