シスターコンプレックス
 その日、私は午後からバイトの面接が入っていた。かねてからの希望だった家庭教師のバイト。
 ずっとバイトをしたいと思っていた。幸村さんに自分の思いを告げたあの日からずっと、考えていたことがある。
 そう。三月五日。幸村さんがこの世に生を受けた日についてだ。
 彼には数えきれないほどの迷惑、心配をかけた。そしてそれ以上に深い愛情を貰った、と個人的には思っている。自惚れかもしれないが、そう信じている。そして私も彼を愛している。
 自分が稼いだお金で、彼に細やかながらお返しがしたいと思った。というのは建前で、単にもっと彼に好かれたいのだ。もっと、好きになってほしい。

 できるだけ頭を空っぽにし、清楚に見えるワンピースを着用して臨んだ。筆記テストは問題なく解け、担当者との面接も難なくこなした。おそらくいけたと思う。
 人間とは、一つの問題が解決しかかると別の問題が頭の中を支配し始めるという大変厄介な構造をしている。少なくとも私はそうだ。
 面接が終わったのはすでに辺りが暗くなり始めたころ。私は家に帰ることもせず、繁華街にあったファミレスに一人で入店して夕食を済ませた。久々に好物のハンバーグ。いつもと変わらぬ見た目と香りなのに、酷く味気なかった。

 昨日、姉の乱心の後。三者ともが無言になり会話が成立しなくなったので、私は小柄な母をそっと退けて扉を閉じた。今は何を訊いても無駄だと思ったのだ。ああなってしまった姉が何も言わなくなるのは今まで一緒にいた経験上よく分かっている。母も嫌な予感はしていただろう。
 あの時と、足を壊した時と似た状態に陥っていると瞬時に感じ取った。
 原因はおそらくバレエがらみだろう。あの情緒不安定さ、散らばったバレエ参考書、右足に爪を食い込ませる仕草。そうとしか思えない。何があったのだろうか。怪我の再発、人間関係の不和、スランプ。考えられる原因は何通りもあった。

 いや、考えても埒が明かないな。
 とりあえずしばらくは様子を見るか。すぐに結論を出すには情報が少なすぎる。そう考えをまとめ、心なしか重い足取りでファミレスを出た。時計を見ると、ただの食事に二時間も粘っていた事に気が付く。あたりは既に暗くなり、私もそろそろ家に帰ろうと家の方角に足を向けた。あの悲しげな姉と顔を会わせるのが少し辛い。胃の痛みを感じながら、そんなことを考えていた。
 その時だった。
「おい姉ちゃん!どこ見て歩いてんだよっ」
 ドラマの撮影か、とその安っぽいセリフに思わず振り返った。強面の男に腕を掴まれている小柄な髪の長い女性。撮影のカメラは何処にも見当たらない。気の毒だなと思いつつ見て見ぬふりをしようとした。だが。

 見えてしまったのだ。その男がいやらしい顔をしてその女性を暗い路地裏に連れ込もうとした時、女性の横顔が。


「姉さんっ!!」

 路地裏の怪しい店に連れ込まれる一歩手前で、その女性の腕を掴むことに成功した。顔を覗き込むと、やはり姉だった。ただし、真っ赤になって目が据わっている。足取りも覚束なく、息も酒臭い。
 全くこの人は。
「おいおい、何だよ姉ちゃん」
「先ほど警察を呼びました。姉を返してください」
「はぁ?」
 渾身の力で睨みつけ低い声で威嚇をすると、男は一瞬怯んだ。その隙に汚らわしい腕を払って姉を横抱きにする。今日はローヒールのブーツを履いていてよかった。高校を卒業して以降、初めての全力疾走だ。
 姉の体は嘘みたいに軽かった。
「はぁっ、はぁ、はぁ」
 男は撒いたようだ。泥酔した女を横抱きにして疾走する背の高い女なんて街中にて好奇の目に晒されること間違いなしなのだが、目立つことによって返って追跡を諦めさせられたようだ。私は駅前にあるバスターミナルのベンチに姉を下ろすと、その華奢な肩を揺らした。
「姉さん、どうしたのこんなに酔って」
 姉は、何も答えない。ただ虚ろな目で宙を見つめるのみだった。私のことまで認識できないほど飲むってどういうことだ。この人は確かに下戸だが、そんな自分が分からずに無理やり飲むような人ではない。ちゃんと自分の限界を知っているはずだ。
 脳裏をとある予感が過る。この人がこれほどまでに泥酔するに至った、原因。昨日のあれと関係があるのか。
 これは早いところ家に持って帰って寝かせた方が良いだろう。姉のためにも、私のためにも。そう思って、再度彼女を抱えようとした時だった。

 彼女の肩から、シンプルなベージュのショルダーバックがずり落ちる。チャックが閉まっていなかったらしく、中身がベンチからも落ちてコンクリートの地面に散乱した。
 慌ててその中身を拾い上げる。大きな化粧ポーチ、財布、定期、携帯電話、キーケース。
 そして最後に、分厚い紙束を拾い上げた。それは、A4サイズのコピー用紙。

 羅列していたのは、すべてバレエ団の名前だった。東京23区の中にあるバレエ団すべての名前かもしれない。
 そのほとんどへ書き殴られていたのは、痛々しいバツ印。

 なんだこれは。


「おどりたい」


 バスの排気音がターミナルに響いている。それにかき消されそうなか弱い声が、確かに耳に届いた。
「姉さん? これ、」
「バレエ、したい」
 俯いた彼女の掌に落ちる水滴。それは二滴、三滴と増え。やがて小さな嗚咽も聞こえてきた。
「がんばって、バレエできるようになったのに。おどるばしょが、ない……」

 息ができない。

『じゃあコールドの身長目安は?』
『えーっと。たしか158くらい?』
『新国立は163以上よ』

『楓。彼に口添えをしてあげてくれないかしら』


 どうしてこんな簡単なことに気が付かなかったのか。私が彼との婚約を破棄すれば、誰が一番つらい目に合うか。
 少し考えれば、分かることだっただろ。


「なんでみんな、わたしからバレエをうばうの?」


 四年半。運命が姉からバレエを取り上げていた年月だ。
 普通の人間ならとっくの昔に夢を投げ出しているであろう、長い長い時間。それでもこの人は、バレエが好きだから、自分はバレエがないと生きていけないからと言って、その不安で押しつぶされそうな時間を耐え抜いた。言葉の通じない異国へ渡り、過酷なリハビリに明け暮れた。
 バレエをもう一度したかったから。ただ、それだけを糧に。
 ジュニアの世界で女王と謳われた彼女が、端役からやり直す。どれほどの屈辱だっただろう。それでもこの人は踊れれば幸せだと笑っていた。狭いスタジオにすし詰め状態で、満足に空間を取っての練習もままならない。それでも彼女は、踊れる場所さえあれば満足だったのに。

「私が……奪ったのね?」

「わたしを、おどらせてくださいっ」


 小さな体が震えていた。姉は私の問いには答えてくれなかった。

 ずっとこの人のことを、心のどこかで恨んでいた。私に向かう予定だった愛情を全部独り占めしたと、嫉妬し、失敗を望んでいた。尊敬している、私は千代田渚の代用品。そう思い込むことで封じていた感情。
 姉さんのことが、大嫌い。

 でも、それ以上に大好きでもあった。
 他の人がそうであったように、私もこの人を愛さざるを得なかったのだ。

「泣かないで、泣かないで、姉さん。泣かないで……」
「バレエ、バレエしたいよぉ」
 羨ましさは、好きと嫌いでできていると思う。
 私はこの人のことが、愛しくて、憎らしかった。

「ごめんなさい、姉さん」

 折れそうな体を抱きしめながら、私は何度も何度も姉に謝った。


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