不幸の芽は幸福のシャワーを浴びて
「ちょっと聞いた!? 幸村くんに彼女できたんだって!」
「ああ、聞いた聞いた。あの文化祭の時にジュリエットやってた子でしょ」
「マジありえなくない? ヒキョーじゃん。あんな舞台一緒にやったら誰だってその気になるし」
「っていうか今更だけどさ、幸村くん演劇サークルじゃないのになんでロミオやったわけ?」
「あれ、知らないの? けっこー有名な話じゃん?」
「え、なになに知らない」
「演劇サークルの部長、文化祭前に事故って今も病院らしいよ? んで、ロミオ役の男はその部長に惚れてるだかなんだかで、文化祭の時もずっと病院から離れなかったとか」
「だからって文化祭のメインステージで穴とか開けられないじゃん? しかも1時間半も。だから『代役とか立ててなんとか上演しろ』って話になって。っていうか言ったの私なんだけど」
「あ、そっか。アンタ文化祭委員のステージ班代表だったもんね」
「でもさ、まさか連れてきた代役が幸村くんとは思わないじゃん?私マジで代役許可出したくなかったもん。でも副部長の小谷とかいう3年がすっごいプレッシャーかけてくるし、ジュリエットの代役だった女マジ怖かったし。あれで1年とか詐欺だよ詐欺」
「えーっ、でもそれってなんか身内の不幸ダシにして幸村くんの同情誘ってるみたい」
「でっしょー!? 私もそれ思ったわけよ。代役候補が幸村くんだって知ってたら、私もわざわざ『代役立てろ』なんて言ってないっつーの。明らかに幸村くんの優しさ利用した確信犯だよあの女」
「うわ、無いわー。っていうかあの子、いろんな教授から気に入られてるよね」
「歴史学科1年の間では女王様扱いなんだってさ。顔はまぁいいしスタイルもそこそこだし、何より頭よくって金持ちなんだって」
「うわ、お嬢かよ。ますます無いわー」
「ほら、教養科目で西洋思想史入門の先生いるじゃん? あのハゲでいっつも茶色いボロスーツ着てる」
「あーいたね、そんなの」
「あいつ元はと言えば歴史学科の教授らしくて、ものすっごい堅物で有名らしいの。でもあの例の女王様だけはお気に入りらしくて」
「あ、それ聞いたー! なんかあれでしょ? 研究室で2人で銀座のたっかいケーキ屋のモンブラン食べてたって話でしょ?」
「うわーマジないわー。つーかどういう意味合いでのお気に入りなわけ? 研究室で2人きりとか」
「そりゃあ、ねーっ?」
「うわーっ。あのハゲとキョウダイとか幸村くんマジかわいそすぎる。涙出てきた」
「幸村くんにあんなビッチとかマジ似合わないんですけど。目力強すぎで威圧感ありすぎ。ちょっと外見いいのが自慢ですオーラばんばん、っていうか……」


 トイレの鏡の前に立つと、今まで水洗トイレの水流のごとき勢いで喋り続けていた四つの口が止まった。ついでに自分たちの顔をアイラインやらチークやらグロスやらマスカラやらで塗りたくっていた八本の腕も止まった。私は蛇口で手を洗い、持っていたミニタオルで手を拭き、ポーチから油取り紙を出して鏡を見ながら鼻周りを軽く抑えた。ファンデーションを塗っているとこれだから嫌だ。少し顔を顰めながらトイレを去ると、またトイレの洗面台付近が騒がしくなっていた。
 あの日から三週間が経過しようとしている。季節はとっくに二月に入り、今日は学校での期末テストの最終日だった。私のテストはすべて終了していたが、幸村さんはもうあと一つだけレポートが残っていた。締め切りは明後日の夕方四時なのだが、片道1時間ちょっとかかる大学にレポートだけ出しに来るのは大変億劫だ。よって私は今、必死にパソコン室でレポートと格闘している彼を待っていた。
「ごめん千代田さんっ! あと200字!」
「私にはお構いなく。落ち着いて取り組んでください」
 パソコン室に戻ると、残り字数が三百字から二百字に変化していた。二年生ともなると大変らしい。フランス文学の巨匠スタンダールについての大変興味深いレポートを書いている幸村さん。髪をかき上げながら画面や資料と向き合う姿がとても理知的で素敵だ。個人的には黒ぶち眼鏡も掛けてほしいところ、おっと失礼思わず本音が。
 暇があるといっしょにいるので周りからは完全に勘違いされているのだが、幸村さんとはまだ、以前と変わらぬ良い先輩と後輩の関係である。私が彼に、再度告白をする権利を獲得していないからだ。
 最後に会ってから一度も、婚約者から連絡はない。本当は連絡を入れたかったのだがこちらもテスト週間で立て込んでいたため、タイミングを見失った。今日の夜電話してみるつもりだ。
 婚約破棄を認めてもらえさえすれば、私は明日にでもこの人に告白する気だった。日増しに強くなるこの想い。
 幸村さんが欲しいという、焦燥。
「よし、終わったぁ!」
「お疲れ様です。見直しはしましたか?」
 冷静に振る舞っていても、本当は今にも爆発してしまいそうだった。この人とこの微妙な距離を保つことがつらい。
 告白さえすれば、もっと近くに。

「うん、大丈夫。帰ろうか」
「はい」
 まだ疎らに人が残っているパソコン室、私たちは自分が使っていたパソコンの電源を落としてそこを出た。時刻は夕方の五時半。あたりはもう薄暗くなり始めている。触れそうで触れないこの手の距離がもどかしかった。
「後期おつかれってことで何か食べて帰ろうか」
「いいですね。私白木屋がいいです」
「キミ好きだね白木屋」
「安くておいしいじゃないですか。それにあそこのグラタンが好きです」
「そういえば、千代田さんの好きなもの知らないな。グラタン以外は?」
「一番好きな食べ物はハンバーグです」
「ふふっ、なんか意外」
 笑われる理由がよく分からないが、続ける。
「あと、甘いものも好きです。フライ物も好きです。でも基本的に何でも食べます」
「逆に嫌いなものは?」
「ありません。しいていうなら食べられなさそうなものがダメです」
 まだ遭遇したことはないが、あの某国の露店などで並んでいるゲテモノは食べられそうにない。だがそれ以外はおそらく何でも食べられるだろう。うちの家族は揃いも揃ってベジタリアンだが、私は肉も魚も好んでよく食べる。家では食べられないのが苦痛だが。
「ふふっ、千代田さんよく食べるもんね。なんで太らないのか不思議だよ」
「幸村さんに言われたくないです」
 私も確かに一般の成人男性と同じくらい食べるが、幸村さんはおそらくその三割増しの量を軽々と平らげる。それで腹八分目を心掛けてるんだとか言うものだから、一体その美しい彫刻みたいな体のどこにそれが収まっているのか不思議でしょうがない。
 そんな他愛のない会話をしている内に、目的地へ到着した。レポート提出室のポストにレポートを投函し終えた幸村さんは、なぜかそのあとに黙りこくってしまう。

「楓」

 あの夜以来、初めて呼ばれる名前。
「何か、困ってることない?」
「え?」
 どこか心配するような声音に、私は首を傾げた。今のところは、特には。
 確かにお母様が少々癖のある人だということには頭を悩ませていたが、それでも私はもう誰かのせいにして諦めたくなかったのだ。ひとまず、今日電話をかけて彼に現状を聞く。困るとしたらそれからだ。明日にはバイトの面接も控えている。自分なりに、ちゃんと一歩ずつ進んではいるつもりだ。
「もうすぐ」
「え?」
「上手くいけば、なんですけど。もうすぐ、幸村さんに聞いてもらいたいことがあります」
 そう言うと、幸村さんはやっぱり、花が咲き誇るように笑った。
「俺も、楓に聞いてもらいたいことあるんだ」


 帰宅したのは夜の10時くらいのことだった。居酒屋で付いた煙草の匂いを洗い流すようにして風呂に入り、自室で一息ついていた。幸村さんの煙草の匂いは別に構わないのに、ほかの人の匂いがそこに少しでも混ざると途端に嫌悪感が募るのは、やはり私が幸村さんオタクだからか。髪の毛を乾かしながらそんな気持ち悪いことを考えていた、その時だ。
 突如響いたのは衝撃音。固い物同士がぶつかり合う様な鈍い音が二回、三回と断続的に続く。それは私の部屋の扉に向かって右側にある壁から伝わってきた。
 姉の部屋だ。

「姉さん?」
 入るよ、と了解を得て中を覗き込む。今の音を聞きつけたのであろう、母が階段を上ってくる足音が聞こえる。
 姉の部屋はその外見のイメージとは異なってシンプルで無機質だ。基本的にモノトーンで、尊敬するバレリーナのポスターなども特には貼られていない。本棚に収納された大量の文庫本とハードカバー、そしてベッドとテーブルとノートパソコンと備え付けのクローゼット。相変わらずこれら以外は特に物は置かれていなかった。
 ただ、例外が一つだけ。
「どうしたの?」
「っ」
 黒いラグマットの上に座り込む姉。壁際には大量のバレエに関する参考書がページの折れ曲がった状態で散乱していた。
 記憶にある限り、小学生のころから彼女が持っていた本だ。

「姉さん、大丈夫?」
「ちょっと渚! 何してるのこんな夜中に!!」
 母が私と扉の間に割り込んでくる。しかしその瞬間響いたのは先ほどよりも数倍大きな衝撃音だった。
 扉に直撃したのは、母が姉へ譲り渡した年代物のバレエ参考書。英語で書かれたそれは、古く分厚かった。
「だいじょうぶ、だから。……出てって」
「渚……?」
「頼むから、ひとりにして」

 見てしまった。
 彼女のその小さな爪が、右足首へ鋭く食い込んでいく様を。


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