長きに渡る戦いの火蓋
 2日前。バレエ団の練習を終えて周助と合流した頃、母親から緊急事態を告げる電話がかかってきた。
 彼氏の車内から突然消えたという妹を探すため地元に戻ろうとする私を引き留めた周助は、その後寝耳に水の事実を私へ話し始めた。妹の秘めた気持ちも、あのふたりにそんな恥ずかしいシーンを見られてたことも知らなかった私は大混乱だったが、何とか柳に幸村の連絡先を教えてもらい電話を掛けることはできた。
 その後私も急いで神奈川湘南の自宅付近へと戻り、雪が降る中妹を探し続けたのだが。

「で? 楓ちゃんどうだった?」
「えっ……」
 そして一夜明けた今日、1月20日日曜日。バレエ団の練習が終わった後に私は周助の部屋に遊びに来ていた。
 結局あの後、幸村と楓ちゃんという私にとってはまさかの組み合わせが丸く収まったわけだが。だからと言っていろんな人を巻き込んでその心を弄んだ周助が許されるはずはない。昨日のところは会計を全額周助が負担するということで落ち着いたが、柳は相変わらず周助の存在すら認めてないみたいな態度だったし、幸村とは最後まで威嚇し合っていたし。
 友達と彼氏に仲良くしてもらいたいという私のひそかな夢は、帰国早々粉々に砕け散ったのかもしれない。
「顔に書いてあるよ。楓ちゃんが心配だって」
「……」
 そんな私の気持ちも知らず、周助は今日もにこやかだ。本当に反省したのかこの男は。
 ということで引き続き反省させるためにも、しばらくするのは禁止だ。これが一番きついお仕置きだって私知ってんだぞ。
「幸村にはああいってたけど、やっぱりすんなり別れられなかったの?」
「うーん……やっぱりね、若干駄々こねられてるみたいで」
 周助が淹れてきてくれたコーヒーを味わっていたら、周助が楓ちゃんのことを訊ねてきた。一応妹のことが気になっていたというのは嘘ではないらしい。
 妹は昨日の夜兄ちゃんに会いに行った。別れを直接告げに行ったらしい。兄ちゃんに限ってそんなことはないと信じてるけど、もしかして楓ちゃんのこと言いくるめてそのままお付き合い続行、なんてことにならなきゃいいなと内心ハラハラしていたのだが。そんな心配は全くの杞憂に終わった。
 私が周助によって自宅に送り届けられた頃には、すでに彼女は自室で寝息を立てていた。珍しいな、楓ちゃんいつも日付超えるまでは目パッチリなのに。疲れちゃったのかな、なんて思いつつも布団を掛け直してあげた。
 けれどそれもつかの間。今朝話した時、事の顛末を聞かされた。
『少し考えさせてもらいたい。母親のこともあるし、って』
 兄ちゃんの母親。私にとっては団長っていう呼び方の方がなじみ深い。とにかく厳しい人で、バレエ団を守るためにはどんな犠牲も厭わない人だった。兄ちゃんは基本的にあの母親に逆らえない。
「まぁでも、兄ちゃんが尻込みする理由も分からなくはないんだよね……。あのプライドの高い団長のことだから、この前の失踪事件でかなり腹立ててるのは確実だし。それで今このタイミングで『婚約解消させてほしいって楓が言ってる』なんて話したら」
「んー、めんどくさいかもね」
「そう、めんどくさいのよ」
「でもその彼氏も煮え切らないね。いい歳して母親の言いなり?」
「そう、そうなのよ。一応今朝スタジオで会ったから声かけてきたけどね」
「なんて?」
「うちの妹泣かせたらぶっ飛ばす」
 だいたい、あの婚約からして私はドン引きだったのだ。だって申し込まれた時まだ楓ちゃん18歳よ!? 高校3年生だよ!? 大学進学も控えてるっていうのに、どういう神経してんだあの母親! 兄ちゃんも兄ちゃんだ、母親に指図されてプロポーズなんて気持ち悪いにもほどがある。
「……次期団長にそんなこと言っていいの?」
「いいんだよ別に。私と兄ちゃんの仲だし」
「……へぇ?」
 とかいろんな思いが頭の中でぐちゃぐちゃになって、うわああああと髪の毛がボサボサになるまでかき乱していたら。周助が「まぁまぁ、落ち着いて」と髪を優しくなでて整えてくれたのでちょっとだけ落ち着けた。つくづくこの男には弱いなと思う。


 周助のお母さんに夕飯を誘われたけれど、その日は丁重にお断りして自宅に帰った。だってこれ以上居座ると周助が、って自主規制しますねすみません。夜7時に帰宅すると、楓ちゃんはリビングで求人雑誌を読み漁っていた。聞けばバイトを始めるんだとか。塾や家庭教師の求人探してるらしい。周助と同じだね! って言ったら無言でものすごい不愉快そうな顔された。
 いまだに楓ちゃんのその顔は怖い。楓ちゃんの周助嫌いを改めて自覚する。個人的には仲良くしてもらいたいのだが、楓ちゃんが誰を好きになろうと嫌いになろうと、自由だからな。それにしたってなぜ周助は私の周りにいる人間にことごとく嫌われるのか……。


 翌日。朝起きた時、楓ちゃんはもう家にはいなかった。確か月曜日は1限から授業があるとか言っていたな。そう、今日は月曜日。私も午後からバレエ団の練習がある。もちろん、早めに行って日課の自主練を行うが。
「楓が最近毎日化粧して髪型整えて、しかもスカート穿いて学校行くんだけど。気になる男でもできたのかしら」
 顔を洗ってダイニングに顔を出すと、お母さんが私のお椀にみそ汁を入れながらそんなことを訊いてきた。
「楓ちゃんにもようやく春が来たんだよ母上」
「婚約者とまだ完全には別れてないのに、あの子大丈夫なのかしら」
 まぁ、大丈夫でしょう。とみそ汁を口に含みながら心の中で呟いた。
「お母さん、頼むからこれ以上楓ちゃんに余計な事言わないでよ?」
「……分かってるわよ。あの子もいい歳なんだから、自分の身の振り方くらい自分で考えられるでしょう」
 貴方と違ってうんとしっかりしてるしね、なんて言いながら自分の分のみそ汁もお椀に入れているお母さん。一言余計だ、まったく。
 兄ちゃんと楓ちゃんの破局を知った時、お母さんは案外冷静だった。楓ちゃんとは互いにその話題を避けてるっぽかったけれど、とりあえずあの子に根掘り葉掘り聞いたり不安を煽るようなことを言わなかっただけでも良しとしよう。うちのお母さんはけっこう空気が読めないことで定評があるのだ。悔しいことにその能力は私にも遺伝している。
「でも貴方の言うとおり、最近やっと年頃の娘らしくなってきたわね」
 そんなことを考えながら独り頷いていたら、お母さんの口からはまず飛び出さないであろう言葉が飛び出してきたので少しビックリした。
「珍しい。お母さんがそんな普通の親みたいなこと言うなんて」
「どういう意味?」
「いっつもガミガミ、ああしなさいこうしなさい、あれはダメこれははしたない、って。てっきり文句しか言えないのかと」
「渚、貴方の洗濯物今後一切しておいてあげないわよ」
「げっ」
「娘が元気に楽しく毎日を過ごしてて、嬉しくない親なんていないわ」

 うちのお母さんは厳しい。いや、厳しかった。バレエに関してはとにかく鬼と化すし、流行りの露出が多い服なんかも着てると怒られるし、テレビ見るよりも本を読みなさいってうるさかった。でもそれも私たちが成長するにつれて教育からただの小言になり、最終的に『勝手になさい』という諦め交じりの言葉で終息するようになった。バレエに関してはほとんど口出ししなくなってきたと言ってもいい。
 歳をとるにつれて丸くなったんだろうな、と思う。最近、ふとした瞬間に母がものすごく小さく見えるのだ。そして、どこか寂しそうにも。

「お母さん」
「なに?」
 席について、ご飯とみそ汁と卵焼きだけというシンプルな朝食を前に手を合わせるお母さん。お母さんが好きな赤みそのみそ汁を飲み込んで、私は声をかけてみた。けれど、
「……なんでもない」
 時間もなかったし、今更訊いてもどうしようもないことだったから、やめた。

 ねぇ、お母さん。あの時、お母さんは何を考えてたの? 私がバレエできなくなって、楓ちゃんが私の代わりにバレエするって言って。あの時、お母さんは本当に、楓ちゃんを私の代わりにしようとしてたの?
 結局お母さんは、誰が必要だったんだろう。私か、それとも。


「おはようございます!」
 一礼して練習スタジオに入る。まだ誰もいない部屋、私はそこで鏡の前を広々と陣取り、時間をかけて柔軟をするのが日課になっていた。この時間は、考え事をするのにもってこいである。裏を返せば、考え事でもしていないとやってられない。体は暇じゃなくても頭が暇すぎるのだ。
 周助馬鹿の私は、たいていこの時間周助のことについて考えている。今何してるかなーとか、今度のデートでは何しようかなーとか。周助のカッコいいところ片っ端から挙げていこうぜゲームとか最近のブームなのだけど。これ他人に知られたら間違いなくドン引きされるよな。お前ら付き合ってもうすぐ何年よ? ってツッコミ絶対来るんだよ。でも実質今まで遠距離だったからね、今わりと一番楽しい時期だって理解していただきたい。 って、そうじゃなくって。
「千代田さん、いますか?」
 今日は楓ちゃんのこと考えるんじゃなかったのか渚! と自分を叱咤していたその時だった。
 部屋にノックの音が響いて、扉が開く。私を呼んだのは新宿バレエ・シアターでも古株と言われる中年女性の先生だった。私もジュニアの時代に何度かお世話になっている。バレエ団の中でもそこそこの地位にいる指導者で、歳を思わせないピンとした背筋と銀縁の眼鏡が特徴的な人だ。
 彼女は部屋に入ってくると、私に近づいてきた。慌てて立って姿勢を正すと、彼女はどこか気まずそうに私から視線を逸らして私の前に立つ。なかなか口を開こうとしない先生に、私は「先生?」と呼びかける。
 その声に反応して、彼女は意を決したように私を真っ直ぐと見据えた。その瞳は悲しげだった。

 そして彼女は告げる。


「千代田渚さん。貴方に退団命令が下されました」


 私がその言葉を理解するのに、はたしてどれだけの時間が必要なのだろう。そんなことは分かりたくもない。


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