いい子だから好きなんじゃないのに
 楓と思いを通わせたその後のこと。今日はバイトのシフトが14時から20時まで入っていた。楓を自宅まで送り届けた後に仮眠をとって、軽く昼食を食べてからバイト先へ向かった。それから真面目な勤労学生として働き、社員さんたちに一通り挨拶をして店を出た頃には20時半近かった。
 携帯を確認すると、俺ん家の最寄駅近くにある居酒屋で蓮二と飲んでるっていう真田からのお誘いメールが入っていた。もちろん行くほかに選択肢はない。問いただしたいこともあったので、原チャリどうしようかとかと一瞬悩んだが結局そのまま原チャリで居酒屋に直行。まぁ1日くらい置いて帰っても大丈夫でしょ、なんて考えながら店内に入った。
「すみません、連れが先に入ってるんですが」
「お名前伺ってもいいですか?」
「えっと……たぶん真田の名前かと。それか柳で」
「……少々お待ちくださいね」
 個室居酒屋の店員が部屋を調べている間に、手早く真田に『今着いた』とメールで送った。その直後に店員に案内されて俺は一つの小部屋に向かったわけだが。
「……はい、とりあえず上がりましょう」
「……」
 いるはずのない人物が真っ先に視界に入り、俺は思わず扉を閉めた。間髪入れず扉が開いて細い手が俺の肩に掛かる。
「待て待て待て、なぜ去る!?」
「お前が居るからだよ、何処から湧いて出た!?」
「人をゴキブリみたいに言わないでくれる!? 散々連絡入れたのに無視してくれちゃって、言え! 嫁入り前の娘連れ込んで朝までナニしてた!?」
 相変わらずのキンキン声で騒ぐバレエ馬鹿女に目元がヒクつくのが分かった。なんっもしてねぇよ、自分でも仙人か何かに昇格できたのかってくらい健全なキスしかしてねぇよ。
「幸村、とりあえず上がれ。皆お前に用があるようだ」
 掘りごたつの奥でチビチビと日本酒を飲んでいる真田が、冷静にそう言った。完全に我関せずの姿勢を貫こうとしている姿にとりあえず腹パン決めとくかと、しぶしぶ靴を脱いだ。
 そこには千代田楓と真田弦一郎のほかに、どこか心此処にあらずと言った空気の柳蓮二と。
「バイトお疲れ様、勤労青年」
 あのクリスマスのバレエ公演ぶりに会う、不二周助がいた。
「なに、千代田の妹に手を出したって吊し上げにでも遭うの、俺」
 周りからは魔王の微笑みとも噂されたあの神の子スマイルで威嚇すると、ため息を付きながら千代田が不二の隣の席へと戻っていく。
「……とりあえず座りなよ。お腹空いたでしょ」
「本当にそうなら帰るけど」
「そうじゃないって」
「じゃあこのメンツなに」
 そうとしか考えられない謎メンツをぐるりと見渡すと、相変わらず放心状態にも似た蓮二と目が合った。
「……何か頼むか?」
 よく言えば優しい、悪く言えば腑の抜けた声でそう問われ、急に己の中の闘争心がしぼんでいくような気がした。なんでお前が傷付いた顔してるんだよと問いただしたくなるのを必死に抑えて、仕方なく蓮二の隣に座る。
「とりあえず生。あとほっけのあぶり焼きとつくねとぼんじり」
「あ、じゃあ僕たこわさ追加で」
 タッチパネルで手際よく追加注文をしていく蓮二に、不二が場違いな明るさでそう言った。蓮二は無反応、どうしよう普通に居心地が悪すぎる早く退場したい。
「たるんどるぞ、蓮二!」
 蓮二がタッチパネルで注文を飛ばした20秒後、沈黙を吹き飛ばしたのはやはり皇帝の叱咤だった。
「……精市、お前に謝りたいことがある」
「ドタキャンでしょ? もういいよ、結果オーライ結果オーライ。お前と俺の仲じゃん?」
 そんなことより俺が問い詰めたいのは、斜め前でウイスキーロック飲んで顔色一つ変えてないこの性悪だ。
「どこまで噛んでる?」
 低い声でそう問いかけると、不二は無言でニッコリと笑った。

 この男が嫌いだ。
 最初に手を出したのは確かに俺だった。三連覇の始めの一歩だからといって、あそこまで徹底的に不二周助という選手を潰す必要はなかったと今なら思う。彼は結局重度のイップスを患い、何か月も貴重な現役時代を棒に振った。
 その恨みをぶつけられているというのなら、納得はしないが甘んじて受け入れるつもりだった。
 だがそうではない。
「……周助」
 この男の嫌味、嫌がらせ、俺に対する迷惑行為はすべて、千代田渚に対する俺への牽制だった。あのクリスマスの夜だってそうだ。
「周助」
「……」
 千代田の呼びかけにも答えず、俺たちの睨みあいは続いていた。コートの上なら完膚なきまでに叩き潰していたが、生憎ここは何の変哲もない居酒屋。図に乗った青学の天才にどうお灸を据えるか俺自身も決めかねている。
「幸村、あのね」
「お前から謝罪聞きたいわけじゃないよ」
 俺がそう言い終えるのと同時に、俺の生ビールとほっけ、それに不二のたこわさが来る。
 店員が去った後、しばらくまた個室は無言で包まれた。誰も何も言葉どころか音すら発しない。
 そんな静寂を打ち破ったのは、やはりというか。
「済まなかった」
「……」
 我らが参謀だった。
「妹に問い詰めたら吐いたよ。柳さんに頼まれたって」
「……ああ、その通りだ」
「妹まで使って、そんなに俺と楓をくっつけたかった?」
 蓮二に向けてたその視線を、今度は不二へ咎めるようにして向けた。狐はいつもの胡散臭い笑みをさらに深くして、頬杖をつきながら俺を覗き込んできた。隣では千代田が胃が痛そうな顔をして俺たちを見守っている。
「どこまで噛んでるかと訊いたね」
 彼はウイスキーを軽く口に含んで、喉の奥へと流し込んだ。
「全部だよ、全部」
「……」
「僕が柳に頼んでそう動いてもらった」
「……うちの参謀をどうやって動かした」
「別に? キミはどうして5年前、渚と幸村を助けてあげなかったのって聞いただけだけど」
 この男は俺を怒らせる天才だと思う。
「……助け方、知ってたは」
「周助、それくらいにしないとこの場の全員敵に回すよ」
 千代田の遅すぎる制止に、不二はやっと自分の置かれた状況を理解したようだった。8つの瞳がギロリとたったひとりの男を睨む。王者の絆も舐められたものだ。
 彼氏になって千代田のすべてを独占したつもりか、はてまたここで彼女を試すつもりだったか。どちらにしろ興味はないが、そこは部外者が気安く触れていい場所ではないんだよ。

 この男と公式戦で計5回当たった。月刊プロテニスで何度か対談もさせられたし、部長同士の集まりでも顔を合わせた。高校時代何度も会ったが、会うたびにこの男の牽制の裏に潜む千代田への欲望に反吐が出た。遠距離のうちからこんなに執着しているんだ、千代田が戻ってきた時のことなんて考えたくもない。この男の身勝手な独占欲にあの子が潰されてしまわないかと、千代田の身を案じた夜もあったくらいだ。

「楓を、俺への当て馬にしたんだな?」
 恐れていたことだった。本当に、なんて男を選んでくれたんだ千代田。
 この男は千代田渚以外の女なんて基本的にどうでもいいと思っている。たとえ未来の義妹だったとしても、その恋を純粋に応援するなんてありえない。
 楓の恋心を利用して俺に宛がったのは容易に想像が付いた。
「失礼だな、そんなんじゃないよ。単純にキミへのクリスマスプレゼント」
「……ふざけるなよ」
「何とも思わなかっただろ? 気付かせてあげたんだよ。キミの中にある渚への感情は、もう恋じゃないって」
 頭に血が上ったのは、ビールを飲んだからじゃない。断言できる。
「楓の気持ちをなんだと思ってるんだお前!!」
「幸村ストップ」
 かつて不二を完膚なきまでに叩きのめしたこの右手を伸ばした。けれどそれは不二の胸倉に届く寸前で小さな手に止められる。たとえ彼女に対する思いが変わっても、俺はやはりこの小さな手には逆らえないらしい。
「周助をここへ連れてくるべきじゃなかった。……余計怒らせちゃったね、ごめん」
「……だから、なんで千代田が謝るんだよ」
 納得のいかない代理謝罪に、何故か千代田への怒りまで湧いてくる。
「……ああもう、分かったよ」
 その時、千代田を謝らせてしまったことでようやく何か切り替わったのか、不二が呆れたように肩を竦めた。
「僕が全部悪かった。ただ弁明をさせてもらうなら、渚の妹だからなんて理由で振られる楓ちゃんが不憫だと思ったのも本当だよ」
 そんな単純な問題ではないと反論したかったが、俺と楓の紆余曲折を説明するわけにもいかないので睨むだけで留めておく。
 俺の前に座る千代田が大きくため息を吐いた。
「だったらもっと他にやり方はあったでしょう……。ほら、柳にもちゃんと謝って」
「ごめんね柳」
「……」
 完全シカトを決めている柳に、千代田は途方に暮れていた。お前の彼氏が悪い。
「……ところで、お前なんでここに呼ばれたの?」
「……俺が聞きたい」
 お誕生日席で鉄壁の守り山を発動させてひたすら日本酒を飲んでいる真田には、ほんの少し心の底から同情した。
「まぁ、なんというか。始まりこそいろいろウチの彼氏がご迷惑お掛けしましたが、楓ちゃんと幸村の愛を私は信じているので」
 そこでようやく、千代田はすっかりぬるくなっていそうな中ジョッキを持って俺の方へと向けてきた。
「二人が結ばれて嬉しいよ」
 不二の視線が痛かったが、俺は無視して自分のジョッキを持つと千代田のそれに軽く当てた。千代田が、昔大好きだった女の子が嬉しそうに微笑んでいる。
「ああ、俺も嬉しい」
 同時に、この子の笑顔の裏で楓が泣いていたんだと思うと、以前のように満面の笑みで応えることはできなかったんだけど。

「幸村」
「ん?」
「楓ちゃんね、今頑張ってるよ」
 違う、ちがうよ千代田。楓はずっと頑張ってたよ。キミたちが気付かなかっただけで。
「楓ちゃん、すっごくいい子だから」
 知ってるよ。でも俺は、いい子な楓は痛々しくて見てられないよ。
「だから、妹をよろしくね」

 言われなくても。俺は、キミたち家族があの子から奪ってきたものを、全部あげるつもりだ。

「うん。ありがとう、千代田」
「……でも、嬉しいなぁ。うちの妹と幸村が、かぁ……」
 上機嫌で満面の笑みを浮かべる千代田。俺がかつて大好きだったはずの笑顔。
 自分でも確かに感じていた。小さな小さな『千代田』への不満が、この胸の内で育っていくことを。


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