視点は一つであるはずもなく
「何をしていた?」
 妹の頬を父が思いっきり張った。帰宅し、何事もないように部屋へ上がろうとしたからだ。母は心労で今二階の寝室で横になっている。私は幸村から『楓を保護した』というメールを貰ってから20回ほど電話をかけていたのだが、あのバカは携帯の電源を切ったままガン無視。もう1回だけ電話をかけてまだ音沙汰がない様だったら幸村家に押しかけようと思ったところで、彼女がようやく帰ってきた。
 妹は頬を庇うように手で覆いながら、ただ俯いていた。
「夜更けに理由も告げずいなくなって、連絡も入れないで今までどこに行っていたと聞いている」
 父は静かな声で、そう問い続けていた。私は何もできずただそこに立っている。私の記憶にある限り、優等生の楓ちゃんが父からこんなに怒られていることはまずなかった。
 だがロシアから急に帰国してきた時もそうだが、彼女は大人しいくせにときどき予想もしない突飛な行動に出る。
「申し訳ありませんでした」
「謝罪を聞きたいのではない。どこへ行っていた?」
「……男の人の家、です」
 やはり幸村は、楓ちゃんを保護した後に自分の家へ連れ帰っていたらしい。
「どうしてそのような場所へ行った?」
 恋人の車から急に消えて、お前らしくない。そう言う父の声音からは糾弾する意思は感じられなく、ただただ疑問に思っているような口ぶりだった。こういうところは本当に父親らしくないと思う。一応私は父に『私の友達が楓ちゃん保護したって』とは言ったが、それだけしか伝えていない。それでいて今まで娘が男の家にいたというのに、この落ち着き様はなんだ。本当に父親か。
 妹は俯いたまま何も言わない。
 こうなると何を聞いても無駄だった。聞こうとすればするほど口を閉ざしてしまう。言ってくれればいいのに、そうすればこちらも何らかのアクションを取れるのに。そんなもどかしい想いを抱えて早十数年。
 だから私は信じられなかった。
 楓ちゃんが小さな小さな声で、こう告げたことが。
「私、あの人との婚約を解消します」

 我が耳を疑った。今、楓はなんと?

「母さんに言うと、何かとうるさいので黙っていてください。本当は私が自分で解決する問題ですが、私は今さっきやっと、自分の本当の気持ちに気が付けたので」
 ですから二人にだけは、理由を言わせてください。忘れてくださって構いません。
 そう言って、彼女は顔を上げた。普段は何も映していないかのような澄んだ瞳は、廊下の窓から差し込む光で爛々と輝いている。常時真一文字に閉じられている唇も、ほんの少しだけ緩んでいた。

「あの人とそのお母様である団長は、私を姉さんの身代わりとして欲しています」
 胃に重く圧し掛かるその言葉。知っていた、ああ知っていたさ。
 だから私は何度も反対したんだ。あの団長はバレリーナや経営者としては有能かもしれないが、血筋のために息子の気持ちをまるで無視して嫁探しをする光景は傍から見ていて異常だった。
 けれど聞く耳を持たない妹と、相変わらずどこか抜けているお人好しの幼馴染を間近で見て、もしかしたらと思った。あの母親はともかく、兄ちゃんは楓のことを愛してくれているんじゃないかって。そして楓も、彼を愛しているのではないかと。
「私はそれでもいいと思って、今まで彼と交際を続けてきました」
 楓の将来の夢は普通のお嫁さん。それは独りでは絶対に叶えられない夢だから、これ以上私が彼女の夢の妨害なんてできないから。そう言い訳してふたりの交際を見守るつもりだった。
「けれど昨日、このままではダメだと気付かされたんです」

 ごめん、楓。お姉ちゃん、また楓の気持ちに気付けなかったみたいだね。

「それなりに情はありますが、流されてはいけないと思いますので。今から電話してきます」
「……わかった。誠心誠意対応しなさい」
「はい」
 私たちに一礼して、階段を上がっていく彼女。私とお父さんはそんな後ろ姿を見送りながら、しばらく無言で廊下に立ち尽くしていた。
 すでに時刻は朝の8時を回っている。スズメの鳴き声が外から聞こえ、私からは徹夜明けの印である生あくびが漏れた。

「随分と遅い反抗期だったな」
 笑い交じりにそう言ったのは父だった。仕事帰りのスーツ姿のまま、ホッとしたようにネクタイを緩めてリビングへ向かう。私はその後についていった。
「そういえば、楓ちゃんって反抗期なかったね」
「お前の反抗期は心が折れたと母さんが嘆いていたぞ」
「親のやることなすこと全部気に入らない時期ってのがあるんだって」
 私の場合、それがけっこう激しめだっただけだ。
 バレエができない八つ当たりで母親を罵倒する毎日、食事は残す学校へは行かない、挙句の果てには心配して掛かってきた電話をすべて「ウザい」で切るようになった。自宅に男連れ込んで処女まで捧げちゃって。
 そうだな、楓ちゃんにそんなことはなかった気がする。
 あの子はいつも両親の言うとおりに動いた。怒ることも泣くこともせず、ただただ頷いて。自分の意思を述べることなく。
「一度だけ、楓ちゃんの泣くところ。見たことある」
「いつだ?」
 お父さんと自分にコーヒーを入れている最中、ふとそんな昔のことを思い出した。
「ロシアから急に帰って来ちゃった時。ほら、お母さん突き飛ばして気絶させちゃったやつ」
「ああ、あの時か」
 あの時は子供以前に夫婦の間がヤバかった。何年も別居し、いよいよ離婚も秒読みかと思われた政略結婚の二人だったが、結局長年のすれ違いはお父さんの謝罪という形で幕を閉じたらしい。
「あの時楓ちゃん、自分は姉さんの代わりにはなれなかった、って」
「? 何だそれは」
「ほら、私が足ダメにして、お母さんかなり落ち込んでたでしょ? で、私の代わりになろうとしてたんだって」
 初耳だ、とばかりに父は無言になった。私はできあがったコーヒーを両手で持ちながら移動する。リビングで腰掛ける彼は、眉間にしわを寄せて何か考え込んでいるようだった。
「だけどお母さんがある夜に、私が主演だった公演のDVD見て泣いてたんだって」
「何?」
「あの頃は私もいろいろあって、楓ちゃんのことまで頭回らなかったからね……。無理してたんだよ、お母さんのために。……泣くほど辛かったんだなって、いろいろ反省したよ。姉として」
 優しくて不器用な妹。私は小さい頃、あの子のことを『感情が読めなくて怖い』と思っていた。けれどその時抱き締めてあげた後は、楓のことをもっと知ろうと努力するようになった。
 今でも、秘密主義の彼女のことは分からないことの方が多いが、それでも。
「渚」
 そんな私のアンニュイモードを引き止めたのは父だった。
「アイツが、舞が泣いていたのか? お前のDVDを見て」
「え? あ、うん。らしいよ? ……それで楓、『姉さんの代わりなんて私には無理だったんだ』って思ったって」
 どうも父の様子がおかしい。私の言葉に更に深く考え込んでしまう。テーブルに置いたコーヒーに手を付けようともせず、時間だけが経過していた。
「もしかするとそれは」
「え?」
 しばらくすると、父は何か思い当たったように口を開く。それは、限りなく独りごとに近い言葉だった。父はまた考え込んでしまうが、やがて何事もなかったかのように立ち上がった。
「過ぎたことだな。今さらどうこう言っても仕方がない」
「は? え、なに、なんなの?」
「会社へ行ってくる」
「はぁ!? 今日有給とったんじゃなかったの!?」
「いろいろとやり残してきたことがあるからな」
 そう言うと、彼はコーヒーに少し口を付け、リビングを去ろうとする。私は父に「今日くらい休みなよ!」と言ってはみるのだが、やはり聞く耳を持ってくれない。もう若くないのだから無理はやめてほしい。徹夜明けで仕事とか、普通にダメでしょ61歳。
「渚」
 急に、部屋へ向かおうとしていた父がその歩みを止めた。
「渚の代わり、という表現が引っ掛かったのは私だけか?」
「え?」
 父はこちらに背を向けたまま、静かにそう問いかける。私には質問の意図がよく理解できなかった。
「引っかかったって、どういう風に?」
「……お前たち、何か重大な勘違いをしてはいないか?」
 なにそれ。
「……楓ちゃんが、どこまでそれを重たく受け止めていたのかは分からないけど。でもお母さんが一時期、あの子を私の身代わりにしてたのは事実でしょ?」
 もちろん今はもうそんなこともないだろうが、あの時期の母は誰がどう見てもそう映っただろう。母親なら止めるべきだったのだ、バレエに関しては平凡な実力の楓ちゃんのロシア行きなんて。まぁ、それを荒んだ心で見て見ぬふりした私も同じ罪を背負っているが。
 父はそんな私の言葉を聞いて、しばらく無言を貫いた。
「お父さん?」
「お前、重要な事を何も言わない楓のあの性格、誰に似たと思う?」
「は?」
 そして急に、何の脈絡もないことを訊いてくる。そんなこと。
「お父さんでしょ?」
 基本的に私は母似、楓は父似だ。外見こそ楓は両親の良いところを半分ずつ受け取った感じだが、中身はまるっと父親似。真面目で不器用で、なかなか優しさを表に出さないところなんかがそっくりだった。
「違う」
「え?」
「確かに身長の高さや頭の出来などは私に似たが、楓のあの性格は、まちがいなく」

 そこまで言って父はまた無言になり、そしてリビングの扉を閉じて出ていった。
 この家族はまだ、完全な家族になれていないのかもしれない。そんなことを感じた、土曜日の朝。


prev next

bkm
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -