向き合うべき現実
「かーちゃん、あの人たちなにしてんのー?」
 どのくらい抱きしめ合っていただろうか。長い間であったかもしれないし、ほんの数分のことだったかもしれない。ただ、その無邪気な幼い声が土手の方から聞こえてきた時、みやびが一気に現実に引き戻されたのは間違いなかった。
「こら、静かにしなさいっ」
 少し押し殺したような母親の叱る声が聞こえてくる。高杉の体も明らかに強張ったのが分かった。
 やばい、恥ずかしい。うっそどうしよう晋助くんの顔見れない。
 勢いに任せて抱きついたはいいが、その腕の強さや行動の突飛さを今更ながら自覚してしまったみやびは、もう恥ずかしくて頭の中が真っ白になっていた。
 強く抱きしめ合ったといえば先日松陽ともそのような事があったが、父親ほどとは言わずとも年齢に大きな開きがあるであろう青年に対してそのような気恥ずかしさは起きなかった。しかし今みやびがその胸に飛び込んでしまった相手は、同い年の、しかも憧れの男の子だ。
「と、とりあえず離れないか……?」
 すると、高杉が戸惑いがちそう提案してきた。彼の腕はとっくに自分の背から離れている。みやびは思考停止しながらも反射的にその体から飛び退いた。
「ごごごごごめんなさい……!! ほんっとうにごめんなさい嫌わないでえええ!!」
 みやびは顔を両腕で覆いながら絶叫する。急に抱き付いてずっと離れない女なんて、きっとはしたないと思われた。嫌われた。みやびの頭の中はもうそんな被害妄想でいっぱいだった。
 視線を上げさえすれば、顔を真っ赤にした高杉の姿を見れて多少安心も出来るのだろうが、生憎今の彼女にそれが出来る余裕はない。
「いや、その……別に……気にしてねェし……」
 消え入りそうな声でそう告げる高杉だったが、今のみやびにその声量では届くはずもなく。しかし高杉は高杉で、まるで顔から湯気でも出そうな勢いで赤面し胸のあたりを押さえている様子から、みやびを気遣う余裕はなさそうだった。
「嫌いにならないで晋助くん……」
「だあああっ!! もう気にしてねェって言ってんだろ!! お前、今のこと誰にも言うなよ。桂とか桂とか桂とか!!」
「言わなかったら嫌わないでくれる?」
「嫌わねェよ! つか、いつ嫌いになるなんて言った!?」
 やっと顔を上げたみやびにそう捲し立て終えた頃には、高杉はひどく息切れしていた。変な汗が額や首筋を伝っている。なんか今日は暑いなと、みやびもそんなことを思っていた。
「じゃああの、また一緒に遊んでくれる……?」
「……またも何も、俺ァいつもあの神社にいるよ。来たきゃ勝手に来い」
 腕を組みながら、そっぽを向いて高杉はそう呟いた。みやびはそんな高杉の、まだ少しだけ赤い横顔を見ながら、徐々に落ち着きを取り戻していく。
「じゃ、じゃあ明日からまたお邪魔するね……!」
「……おう」
 素っ気なく頷いた高杉に、みやびは天にも昇る気分だった。
 また彼と一緒に過ごせる、嫌われてなどいなかった。その事実だけでみやびの顔は花が咲くように綻んでいく。今からもう明日の授業後が待ち遠しいほどだ。
「えへへ……銀ちゃんと一緒に私もサボっちゃおうかな……」
「……『銀ちゃん』?」
 しかし、その歓びは心の油断を生んでしまったらしい。ポロッと漏らしてしまった独り言のような一言。そこに紛れ込んでいた人名を、高杉は聞き逃さなかった。
 不機嫌そうな声が飛んでくる。鋭い眼光が向けられて、みやびはようやくその急に生じた不穏な空気を感じ取った。
「え、えっと……ほら、さっき先生に殴られて引きずられてった子……銀時くん。私は銀ちゃんって呼んでて……」
「なんで今、そいつの名前が出てきた?」
「えっ!? えーっと、銀ちゃんもサボりが好きで、よく神社で寝てるって言ってたから……」
「は? 俺会ったことねェけど」
「いっつも木の上で寝てるから、気付かれてないって銀ちゃんが……。銀ちゃんは晋助くんのこと知ってたよ?」
「……随分と仲が良いみてェだな? その『銀ちゃん』とやらと」
「……そ、そうかな?」
 ん!? なんだこの空気は!? みやびは内心そう叫びながら、目の前で何故か仁王立ちし妙な怒りのオーラを纏う高杉に対して必死に愛想笑いを浮かべる。先ほどとは違う種類の冷や汗をかきながら、その意味不明な高杉の不機嫌をどうにかして収めようと試みてみた。
「あ、そうだ! 晋助くんも良かったら、今度松下村塾に来てみる? 松陽先生って凄い人なんだよ。授業は分かりやすいし、優しいし、本当に尊敬できる人なの!」
 冷や汗を流しつつみやびが出来る最大級の愛想笑いを浮かべながら、高杉に対してそう早口で告げる。しかしそのしかめっ面は直るどころかむしろ悪化していく気がした。
「あ、あと! 松陽先生はすっごく、強い!」
 命からがらそう付け加えると、これが効果覿面だった。ピクリと眉を動かした高杉の背後から、淀んだ空気が霧散していく。あ、気が逸れたなとみやびは話の持って行き方を定めた。
「晋助くんは講武館の門下だから、入門は難しいかもしれないけど……でも、見学とか体験くらいならできるかもしれない。一度稽古見に来ない? 素人の私にもすごいって分かるくらいだもの、晋助くんが見たらきっと為になると思うな。松陽先生の稽古」
「……ああ。見た瞬間分かったよ。あれは相当の手練れだ」
「! じゃあ!」
「相手にとって不足無し」
「……ん??」
 だが、松陽が強いという話題で攻めていった先で見たものは、高杉晋助の不敵な笑みだった。
 右手の拳を左の掌で音を立てて受け止め、おそらくはここにいない強敵を睨み唇の端を緩く吊り上げるその姿にみやびは一瞬ときめいてしまったのだが、次の瞬間には話がどんどん可笑しな方向へ転がっていることに気付いて冷汗が流れる。
「えっと……相手って?」
「丁度講武館の講師どもじゃ、もう相手にならないと思ってたんだ。明日道場破りに行ってやるから首洗って待っとけって、あのロンゲ優男に伝えとけ」
 そう告げる高杉は、見たことが無いくらい目をキラキラさせて楽しそうだった。対照的にみやびは冷汗が止まらない。
 高杉は確かに強い。同年代の男子数人を相手にしてもほとんど無傷で勝ってしまうくらいには、剣術の才能は突出していた。それは剣などからきしのみやびにも分かる。
 しかし、相手はあの松陽だ。松下村塾の門下生の誰もが敵わない銀時が、さらに手も足も出ない松下村塾塾頭。
 さらにみやびは知っていた。抱きしめられた時に気付いたのだが、松陽はああ見えて着痩せするタイプだと。その胸や腕は父平蔵とは比べ物にならないくらい硬い筋肉に覆われていたのだ。全然優男などではない。
 しかし、それを高杉に伝えることはできない。せっかく機嫌を直してくれたというのに。
「よし、戦の前に腹ごしらえだな。団子食いに行くぞ、みやび」
「えっ!? あ、ごめん晋助くん……私お金持ってなくて……」
「あ? んなの俺が出すに決まってんだろ。いいから来い」
 どうやって思い直してもらおうか、そんなことを悩んでいる間にも高杉は土手の方へ上がっていこうとする。みやびは慌ててその背を追った。
「そんな、悪いよ……!」
「……『銀ちゃん』とは団子食えて、俺とは食えねェってのか」
「!? な、なんで銀ちゃんとお団子食べたの知ってるの!?」
「へェ? 食ったんだな?」
「か、カマかけたの!?」
「お前、明日俺があのロンゲに勝ったらあのクルクル頭と仲良くするの、禁止な」
「何その横暴!? さっきから晋助くん何怒ってるのっ!?」
「あと十年くらいしないとお前には分かんねェよ、ガキ」
「し、晋助くんが意地悪に戻ってる……っ」
「戻ってるって何だ戻ってるって」
 萩の南西を走る橋本川の河原に、元気な少年少女の声が響き渡っていた。そのおよそ四カ月ぶりのやり取りを歓迎するかのように、萩の空は青々と澄み渡っている。
 傷はまだ塞がらずとも、きっとふたりとも、ようやく前を向けていた。

 みやびが堀田家の裏口からその敷地内に戻った時、既に秋の夕日は西の彼方へ沈んでいた。急激に冷え込んでいくのは身体だけではない。先ほどまで会っていた、久々に再会した憧れの彼と過ごした時間を思い出しながら、なんとか心の温度を保つ。
 なるべく足音を立てないように、気配を消して離れの茶室へ戻る。
 いつまでこんなことをし続けるのだろう。みやびはふとそんなことを考える。
 今までは自らを終らせることばかりを考えてきた。松陽や銀時と出会い、そう考えるのを止めた。高杉や桂と再会し、ようやく前を向くことができた。なら次は、次に向き合うべき現実はこれではないのか。
 薄暗い堀田家の庭の端、わざと木々の影を縫うように歩きながら、みやびは懐に仕舞った宝物に手を当てる。もう、こんなにも心細い。早く明日が来ればいい。
「みやび、こんなところに居たのか」
 だからだろう。背後から声を掛けられた時、みやびは驚きで心臓が止まりそうになった。
 恐る恐る振り向けば、そこにはみやびを見下ろす堀田家の当主の無表情があった。みやびはお守りのように、着物越しに例の小袋を握りしめる。
「少し話したいことがある。私の部屋に来なさい」
「……はい」
 心当たりはあった。高杉との幸せな時間で薄れていたが、昼間あった出来事は忘れていなかった。あの兄弟が神社で目を覚ました後、どのような行動に出たかなど想像に難くない。
 正面玄関から母屋に上がり、長い廊下を進んだ先にある当主の部屋に招かれたみやびの予想は、思った通り的中する。
「あやつを侮辱した上、胸倉を掴んだそうだな」
 胡坐をかき床の間の前でどっしり座った当主の前で、みやびは正座をして俯いた。
「何故、そのような事をした?」
「……堀田様のご子息とそのご友人が、私の友人を囲んでいじめようとしていたからです」
「友人? 大忠太のところの倅か?」
「……はい。私は髪を掴まれました。彼らに、抵抗すれば私を叩くと」
 みやびが包み隠さず話すと、堀田は深いため息を吐いて黙り込んでしまう。
 二人の子息が親の権力を盾にすることしか能の無い人間であることは知っていた。しかし堀田は、権力者らしく基本は冷たいが息子たちに比べれば大人の判断が出来る人間である。本当のことを話す価値はあると、みやびは判断したのだ。
「……だからと言って、そういう行動は感心しないぞ。みやび」
 だからこそ、その返答にみやびは凍りついた。
「どうしたというのだ。以前のお前は、もっと淑やかな女であっただろう。確かに我が愚息たちも侍としてまだまだ半人前だ。無抵抗の女を人質にとるなど先が思いやられる。……しかし女の身分で男に、侍にそういった生意気な態度をとっては、私もお前を庇えなくなってくるぞ」
 この男は何を言っているんだ。みやびは、腹の底に沸々とした苛立ちが溜まっていくのが分かった。
 状況を考えればこちらは完全に被害者だった。なのに、抵抗しただけでその行為を批判するのか。
「……お言葉ですが、堀田様。私はこの数か月、無抵抗でただ彼らの中傷や意地悪に耐えてきました。堀田様はいつ、私を庇ってくださったのでしょう?」
「そういう受け答えが、感心しないと言っているんだ」
 その言葉に、みやびは顔を上げる。息子たちとそっくりな冷たい目がみやびを高圧的に見下していた。
「お前の事情を酌んで今まで好き勝手させてきたが、だからこそ自分の立場を自発的に気付いてほしかったよ」
「……立場?」
「世話になっている一家の子息の機嫌も取れないのかと言っているんだ」
 腹の底に流れ込んでいく苛立ちが、明確な怒りへと変わっていく。みやびは口を噤んだ。今何か言おうとすれば、とんでもなく攻撃的な言葉が飛び出してしまうと判断した。
「……まあ、最初からここで共に暮らすには無理があったのかもしれぬな」
 長い沈黙の後、ため息交じりに堀田がそう漏らす。それだけは、みやびも心の中で同意する。
 もしもこの家を追い出されるとしても、それでいいと思った。元々行儀見習いという立場だったはずなのに、既にその義務もみやびは果たしていない。むしろ、追い出されて当然の振る舞いを今まで続けていた。
 生きると決めた今でも、この家に世話になる気には到底なれない。
「お前に会いたがっている者がいる。少し待っていなさい」
 すると、堀田はそう言っておもむろに立ち上がった。自室から出ていこうとするその背中を見上げながら、みやびは思う。自分を訪ねてくる客人など、果たして居ただろうかと。
 待つこと数分。戻ってきた堀田が引き連れていたのは見知らぬ青年だった。年の頃は三十歳前後、総髪姿のスラリとした人の良さそうな青年だ。彼はみやびと目が合うと、ニコリと笑いかけてきた。
 そして堀田は、おもむろにこう告げたのだ。
「紹介しよう。長府藩医の川瀬与市殿だ。……みやび、お前の生母の弟君だよ」


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