結論はまだ出ない
 朝日も顔を出したばかりの、十月下旬の午前七時。井上みやびはどこか重たい足取りで、松下村塾の門をくぐり玄関へと向かっていた。音を立てて戸を引く動作もどこか気だるげで、今にもため息が漏れ出しそうである。
「おや、おはようみやび。今日も早いですね」
「あ……先生」
 すると、戸を開けた先には何やら竹で出来た籠を抱える、髪を縛りたすきを掛けた松陽がいた。籠の中には濡れた衣類がこんもりと詰まれている。洗濯途中に玄関前の廊下を通りかかったようだ。
「おはようございます……」
「……みやび? どうかしましたか?」
 ぼんやりと挨拶をするみやびに、松陽は小首を傾げてそう問いかけてくる。彼女はその問いに黙り込み、なんと返そうかを思案した。
 朝からどうにも憂鬱な彼女だが、それにはちゃんと理由がある。その理由はいずれ松陽に相談する予定だったが、今洗濯の邪魔をしてまで言うことだろうか。みやびがそう自問自答する間にも、松陽はジッとみやびを見つめてくる。
「なんだか、いつもと雰囲気が違いませんか?」
「……えっと」
「髪型……はいつも通りですし……あ、着物! 着物がいつもと違いますね」
 合点がいったという風に、松陽の声が少し高くなる。みやびは彼の指摘に、苦笑いしながらなんとなく腕を後ろにやって着物の袖を隠した。
 みやびが今日纏っているのは、いつものくすんだ蜜柑色の木綿着物と羽織ではない。光沢のある薄紅色の生地に、色とりどりの菊の花が舞っている正絹の着物。所々銀糸もあしらわれたその総柄の小紋が、一町娘の普段着にしては些か高価であることは見る者が見ればすぐに分かるだろう。その上に羽織っている淡い紺色の羽織や締めている白い名古屋帯も、一見簡素に見えるがみやびが持っている木綿の羽織や半幅帯など足元にも及ばないほど高価であることを彼女は知っている。
 もっとも、松陽はそういったことには疎いのか、なんとなくいつもより華やかだなくらいにしか思っていないようだが。
「……叔父に、着てみてくれって言われて」
「叔父?」
 みやびのため息交じりの一言に、松陽は瞬きを二、三度繰り返す。
「先生。あの、一時間目の前に少しだけ時間をいただけませんか?」
「……分かりました。では先に私の部屋へ行っててください」
 やはり、この懸案事項を自分の中だけで持っているのは苦しすぎる。このままでは午前の授業が全て頭に入らないと思ったみやびの申し出を、松陽は笑顔で快諾した。そして洗濯物の入った籠を抱え直し、心なしか駆け足で庭の方へと向かっていく。
 みやびはその背を見送った後、深いため息を吐いて新品の草履を下足箱へ入れた。

 昨夜突然紹介された叔父、長府藩医だという青年川瀬をみやびは知らなかった。
 長府藩とは同じ長門国内に領地を持つ長州藩の支藩で、下関港を中心に栄える比較的小さな藩だ。母がその藩の出身だということや何人か兄弟がいることは知っていたが、まさか実弟も藩医になっているとは思いもしなかった。
 生前から、母は実家とは疎遠であったとみやびは記憶している。思い出せる限りで親類が母を訪ねてきたことはなく、手紙のやりとりなどをしている様子も、母自身が家族のことを語ることもなかった。
 母の葬儀でも、母の肉親で顔を見せたのはすでに他家へ嫁いだ姉が二人だけ。二人とも淡々と決まり文句を父平蔵に述べ、火葬を見届けると会食に出ることも無くそそくさとそれぞれの家へ帰っていった。
 後日みやびが父にそれとなく尋ねたところ、母は幼くして両親を亡くし祖父母に育てられたことや、その祖母も母の嫁入り前に亡くなり祖父は重度の認知症ですでに母のことも憶えていないと教えてもらえた。
 父平蔵は井上家においてはただの養子であり、自身は一人っ子で実の両親ともすでに死に別れている。
 だからみやびは父を亡くした時、自分に頼れる親類などもう一人も存在していないと思い込んでいた。
『迎えに来るのが遅くなってごめんよ。みやび』
 昨晩、急に現れた自分の叔父だという男性が放った言葉が、ふわふわとした霞のような印象のままでみやびの心に立ち込めている。
 優しそうな青年だった。松陽とはまた違った印象の優男、本当に虫一匹殺せなさそうな線の細い男だ。
 それから、笑ったときにキュッと下がる目尻は、亡くなった母にそっくりだった。
 叔父川瀬との対面を果たした後は、彼の要望により二人で外食に出かけた。何か食べたいものはと訊かれ、特にはと答えるとそのまま商店街の外れにある寿司屋に連れていかれた。父母がまだ健在であった頃、三人で食べに来たこともあった馴染みの寿司屋だった。みやびはあの頃と同じように、玉子とイカとえびとマグロといなりを頼んだ。
 食事の間、川瀬は色々な話をしてくれた。自分は小さい頃はとても弱虫で、よく近所の子供にいじめられては姉であるみやびの母の背に隠れて泣いていたこと。実家は代々長府藩に仕える藩医を排出してきた士席医師の家系で、自分はなんとなく跡を継ぎ医者になったが、幼少の頃は自分よりも姉たちの方がうんと頭が良かったこと。みやびとはみやびが生まれたばかりの頃に二、三度会ったことがあること。母が亡くなった時には、藩の医学館が実施した江戸の医学校への長期研修に駆り出され、簡単には帰って来られなかったこと。
 江戸で三年の研修を終え、久々に故郷下関へ帰ってきたのが半年前。その後長州藩の医学館へ一か月の出張に赴くことになり、久々に義兄と姪の顔でも見に行こうかとみやびの生家を尋ねに行き、既に取り壊された屋敷跡を見て愕然としたのが三日前のことだという。
 それから方々に訊きまわり堀田家に辿り着いた川瀬は、みやびのやつれた様子を見てすぐに、彼女を引き取る決心を固めたらしい。寿司屋を出て堀田邸へみやびを送り届ける道すがら、彼はまるでプロポーズでもするかのように、一緒に住もうとみやびに迫った。
 口直しにどうだと川瀬に勧められた林檎味の飴玉を口の中で転がしながら、みやびの心は激しく揺れ動いていた。
 父を死に追いやった遠因である堀田家と縁を切れるだけでなく、血の繋がりがある人と共に暮らすことができる。その安心感はみやびが喉から手が出るほど欲しいものだった。
 口内に広がる甘ったるさが、亡き父と食べた甘味の味を思い出させる。きっとその差し出された手を取った先には幸せがある。そう予感させるには十分すぎる、有り余るほどの優しさだった。
 みやびが即答できなかった理由はただ一つ。

「……一緒に住むなら下関へ、ですか」
 腕を組んで神妙な顔をする松陽の前で、みやびが背を丸めて項垂れていた。
 下関を発つときに土産として用意したという上等な着物を、みやびは返すことができなかった。
 恐縮しつつも嬉しかったのだ。だからこそ、こんなところに着て来てしまった。
「一カ月後、出張を終えて下関へ帰る時までに返事を聞かせてくれと。……それから、夕ご飯は毎日一緒に食べようと言われました」
「なるほど。叔父上も本気だということを知ってほしいのでしょうね」
 みやびの憂鬱がうつったかのように、松陽の声もどことなく覇気がない。みやびは膝に置いた拳をギュッと握りしめた。
「先生……私、どうすればいいんでしょうか?」
 みやびの問い掛けに、松陽はすぐには返事をくれなかった。
 松陽の書斎に静寂が訪れる。唯一と言っていい信頼できる大人の無言が苦しくて、みやびは返事を待てずに言葉を続ける。
「自分がどうしたいか分からないんです……私、いつも父上や周りの大人たちの言うことを、何も考えずに受け入れてきたから……っ。自分で何も、考えてこなかったからっ」
『ちゃんと自分の言葉で喋れよ。ガキが』
 初めて出会った日に高杉から言われた言葉が脳裏に木霊する。
 あの時の彼の発言は、意地悪ではなく忠告だった。みやびはそれから高杉や桂との交流を通し、幼くとも自分の意志というものを大切にする二人の生き方に憧れを抱いたはずだ。
 けれど結局、いざというときに自分は二人のようにはなれない。周りに流され続けたツケが回ってきたのだと思った。
「自分の人生が掛かっている選択を、迷わない人間なんていませんよ」
 大きな自己嫌悪に苛まれていたみやびを現実に引き戻したのは、その肩に乗った大きな手だった。顔を上げると、松陽が穏やかな微笑を浮かべてみやびに目線を合わせるように背中を丸めていた。
「そこは自分を責めるところではありません。私がみやびの立場でも、悩んで悩んで、きっと夜も眠れないと思います」
「……先生も?」
 信じられないという風に見開かれた目に、松陽の頷く顔が映る。
「実はここだけの話……私も、前の仕事を辞める時は相当悩みました。大の大人がそりゃあもう情けないほどに」
「仕事……想像できないです。先生がそんな、私みたいに悩んでるところなんて」
 少し悪戯っぽい笑みを浮かべて、内緒話でもするかのように声を潜めてそう言う松陽に、みやびは信じられないという面持ちで返事をする。
 しかしいつの間にか彼女の心から、自分はだから駄目なんだという責める気持ちは無くなっていた。
「けれどみやび。君はもうすでに、私よりもずっと賢くて行動的だと思いますよ」
 背中を丸めた状態から居住まいを正した松陽は、朗らかな声で困惑するみやびへ追い打ちを掛けるようにそんなことを言う。みやびの頭の上には盛大にはてなマークが舞っていた。
「だって、こうやって誰かに相談が出来ているじゃありませんか。それに今までの『周りの大人たちの言うことを、何も考えずに受け入れてきた』君なら、既に昨晩叔父上の手を取っていたはずでしょう?」
「それは……」
 言われて気付いた。
 そう、今までのみやびなら、既に自分の意志とは関係なく叔父の申し出を受け入れていただろう。
 あれほど強く懇願されたのに、それでもその場で是と言わなかったのは。
「相談してくれてありがとう、みやび」
「えっ……?」
 ふと、そんなことを言われたみやびが驚いて顔を上げると、松陽がどこか寂しそうな笑みを浮かべていた。
 みやびはなんとなくだが、その目が自分ではないどこか遠くを見ている気がした。
「いえ……もしみやびが、誰にも相談することなくいなくなってしまったら……きっと私は、寂しくて泣いてしまうなと思って」
「なっ……えっ!?」
 先生って泣くことあるんですか!? という驚きが過ぎて言葉が上手く発せない。
 あははと笑う今の松陽からはそんな気配は微塵も感じない。
 だが、先ほど一瞬だけ垣間見た寂しげな彼なら、あるいは。
「ですからどうか、彼らにも相談してみてくださいね」
 泣き顔を想像しながらボーっと松陽を見上げていたみやびに、松陽は優しい声音でそう告げる。
「貴方が大人に流されまいと抗うほどに、強く想っている友人たちです。きっと相手も貴方のことを同じくらい、大切に想っているはずですよ」
 みやびが川瀬に下関で共に暮らそうと言われた際、浮かんだのは四つの顔だった。
 心の傷を癒す術を教えてくれた優しい青年と、それぞれ違う種類の勇気をくれた強い少年たちだった。
「自分一人で出せない結論は、案外誰かがヒントを持っているものです。貴方にとって大切な存在である彼らなら尚更のこと。時間はまだあります。焦らずに、頑張って考えてみませんか? みやび」
 なんて、こんなことしかアドバイスできない私が言っても、説得力がありませんか。そう言って苦笑する松陽に、みやびは深々と頭を下げた。
「ありがとうございます、先生」
 結論はまだ出ない。でも、自分が何をすべきかは決まった。
 自分がどうしたいかは、分かったような気がした。
「頑張ります」
「ええ。もし辛くなったら、またいつでも言ってくださいね。何かを決めるのは苦手ですが、人の絡まった思考を解すのは得意なんですよ。こう見えて」
 そう言って可愛らしくウインクする松陽に、みやびからは自然と笑みが零れる。朝の憂鬱さが嘘のように、みやびの心は軽やかだった。
 松陽の書斎に置いてある置時計が七時五十八分を示している。そろそろ教室へ行かなければとみやびが退室を申し出ようとした、その時だった。

「せんせー!!! 先生、松陽先生!!」
「大変、大変だよーっ!!」
 廊下を掛けてくる複数の足音に、二人の肩がビクりと跳ねる。すぐさま立ち上がった松陽が襖を開けた。
「どうしたんです、みんなして」
「大変、大変なんだよ!」
「道場破りだよ、先生!!」
 息を切らせたみやびよりも年下の少年たちが、口々にそう口走った。道場破りと。
 キョトンとする松陽とは対照的に、その背後で室内から廊下を覗いていたみやびは、昨晩の衝撃ですっかり頭の中から飛んでいた別の懸案事項を思い出し顔から血の気が引いていく。
「道場破りって……どこかと間違えてるのでは? うちは道場じゃ……」
「でも松陽先生と戦わせろって、本人が」
「俺アイツ知ってるよ。お武家の子、確か高杉っていうヤツ!」
「高杉……あれ、どこかで……?」
 首を傾げる松陽にいよいよみやびは眩暈がしてくる。松陽が道場破りの正体を思い出すまでもうあと僅かだろう。
 どうして本当に来ちゃったの晋助くん、しかもこんな朝一に! 頭を抱えて百面相するみやびを、松陽を呼びに来た生徒の内の何人かが不思議そうに眺めている。
「ヤバいよ先生! 銀時が道場破りと喧嘩しそう!!」
 そして玄関の方から別の少年がそう叫びながら駆けてきた時、みやびは考えるより先に走り出していた。


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