私があげられる薬
 その後、三人は誰が言いだすともなく九人の少年が転がる神社を後にした。
 話すことはたくさんあったはずだ。
 しかし、みやびは隣を歩く高杉へ時折目線を向けては、小さく開いた口をまた閉じてしまう。
 何から話せばいいのかをまだ決めかねている自分がいた。今までずっと避けてしまったことへの謝罪、さっきの騒動で怪我はなかったかということ、松陽や銀時のこと、高杉は最近どうしているのか。
 それから、自ら命を絶とうとしたあの日、止めてくれたことへの礼。
 高杉の様子を見て何から切り出すか考えようとしても、彼はみやびの方を見ることはなく、ただ前をジッと見据えて歩いている。
 その様子がどうにも怒っているように見えて、みやびはだんだんと彼を見ることも出来なくなっていく。
 やがてその歩みが、神社のすぐそばを流れる橋本川を土手に沿ってだいぶ下流の方へ下ってきた頃。最初に口を開いたのは、先ほどからそんな二人の様子を一歩下がって伺っていた彼だった。
「ゴホンッ……あー、井上。その、だいぶ元気そうになったな?」
 咳払いの音で振り向いたみやびに、桂は少しだけ眉をハの字にして心配そうにそう問いかける。
 あの事件の後、ずっと塞ぎこみ時には八つ当たりすらしていた自分に、それでもずっと会いに来てくれていた。優しい友人がそこにいた。
 みやびは微かに滲む視界の中で、桂をようやく真っ直ぐ見ることができた。
「うん。……もう大丈夫。今まで、冷たい態度ばかり取っちゃって……本当にごめんなさい、桂くん」
 みやびがそう告げて頭を下げる。そして数秒後に頭を上げたみやびの目線の先には、穏やかに微笑む桂小太郎の姿があった。
「これからもお前を、井上と呼んでもいいか?」
 その問いかけに、一瞬心臓が痛んだ。けれどもう迷いはなかった。
 みやびは飛び切りの笑顔を浮かべ、答えた。
「……うん! これからも、井上って呼んで!」
 桂が名字で呼ぶことに拘った理由が、今ならみやびにも分かる気がした。
 天涯孤独の自分たちにとって、この名字は数少ない家族との繋がりなのだ。
 かつて、この姓を共に名乗った家族が、確かにいたのだ。
「なら、誰がなんと言おうとお前は井上みやびだ。……俺が桂小太郎であり続けるように」
 ともに、大事な思い出を背負っていこう。そう言われている気がした。
 桂は今よりずっと幼い頃から、そうやって家族の絆を護り通してきたのだろう。
 自分も、これからはそうやって生きていきたい。
 みやびは力強く頷いて、もう一度桂の名を呼ぶ。桂は嬉しそうに笑った。
「……さて、俺はそろそろ退散するよ。後ろのシャイボーイの視線も鬱陶しいからな」
「えっ?」
「……」
 みやびがその発言に驚いて振り返ると、腕を組み気まずそうに視線を逸らす、しかめっ面の高杉がそこにいた。
「ではな、井上。また今度ゆっくり話でもしよう。それと……もう明日は講義に来いよ。高杉」
「あっ、桂くん!」
 もう少し話そうと引き留めようにも、桂はもう背を向けて元来た道を戻り始めていた。振り向かずに軽く手を上げる桂を仕方なしに見送ってから、みやびは戸惑いながら無言を貫く高杉の方へ向き直る。
 高杉の深緑の瞳が、今度こそみやびの方をジッと見つめていた。

「だいぶ、痩せたな」
 しばらくの沈黙の後、先に口を開いたのは彼だった。
 その細められた眼には、心配の色が浮かんでいるように見えた。
 数か月前まで標準的な女児の体型だったみやびだが、確かに今では見る影もない。みやびは今更、頬がこけて隈が浮かんだ自身の顔を思い出していた。
 あまり可愛くない自分の姿が今、久々に会う憧れの人の目に晒されていることに段々と恥ずかしさを覚えてくる。
「こ、これはその……ちょっと最近眠れてないというか、食欲がないというか……でも、大丈夫。昨日はちゃんと夕ご飯全部食べられたの。もうすぐ、元に戻ると思うから」
 せめて今はちゃんと元気だということは伝えなければと、みやびは身振り手振りを加えながらなるべく明るい声でそう告げる。
 だが高杉は相変わらず浮かない顔でしばらくみやびを見つめると、やがて顔を背けて川岸の方へ歩き出した。
「! 晋助くん、待っ……きゃっ!?」
 置いていかれる。咄嗟にそう思ったみやびは慌てて追いかけたが、その所為で土手の下り坂で足を滑らせてしまった。
 顔から倒れ込む、そう察して目をぎゅっと瞑り顔の前に手を構えたみやびだったが、感じたのは硬い土の感触ではなかった。
「ったく、何してんだよお前」
 呆れた様子の声が聞こえてくる。みやびは土よりも弾力のあるものの上に倒れ込んでいた。ゆっくり目蓋を開けば、見覚えのある群青色の布が眼前に広がる。
「ご、ごごごごごめんなさい私……!!」
 慌てて飛び起きるみやび。川原に仰向けで倒れ込んでいた高杉の上等な着物には泥がたっぷりと付着している。顔面蒼白の彼女を仰向けの状態で見つめていた高杉だったが、やがて力を抜くように笑った。
「なに焦ってんだ。置いてったりしねェよ」
「ごめん……怪我ない?」
「ああ」
 体を起こした高杉の背中を払ってやるが、泥汚れはそのくらいではとても落ちそうにない。いいよもう、と高杉はみやびの手を止めた。
「本当にごめん……これ正絹だよね? 汚れ落ちるかな……」
「いいって。この程度の汚れ、いつものことだ」
「それは……怒られない?」
 今でこそ木綿の着物しか与えられていないみやびであるが、かつては絹の小紋や色無地もたくさん持っていた。いくら普段着用と言えど、正絹の着物を汚した時などみやびは義母にしこたま嫌味を言われたものだ。
 その時のことを思い返してそう問いかけるも、高杉は顔をしかめるばかりだ。
「だから俺は木綿や毛織物でいいって言ってんのに、甚兵衛の野郎が家の格だの武家の長男がどうのこうのってうるせェんだよ」
「甚兵衛?」
「うちの使用人。親父のイエスマンでクソうるせェったら……」
 そこまで言って、高杉は急に口を噤んだ。
 その顔が見る見るうちに曇っていくのがみやびには分かった。
「晋助くん?」
 その羽織の裾を軽く引いて、自分よりほんの少しだけ背の高い高杉を覗き込む。どこか思いつめた様な表情の彼は、やがて重たそうに口を開いた。
「……すまなかった」
 穏やかな川のせせらぎにさえ掻き消せそうな、震えた小さな声だった。
 神無月の涼やかな風が二人のいる河川敷を駆け抜けていく。足元に生える秋の草花と共に、それは高杉の少しだけ長くなった前髪も揺らした。
 チラチラと覗く深緑の瞳に、暗い影が落ちていた。きっとそれは、彼が溜め込んでいる様々な負の感情の所為だと、みやびは咄嗟にそう思う。
「なんで、謝るの?」
 少しだけ屈んだまま、俯く高杉を見上げ続ける。みやびがそっと微笑むと、高杉はもっと苦しそうな顔をした。
「……俺は、お前にとって仇の息子だろう」
 吐息と共に吐き出された呟きに、みやびは一瞬何を言われたのかを理解できなかった。

 まるで逃がすまいと縋っていた羽織を掴む手から、力が抜け落ちていく。力なく棒立ちになり、何も言えないみやびの指先を、高杉の虚ろな目が眺めていた。
『これより井上平蔵の処刑を行う!!』
 みやびが最後に聞いた大忠太の声は、これから父を殺すと宣言する冷たい怒声だった。
 高杉に言われるまで考えることの無かった、考えないようにしていた現実が迫りくる。
 みやびは揺れる前髪の隙間から、目の前で立ち尽くす少年を覗き見た。
 彼の父親が、父の首を刎ねたのだ。
「俺が憎いか?」
「!!」
 やっと顔を上げた高杉は、笑っていた。辛そうな、今にも泣き出しそうな笑みだった。
「お前に希望をチラつかせて、惨い真実だけ突きつけて、挙句実の父親が保身のためにお前の親父を斬った。……ひでェ話だよ、本当に」
 わざと大きな声で発せられた刃のような言葉は、間違いなく高杉自身の心へ深く突き刺さり続けていた。
 違う、そうじゃない。
 そう伝えたくとも、みやびは彼になんと声を掛ければいいか分からない。
「そのくせ、俺はまだお前に……生きてほしいと、幸せになってほしいと、お前の苦しみを理解することもできないくせにそう願うんだ。……救いようの無い馬鹿だよ」
『心の傷に効く薬があるのだとしたら……それはやはり、時間の経過と、人との交流なのではないかと、私は思っています』
 先生。
 晋助くんへ、私があげられる薬はありますか。
 みやびは泣くのを懸命に堪えながら、心の中で師に助けを求めていた。
 自分が松陽や銀時に救われたように、自分の行動や父親のことで深く傷付いている彼に、どうにかして寄り添いたかった。
「なあ……どうして俺なんかに、会いに来たんだよ」
 そして、そんな悲しい質問を掠れた声で投げかけられたところで、みやびの体は考えるよりも先に動いた。
 地面を蹴り上げ、力いっぱいその背に腕を回し、額を彼の肩に押し付ける。彼の体の肉が、驚きで硬くなったのが感覚で分かった。
 こうして彼の胸に飛び込むのは三度目だった。
 顔を埋めた肩口からは、ほんの少し汗のにおいがする。
 相変わらず、硬くて骨張った男の子の体だ。けれど以前に比べると、ほんの少しだけ高杉も細くなったように思えた。
「そんなの……晋助くんに会いたかったからに、決まってるよ」
 みやびが独りで嘆き悲しみ、行き場の無い感情を抱えてうずくまっていた頃。高杉もまた同じように、誰にも助けを求められずにどこかを彷徨っていたのだとしたら。
「晋助くんのことが、大好きだからだよ」
 一緒に治そう。
 一緒に、また元気になろう。
 それが伝わる様にと、みやびはひしとその少年の体を抱きしめた。
「あの時、止めてくれてありがとう」
 ずっと言えずにいた心からの礼を伝えると、少年の体が怯えたようにビクリと跳ねる。
 やがて彼は力を抜くように頭をみやびの髪に寄せ、慈しむようにそっとみやびの背に腕を回した。
 力の限り抱き付いていたみやびとは対照的に、まるで壊れやすい宝物でも抱くかのように。


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