弱虫
 翌日、涙ながらに謝ってきた件の爆弾発言の少女に、みやびは言ってやった。
「私、実はずっと冷や冷やしながら過ごしてた。いつ、みんなに……先生にそのことが知られるだろうって。……だから、貴方がみんなの前で言ってくれて、逆にホッとしてるところもあるの。もう、隠し事しなくていいんだって」
 叩かれなじられる覚悟でもしてきたのだろうか。豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしている女子生徒に、みやびはほんの少しだけ微笑んだ。
 廊下でのそのやりとりを教室から固唾を飲んで見守っていた他の生徒たちも、目を白黒させている。その中でも銀時だけは、自分の席で胡坐をかいて欠伸を噛み殺していた。
 二人の仲直りの立ち合いをしていた松陽が、パンパンと手を二回鳴らす。さて、では授業を始めますよ。二人とも教室に戻ってくださいねと。

「早退ですか……? 別に構いませんが、珍しいですね」
 午前の授業が全て終わり、昼休みに入った正午。みやびは教材を片付けている松陽に近づき、今日は午前中で帰りたいことを告げた。
 本来松下村塾は一時間の授業ごとに出入り自由であるため、早退にわざわざ許可を得る必要も無い。まして午後からの授業は、男子が道場にて剣術稽古であるのに対し、女子は教室で予習復習をしてたまに様子を見に来る松陽を捕まえては少し質問をするくらいしかやることがない。みやびはむしろその時間、他の読み書きがまだ難しい生徒に勉強を教えてあげる側だった。
 しかし今のところ、みやびはその午後の自習時間すら皆勤賞であったため、急にいなくなってびっくりさせてもいけないからという判断を下したのだ。
 いくつかの書物を重ねて持ち、立てて机でトンと揃えた松陽は、何か用事でもあるんですかと微笑みながら問いかける。
「用事というか、その……今までずっと会えなかった友達に、謝りに行こうと思って」
「そうでしたか……仲直りできるといいですね」
「はい」
 みやびが少し自信無さ気に俯きながらそう答えると、松陽は少し驚いたかのように一瞬目を見開いたが、すぐに笑顔を浮かべてみやびを励ました。
 みやびは相変わらず緊張していたが、思い立ったが吉日。本当は午後の自習時間が終わってから行っても良かったのだが、今日は午前中の授業ですらもどこか気が漫ろで集中できなかった。もう早く行ってしまおうという判断からだ。
「しかし、そのお友達は寺子屋や私塾には通っていないんですか? 平日のまだ昼ですけど」
「ああ、それは……その子、ちょっとサボり癖があるというか……銀ちゃんもサボってる時によく見るって言ってましたし、もういるかと」
 松陽からの素朴な疑問に、みやびは少しだけ苦笑しながら今ごろ自分の席でおにぎりを貪っているであろう白いふわふわ頭を探した。しかし、彼の定位置である庭側の最後列はすでにもぬけの殻である。
「あれ? 銀ちゃんは?」
「お手洗いですかね」
「銀時ならさっき午後はフケるって言って、昼メシだけ持ってどっか行ったよ」
 顔を見合わせ首を傾げたみやびと松陽の言葉に答えたのは、帰り支度をしていた最前列の席の男子生徒。松陽の笑顔が一瞬で冷たいものに変わったのをみやびは察した。
「……やれやれ、昼休み中に回収に行かなくては」
「あ、えっと……見かけたら戻るよう、伝えておき、ます」
「ええ、助かります」
 みやびの忠告程度で彼が戻るとも思えなかったが、そう申し出ざるを得なかった。松陽は生徒の用事による遅刻早退にはとても寛容だが、用事がないサボりにはとても厳しかった。つまり、内弟子であり用事などあるはずがない銀時のサボりには容赦がないのだ。
 自分のこの用事はもしかしてサボりの内に入っているのだろうか。内心怯えながらみやびは教室を後にした。

 松下村塾から町はずれにある例の神社までは、子供の足で三十分くらいの距離がある。逸る心を抑えつつも早歩きでここまで来たみやびは、少しだけ切れた息を整えるために鳥居の下で一度立ち止まった。
 目の前には急な石段が三十段。彼女はそれを見上げながら、懐から大切な宝物を取り出す。
 高杉に貰った、梅柄の赤い絹の小袋。
 その中に入った鼈甲の三味線ばちを、みやびはもう何か月も使っていない。
 久々に、三味線が弾きたい気分だった。
 この石段の上にいるだろう彼は、また自分の演奏を黙って聞いてくれるだろうか。
 深く深呼吸した後、みやびはその宝物を仕舞い、一歩一歩踏みしめるように石段を登り始める。
 最後に高杉に会った日以来、みやびは意図的にここへは来ないようにしていた。どんなに行き場が無くとも、どんなに彼に会いたくとも、それだけはいけないと自分を戒めてきた。
 会う資格など無いと思っていた。
 石段の終わりが見えてくる。頂上の鳥居は目前、みやびの心臓はもう張り裂けそうだった。
 どんな顔で、何を言えばいいのだろう。自ら命を絶とうとして彼を深く傷付け、もう何か月も会いたくないとばかりに避け続けたというのに、今更何が言えるというのだろう。
 不安は尽きなかったが、それでも歩みを止めることはなかった。
 やっと勝ったのだ。後ろめたさに、会いたいという願いが。

 やがて石段を登りきったみやびの瞳が捉えたのは、想像していたのとはかけ離れた光景だった。
「ほう? 誰が来るかと思ったら、我が家の穀潰し殿ではないか」
「!!」
 毎朝聞いている、人を心底見下したような嘲笑交じりの声が聞こえてくる。
 鳥居の向こうには、堀田家の兄弟とその手下たち、総勢九名が竹刀片手に小さな影を二つ囲んでいた。
「みやび……?」
 数か月ぶりに、その声で名を呼ばれた。九人の少年たちに囲まれた二つの影こと、高杉晋助と桂小太郎は揃ってみやびの登場に目を見張る。みやびもその二人の姿に小さく息を呑んだ。
 竹刀を持った九人に囲まれた高杉と桂、対する二人の武器は高杉が持つ心もとない木の枝のみ。桂に至っては丸腰だ。
「逃げろ、井上!!」
 桂が叫ぶが早いか、みやびは元来た道を戻ろうと踵を返した。
 間違いなくこれは集団暴行が始まろうとしている現場である。二人が強いことは十分に知っていたが、自分があの場に居て良いことは何もない。
 大人を呼びに行かなくては。そう判断したみやびの脳裏に過るのはたった一人の青年だけだ。
 松陽先生なら助けてくれる。なんとかしてくれる。
 だがそう信じて踏み出した一歩は、後頭部に走った激痛によって阻まれてしまった。
「いっ……!!」
「丁度良かった。お前にもそろそろ我慢の限界だったんだよ。父上の厚意に甘えて毎日何もせずふらふらしてばかりの穀潰しが」
 みやびの三つ編みを鷲掴みにして捉えたのは、堀田家の兄の方だった。みやびは髪を押さえて何とか抵抗しようとするが、力の差は歴然であっという間に引き寄せられる。
「テメェ! みやびに触るな!!」
「おっと動くなよ高杉。桂、お前もだ。抵抗したらした分だけ、コイツに一発ずつ入れていく」
 左手でみやびが爪先立ちになるほどに髪を引っ張り上げた堀田兄は、右手で持った竹刀でみやびの頬を軽く叩く。
 高杉と桂の顔が歯痒そうに歪んでいくのを目の当たりにして、みやびは急に自分の中から恐怖や不安といった感情が静まっていくのを感じた。
 腹が決まったとでも言うべきだろうか。自ずと言葉は口から滑り出ていた。
「弱虫」
「……なんだと?」
 少しだけ動揺したような声音が頭上から降ってくる。みやびは頭を傾け、髪を掴むその少年を横目で睨みつけた。
『そうやっていろいろ言い訳して逃げたり我慢したりする癖直せば? ホントはあんなにデケェ声出るんだからよ』
「放してよ。この、弱虫」
 大きな声ではけして無かった。
 けれど、自分でも少し驚くくらい、力の籠った強い声だった。
 そしてみやびは堀田兄の胸倉に掴みかかる。脳裏に響いた白髪の彼の言葉が、みやびを奮い立たせていた。
 今まで毎朝何を言っても言い返してはこなかった、か弱い存在だと思い込んでいたみやびにそんなことをされて動揺したのか、堀田兄は僅かに手の力を弱める。
 みやびはその瞬間を見逃さず、多少の痛みと引き換えに全力でその手から逃れた。
 そしてその足は、そのまま呆然とする少年たちの間を素早く駆け抜け、同じく驚きのあまり開いた口が塞がらない二人の友人の元へと向かう。
 その二人の驚いた顔が何だか可笑しくて、みやびは思わず笑ってしまう。
 二人はますます目を見開いて、それから我に返ったのか近づいてくるみやびを慌てて背に隠した。
「このアマッ、罪人の娘の分際で、武士を愚弄したな!」
「身の程を思い知らしてやる!!」
 ようやく九人の少年たちも正気に戻ったのか、顔を真っ赤にしてキャンキャンと吠えだしている。
 その怒りは今やみやびへと一心に注がれているようで、全員が彼女目掛け突進を始めた。
 その時だった。

 先頭を走っていた堀田兄の足先に、鈍い光が突き刺さった。
「なっ!!」
「!?」
 それは一本の刀だった。いきなり頭上から日本刀が降ってきたのだ。これにはさすがに少年たちもその歩みを止める。
 その場にいた全員が、神社に生い茂る木を仰ぎ見た。
「ギャーギャーギャーギャーやかましいんだよ。発情期かてめーら」
 木の太い枝の上で、みやびにとってはよく見知った人物が寝そべっていた。
「稽古なら寺子屋でやんな。学校のサボり方も習ってねェのかゆとりども」
 みやびが先ほど思い浮かべ自身を奮い立たせた人物、坂田銀時その人だった。
 銀時は相変わらず眠たそうに、その乱暴な言葉で周りの人間を煽っている。みやびはその姿に思わず声を掛けようとしたが、それよりも先に前方から大きな声が飛んできた。
「だっ、誰だ貴様はァ!」
 堀田兄がそう叫ぶも、銀時が答えるはずもなく返答の代わりに飛び蹴りが彼の顔面を襲う。一撃で沈められた堀田兄の頭の上で、銀時は余裕綽々に鼻までほじり始めた。
「寝ろ。侍がハンパやってんな。やる時は思いきりやる、サボる時は思いきりサボる。俺が付きやってやるよ。みんなで一緒に寝ようぜ」
「……」
 そういえば、銀時はここの神社にいつも寝に来ているんだったか。いきなり乱闘に入ってきたと思ったら、そんな暴論を展開しみやびに向いていた敵意を一気に攫っていったこの不遜な少年を、みやびは顔を引きつらせながら見守る他ない。高杉や桂も同様である。
 やがて銀時へ向かって一斉に襲いかかる、残り八人の少年たち。
 だがしかし、その身すらも次の瞬間に一瞬で沈められた。
 今度は銀時もその場から動いていなかったのにも関わらずだ。
 気配もなく少年たちの背後へ近寄った影があった。その影が振り下ろした拳骨が少年たちの後頭部に炸裂し、彼らは一気に崩れ落ちたのだ。
「銀時、よくぞ言いました」
 それは、彼が普段銀時に向かって振り下ろしている拳骨とは違う、軽い衝撃音だった。
 しかし少年たちをダウンさせるには十分の威力だったらしく、先ほどまで竹刀を片手にいきり立っていた彼らの内もう動く者は誰もいない。
 みやびからは今、銀時の背中しか見えない。しかしその顔が今どんな表情を浮かべているかは想像に難くなかった。
「そう、侍たる者半端はいけない。多勢で小数をいじめるなどもってのほか。……ですが銀時」
 そう、みやびが先ほど助けを求め走ろうと思った張本人、吉田松陽が満面の笑みを浮かべながらぬっと銀時の目の前に立った。
 その長身が作り出す影に銀時は包み込まれる。背中から見ても十分すぎるほどに『ヤベェよ、ヤベェよ……』と焦りまくっているのが分かった。
 そして、松陽はどこか楽しそうにわざとゆっくり言葉を紡いだ。
「君たち半端者がサボりを覚えるなんて、百年早い」
 言い終わる直前にさり気なく銀時の頭上に翳された右手の拳に、みやびは思わず目をつぶった。案の定、途端聞こえてきたのは先ほど炸裂した八発の拳骨とは比べ物にならない重たい音。
 恐る恐る目を開けると、特大のたんこぶを作った銀時が目を回して倒れていた。
「喧嘩両成敗です」
 先生、明らかに銀ちゃんの受けてるダメージが相手方より大きいです。とはさすがに口には出せなかった。
「みやび、怪我はありませんか?」
「! は、はい先生。私は大丈夫です」
 急にこちらへ向いた視線に、みやびよりも前に立っている二人の友人たちの肩が盛大に跳ねる。強く引っ張られた頭の皮膚、特にうなじのあたりがまだヒリヒリと痛んだが、銀時に比べれば自分など蚊に刺されたようなものだ。
「それなら良かった……。そちらの二人はもしかして、先ほど言ってたお友達?」
「あ、はい! えっと、高杉晋助くんと桂小太郎くんです」
 みやびは慌てて二人の前に躍り出て、まだ呆然とする二人に向かい合う。
「あの、紹介するね。こちらは吉田松陽先生。今私がお世話になってる私塾の先生。それからこの子が銀ちゃ……坂田銀時くん。松陽先生の内弟子さんなの」
「初めまして、どうぞよろしく」
 松陽に彼らを紹介した以上、彼らにも松陽たちを紹介するのが筋だろう。みやびはまだ今までの謝罪も何も出来ていなかったが、とりあえずこの突然現れた謎の人物たちが怪しいものではないことを二人に伝えた。松陽もそれに乗っかり、みやびの背後からにこやかに挨拶をする。
 高杉と桂はしばらくみやびと松陽、それから松陽が片手で引きずり回収した銀時を順番に眺め、二、三度瞬きを繰り返す。やがて思い出したかのように桂が「こ、こちらこそ……?」と恐る恐る返していた。
「仲直りはもうできました?」
 背後からの問い掛けに、みやびは気まずさを感じながら振り返る。その苦い顔で察したのか、松陽は「おや、では私たちはさっさと退散しましょうか」と苦笑する。
「ですがこの子たちももうすぐ起きてしまうでしょう。場所は移動することをお勧めしますよ」
「はい。……あの、助けていただきありがとうございました」
「いえいえ。私はただ、このサボり魔を回収しに来ただけですから」
 そう言って、松陽はダウンしたままの銀時を引きずりながら踵を返す。
「君たちも、仲直りできたら学校に帰るんですよ。小さなお侍さん」
 そして松陽はそのまま、銀時が投げた刀を拾い上げ石段を下っていった。
 その場には九人の死屍累々と、三人の少年少女が取り残される。
 みやびが松陽を見送って高杉達の方へ向き直ると、ようやく二人は平常心を取り戻したのか、高杉は松陽たちが去っていった方を睨んでいた。
「……井上」
 桂がみやびに話しかけてくる。
「近頃、白髪の子供を連れた侍が私塾を開き、金も取らずに貧しい子供たちに手習いを教えているという噂を聞いたのだが……まさか、あれが?」
「……うん。私も、授業料なんて払えてないけど……とっても良くしてくれるの」
 みやびはそう言って、もう一度鳥居の方を振り返った。
「私、松陽先生と銀ちゃんに、もう一度二人と会う勇気をもらったんだ」


prev next

bkm
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -