君が前を向くためにも
「ったくよォ!! 優等生はほんっと空気読めねェよな!? どう考えてもあのままフケる流れだっただろ!?」
「だ、だってそのまま飛びだしちゃったし……」
 その後、渋々松下村塾へと戻る道すがら、みやびは延々と銀時から空気読め、どんくさい、この優等生が等々の文句を聞かされる羽目となる。思わず耳を塞ぎたくなる衝動に駆られるが、そうすると余計面倒くさそうなことになりそうなので聞き流すことに徹した。
「今日は川原か神社で昼寝したい気分だったのによー」
「……神社、か」
 神社という単語に、ここ最近はなるべく考えないようにしていた、数か月前まで当たり前のように毎日逢っていた少年のことを思い出す。
 先ほどその名を口に出してしまったからだろう。元気にしているだろうかと、あの歳の割には大人びた横顔がいつの間にか頭から離れなくなってしまっていた。
「ねえ銀ちゃん。神社で地元の子に会ったりしてない?」
 銀時がどれくらいのペースで神社に行っているのかは分からないが、授業を抜け出してのサボりならほぼ週四の頻度でやっている。もしかしたらと思って、そう問いかけた。
「ん? ……ああ、そういやなんかいっつも拝殿の階段んとこで寝てるガキがいるな。身なり良さそうなボンボンっぽいヤツ。俺いっつも木の上で寝てるし、向こうはこっちに気付いてねェから話したりはしてねーけど」
「!!」
 彼だ。そう思ったのが顔に出たらしい。銀時は不思議そうに「んだよ、知り合いか?」と問い返してきた。
「そ、だね……うん、知り合い」
「……ああ、さっき言ってた『シンスケくん』か」
「えっ!?」
 思わぬところで銀時の勘の良さを目の当たりにして、みやびは大げさに肩を跳ねさせた。その様子を横目で伺った銀時は、ふーんと目を細める。
「お前ああいうのがタイプ? 趣味ワル」
「へっ!?」
 その発言にみやびの顔は見る見るうちに真っ赤になる。うわ分かりやす、と一人呟く銀時に、みやびは慌てて身振り手振りを交え否定し始めた。
「ち、ちがうから! 友達なの! 大事な!」
「お前顔に出やすいタイプだから下手な嘘つくの止めた方がいいぞ」
「ホントだってば! そりゃあ、カッコいいなとか、素敵だなとか、そう思ったりはするけど……」
「……キモ」
「なっ!?」
 もじもじしながら頬を赤らめそんなことを言っていたみやびに対し、銀時は冷ややかな目で率直な感想を述べてきた。みやびは雷に打たれたような衝撃を受ける。
 高杉にも初めて会った日に気持ち悪ィと言われたことを思い出す。しかしあの時は彼を仰々しく高杉様などと呼んでいたからであって、今のキモいは完全に自分の言動に対する蔑みだ。
 思わずみやびは、先行していた銀時の背中を軽く押した。
「っと……なにすんだよ」
 少しだけ前のめりになった銀時は、体勢を立て直すと不機嫌そうにみやびを睨みつけてくる。みやびは露骨に銀時から顔を背け、足袋であぜ道を踏みしめながら銀時を追い抜いた。
「知らない。銀ちゃんはやっぱり意地悪だ」
「やっぱりってなんだやっぱりって。さっき慰めてくれたヤツに対して言うセリフかそれが」
「それはありがとう。でもキモいなんて言われたら、誰だって嫌だなって思うよ。銀ちゃん、ホントはあんなに優しいんだから、そういう乱暴な言葉遣い直した方が良いと思う」
 キモいの一言は、予想外にみやびの心に火を付けてしまったらしい。それか、先ほど橋の上で思ったことを好き勝手叫びまくった熱がまだ残っているのだろうか。
 みやびは自分でも不思議なほどに、銀時に対して強気に出ていた。
「……じゃあそのシンスケくんとやらにでも慰めてもらえばいいだろうが。俺みたいなのより、あっちの方が品は良さそうだ。目付き悪いけど」
 すると、そんな拗ねたような返答がみやびの背中を追いかけてくる。彼女は思わず立ち止まった。
「もうずっと会ってないよ。私が、ずっと避けてた」
 死ぬな、お願いだから。
 縋るような声が、みやびを皮一枚でこの世に繋ぎ止める日々が続いていた。
 今は不思議と、ここ数か月みやびの頭を支配してきたその願望は息を潜めている。思いきり泣いた所為か、それとも後ろにいる少年の励ましのおかげか。
 高杉に会って、謝るなら今だと思った。けれど、それをするにはみやびはあまりにひどいことを彼にしすぎてしまった。
「もう、会えないよ。たくさん傷付けた」
「お前さ」
 すると、みやびの言葉を遮る様に銀時の少し苛立ったような声が響く。耳の穴を小指でほじりながら、彼は立ち止まるみやびを追い抜いた。
「そうやっていろいろ言い訳して逃げたり我慢したりする癖直せば? ホントはあんなにデケェ声出るんだからよ」
 銀時はそのまま、振り向かずに進んでいってしまう。もう松下村塾は目前だった。
 みやびはしばしその小さくもどこか頼もしい背中を呆然と見つめ、やがて小走りでそれを追い掛けていく。
「会いに行って、お前なんかもう知らないって言われたら?」
「そん時ゃまた思いっきり泣きゃいいだろ。安心しな、隣で笑ってやるから」
「ほんっと、意地悪だよね」
「はっ、褒め言葉として受け取っとくぜ」
「……銀ちゃん」
「ん?」
「ありがとう」
「……おう」
 明日、思い切って神社に行ってみよう。伸びる自分の影と、隣を歩く少し長い影を見つめながら、みやびはそっと決意した。
 二人はそのまま、松下村塾の古めかしい門を、並んでくぐっていく。

 自分はどうやら、思ったよりも長くあの橋の上で大泣きしていたらしい。みやびがその事実に気付いたのは、帰ってきた松下村塾で下足箱がもうみやびの物を残しすべて空になっていたのを見た時だった。
 よく見れば日もだいぶ西へ傾いている。汚れた足袋を玄関先で脱いだみやびは、安心したように力の抜けた笑みを浮かべる松陽に出迎えられ、彼に言われるまま銀時と共に彼の書斎へ赴いた。
 廊下を歩く最中、目の前を行く大きな背中を見据えながら、みやびはある決心をする。
「まずは、君に謝らなければなりませんね。みやび」
 書斎に通され、腰を下ろすよう言われたので従うと、追いかけて座った松陽は開口一番にそう言い深々と頭を下げた。
「私の至らなさ故に、君に辛い思いをさせてしまった。申し訳ありません」
「せ、先生! お顔を上げてください! そんな、先生が私に謝ることなんて……」
 大の男に両手を付いて頭を深々と下げられたことなど、まだ子供であるみやびは当然今まで一度もない。そうでなくとも、この時代男が女に深く謝罪することなどは極めて稀だった。
 面食らって思わず腰を浮かせて身を乗り出す。しかし松陽は中々顔を上げなかった。
「いいえ。彼女のあの発言は、みやびの心の傷を深く抉るものだったと思います。……彼女にああ言わせてしまったのは、自分の立場も弁えず君ひとりに特別目を掛けてしまった私です。本当に、申し訳ないことをした」
「……」
 松陽の長い亜麻色の髪が、ひと房さらりと羽織の上を滑り畳へ零れた。みやびは、そんな松陽の姿を見ながらまた、父の姿を思い出す。
 その顔が、見たいと思った。
「松陽先生。それから、銀ちゃんにも。お話したいことがあるんです」
 みやびが、少し硬い声でそう告げる。
 その言葉に松陽はやっと顔を上げた。部屋の縁で胡坐をかき壁に凭れ掛かっていた銀時も、緩慢な動きでみやびの方へ視線をやる。
 みやびは座り直し、背筋を伸ばし松陽と向かい合う。
「父のことです」
 みやびは、それから今まで隠していたことを、『表側』の事実を全て包み隠さず話した。
 自分は、元藩医である井上平蔵の娘であること。数か月前、父が家老一家を毒殺したこと。その結果、井上家はお取り潰しになり、平蔵は処刑日の朝に脱獄したが捕縛され斬首されたこと。身寄りのないみやびは、家老堀田家で今は世話になっているということ。
 みやびが淡々と話すのを、松陽も銀時も神妙な顔で黙って聞いていた。
「藩医という立場を利用し、人を殺めた父の所業は許されるものではありません」
 そこまで言って、みやびはそっと目を閉じ、静かに息を吐く。
「でも私にとっては、優しくて、誰よりも命を尊ぶ、自慢の父でした」
 語ることのできない『裏側』の真実を思う。
 父は大義のために務めを果たした。
 そんな風には思えないし、それはどれだけ時間が経っても変わらないだろう。
 だが、父は萩の町に住む人の命を誰よりも愛していた。だからその愛するもののために、一生懸命戦ったのだと。その愛するものの中心には、きっとみやび自身がいたのだと。
 そう考えると少しだけ、仕方がないなと思える気がした。
 父が殺されたという事実をではない。父が無茶をしたという真実を、受け入れられる気がした。
 父を尊敬していると口にすることができて、初めて受け入れられる気がしたのだ。
「みやびは本当に、お父上のことが大好きなんですね」
 みやびが一通り話し終えると、松陽は朗らかに笑いながらそう言った。みやびはその父によく似た笑顔を眺めながら、力強く頷いた。
「でも、その……犯罪者の父と重ねて見てて、先生には御不快な思いをさせてしまったかもと」
「まさか! むしろ光栄ですよ。可愛い娘ができたみたいで、こちらもつい調子に乗ってしまいました」
 冗談ぽくそう言う松陽に、みやびはホッと一息つく。本当のところ、それが一番気に掛かっていたのだ。大罪人と似た面影を感じたと言われれば、大概の人はいい気分はしないはずだ。
 けれど、松陽は笑って許してくれた。みやびの顔には笑みが浮かぶ。
「ただ……やはり、けじめはしっかり付けないと、また今回のようなことは起こってしまうでしょう」
 だが、その微笑みはすぐに引っ込んでしまった。
 怯えた眼が松陽を覗く。父によく似た眼差しが、ジッとみやびを見つめていた。
「もう、昼休みに君だけを呼び出して、おやつを一緒に食べることは出来ません」
 みやびの指先が、着物越しに太ももへと突き立てられる。
 じわじわと皺を刻んでいく橙色の木綿着物を、壁際の銀時が黙って見据えていた。
「君が負っているのであろう傷を、少しでも癒したくて……私はどうやら、少し急いてしまったようです。その焦りが結果的には、君の傷を抉ってしまった。ですからもう、焦ることは止めます」
 するとみやびは、自分の頭に軽く温もりが乗ったのが分かった。
 松陽の大きな手が、みやびをそっと撫でていた。
「心の傷の手当てとは難しいものです。身体の傷と違い、正解の治療法はありません。身体なんかよりずっと繊細で、治りは遅い」
 じわりと、みやびの視界が滲んでいく。先ほど散々泣き喚き、もう一生分は泣き尽くしたと思っていたのに。
「けれどもし、心の傷に効く薬があるのだとしたら……それはやはり、時間の経過と、人との交流なのではないかと、私は思っています」
 ぽたりと手の甲に零れた雫を見てか、松陽は体をみやびに近づけ、そっとその腕の中にみやびを招き入れた。
 みやびは黙って、父より広いその胸に体を預ける。
「とても怖いことだ。私にも、それは痛いほどよく分かる。でも、それでも……時間が掛かっていいから。ここで私たちと一緒に、様々な人と話し、いろいろなことを学んで、たくさんの思い出を作りましょう。今は分からないかもしれない。けれどいつか必ず、それは貴方にとっての妙薬になる」
 ですから、と松陽は掠れた声で呟く。
「明日も、明後日もその次の日も、どうかここへ来てくださいね。君は松下村塾の井上みやび。私の、大切な教え子。お父さんの代わりではなく、私は私としてみやびの薬となりたい。どんなに時間がかかっても」
 君が前を向くためにも。
 みやびも、心のどこかでは分かっていた。松陽と父を重ねたところで、みやびが見ているのは所詮過去の思い出だ。
 これからを生きるとはとても言えない、生と死の間で中途半端に揺れるだけの、ただの甘えだと。
『父ちゃんのこと、生きて憶えててやれよ。大好きなんだろ?』
 そう。ただの父親だった井上平蔵の全てを、憶えたまま生きていくことは、もうみやびにしかできないのだ。
 別人に面影を重ねて思い出の上塗りをしている暇など無いんだ。
 みやびは、ゆっくりと目を閉じる。最後に零れた涙は、松陽の長着に落ちて染みていった。


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