銀ちゃん
 束の間の夢を見ていた。それはとても幸せな夢だった。
『みやび、みんなには内緒ですよ?』
 父の面影を感じる青年とふたりで食べる甘味は、みやびに過去の幸福な日々を思い出させるのに十分な引き金だった。
 平蔵もたまにみやびを自室に呼び出しては、弥七には内緒だと言ってチョコレートやカステラを半分こしてくれた。
 そんなところまで似てなくてもいいのにと思いながらも、みやびはただひたすら松陽の前で優等生であり続けた。
 気に入ってもらいたかった。我儘を言って困らせたくなかった。
『……お願い父上……もう二度と、わがまま言わないから……一緒に連れてって……』
 もう二度と、我儘なんて言うものかと心に決めていた。
「ハッ、ハァッ……ハ……ッ」
 足袋のまま松下村塾を飛びだしてきたみやびは、松陽たちと初めて出会った橋の上まで来てやっと立ち止まる。欄干に片手を掛けて腰を曲げうずくまる様に息を整えた。
 鼓動がうるさく、汗が滝のように流れ出る。それはここまで全力疾走してきたからではない。
 松陽の、いや、みやびにとっては亡き父の面影があるその笑顔が、音を立てて崩れていくような気がした。
 胸を押さえてその場に座り込む。
 知られてしまった。罪人の娘だと。父が人殺しだと。
 きっともう、自分はあの部屋に呼んでもらえない。一緒におやつを食べてくれない。
 あの人はもう、父のように振る舞ってはくれない。
 荒い息がやがて震えたため息に変わる頃、みやびは欄干に両手を乗せて川の方へ身を乗り出す。
 覗き込んだ松本川は、嵐の翌日の濁流など嘘のように、澄んだ水をサラサラと穏やかに海へと運んでいる。
 きっとそこから飛び込んでも、みやびを海へは運んでくれないだろう。
「お前、死にてェの?」
 ふと、真横から掛けられた声にみやびは慌てて振り向く。
 すぐ隣で白いふわふわした髪の少年が、欄干に背中から凭れかかり、空を見上げていた。
「……死にたいよ」
 みやびは川に視線を落としながら、手すりに両肘を置く。
 二人の髪が、橋に吹きつける十月の爽やかな風に煽られ揺れた。
「なんで? 死ぬってたぶんスゲー痛いぞ。死んだことねェからわかんないけど」
「……なんでだろう。でもとにかく、早くここからいなくなりたい」
「親父がここにはいないから?」
 銀時の少し眠たそうな問いかけに、みやびは押し黙る。
「いいヤツだったんだな。お前の親父」
「!!」
 そして、銀時の一言にみやびは目を見開いて再び彼の方へ視線を向ける。銀時は相変わらず気の抜けた顔で空をぼーっと眺めていた。
「……さっきの話、聞いてなかったの? 私の父は」
「聞いてたよ。でも関係ねーだろ」
 銀時はすっぱりとそう言い切った。
 みやびには、それが夢の中の出来事であるかのように、現実のこととはとても思えない心地だった。
「お前見てたら分かるよ。すげェいい父ちゃんだったんだろうなって。俺親いないから、ちょっと羨ましいわ」
「……」
「だからさ」
 銀時がその時、やっとみやびの方を見る。
「父ちゃんのこと、生きて憶えててやれよ。大好きなんだろ?」
 いつも通りのやる気のない、眠たそうな顔だった。
 でも、優しい声だった。
 嘘偽りを感じさせない、真っ直ぐな瞳だった。
 みやびが井上平蔵の娘として、彼を愛し生きることを、その声や眼差しは認めて応援してくれている。瞬間的に彼女はそう感じ取った。
 みやびの瞳から、一粒の涙が零れ落ちる。銀時の視線がそれをなぞる。
「ああいうこと言うヤツがいたら、ぶん殴ってやればいいんだよ。娘のお前が庇わずに誰が庇うんだ」
「でも、だって……」
 それでも、銀時のような人間ばかりではないのだ。
 顔を手で覆い泣き始めるみやびに、銀時は面倒くさそうに頭を掻く。
「父上が人を殺したのは……事実で……」
「……お前の父ちゃん、それで死んだんじゃねーのか」
「……」
「だったらもう、罪は償ってんだろうが。なんでお前まで背負い込む必要がある?」
 銀時の言葉に、みやびは息を詰めた。恐る恐る顔を上げた彼女の視界には、腕を組んだふてぶてしい少年の姿が映る。
「押し殺すから死にたくもなんだよ。言っていいんだぜ、寂しいとか悲しいとか、父ちゃんのことが大好きだとか」
 言い終えると銀時は、そのまま欄干に手を付いて橋から身を乗り出した。スーッと大きく息をする音が聞こえ、その胸が膨らむのをみやびは目の当たりにする。
「松陽の馬鹿ヤロォォ!!! 俺のわらびもち返せェェ!!!」
「ひっ!?」
 そして、突如発せられた怒声に、みやびは思わず肩をすくませる。端から乗り出した上半身を戻して、銀時は再びみやびに向き直る。
「おら、お前もなんか叫べ」
「……えっ」
「言いたいこと溜まってんだろ。言え言え、スカッとすっから」
「……」
 困ったように眉をハの字にしたみやびが、促されるまま欄干に軽く手を付く。
 しばらく口をパクパクと開閉させながら何を言うべきか迷うそぶりを見せていたが、やがて小さく掠れた涙声が恐る恐る飛び出した。
「どうして私、まだ生きてるんだろう」
「おいなめてんのか、もっと腹から声出せ」
「……私だけ生きてたって、辛いだけなのにっ」
「もっとだ」
「父上のこと何も知らない人に好き勝手言われるばっかりでっ!」
「もっと!」
「でもみんなっ!! 人殺しの死を、父上の死をっ、悲しむなって、殺されて当然だって言うんでしょう!? そんな場所で、私だけ平気な顔して生きるなんて、できるわけないじゃないっ!!」
 少女の小さな涙声はやがて甲高い叫びとなって、萩の十月の空に消えていく。
「なんで松陽先生にバレちゃうの!? なんで君は生きろなんて言うの!? なんで、桂くんは私のことまだ井上って呼ぶの!? なんでっ!!」
 みやびはそのまま、膝から崩れ落ちてうずくまった。
 思い出してしまったのは、自分を労わり、支え、大切にしてくれた人々の笑顔だった。
 好きで好きでたまらなかった、あの少年の微笑みだった。
「なんで、あの時私を止めたの……? 晋助くん……っ」
 今もなお懐へ大事に入れている小袋を、着物越しに握りしめる。
 それからみやびは、幼子のようにわんわんと声を上げ、ずっと泣き続けた。
 彼女にとって、父が死して以降初めての号泣だった。

 どれくらいの間そうしていただろうか。
 一生分を泣き終えたかのように、ある瞬間すっと、みやびの中で何かが軽くなった。
 嗚咽が収まり、啜り泣きが橋に響く頃。みやびは銀時が自分の隣に座りこみ、ボーっと空を眺めていることに気が付く。
「あ、あの……」
「おー、収まったか」
 半分寝てたわと鼻をほじる銀時だが、その目はいつもより幾分か冴えているように見える。
 みやびは、彼がただひたすら、みやびの癇癪が収まるのを黙って待ってくれていたのだと思った。
「ごめん、私……」
「んじゃまっ、午後はフケるか」
「……ん?」
 銀時をこの場に引き留めてしまっていたことを詫び、早く松下村塾へ戻ろうと言おうとした時だった。銀時の発言にみやびは思わず数秒固まる。
 聞き返すと、立ち上がった銀時が仁王立ちでみやびを見下ろしていた。
「おいテメェ。まさか散々泣き言に付き合わせておいて、俺のサボりには付き合わないとか言わねェよな?」
「あ、いや……でも戻らないと松陽先生心配するんじゃ」
「んなもん日が暮れる前に戻りゃいいんだよ。おら行くぞ!」
「ちょっ!」
 勝手に松下村塾とは逆、市街地の方へ歩き出す銀時を慌てて立って追いかける。
「待ってってば! 君!」
「それと!! いつまで君呼ばわりしてんだテメェ!!」
 すると先を行っていた銀時が勢いよく振り向いてみやびに向かって指を差しそう叫んだ。驚いたみやびは体を震わせ静止し、追いつくどころかむしろ後退する。
 やっぱりこの子怖い……!! 出会った頃の晋助くんに似てる……!! 散々泣き腫らしたはずのみやびはまた内心泣きそうになっていた。
「俺は坂田銀時! 松陽から貰った、ちゃんとした名前があんだよ!」
 そう言って、拗ねたようにまた前を向きスタスタと歩き出してしまう銀時と、出会った当初の高杉の姿が重なって見えた。
 みやびは思い出す。
 高杉が怖くなくなった理由を。彼とどうやって仲良くなったかを。
「ぎ、銀ちゃん!」
 大きな呼び声だった。銀時の歩みが止まる。
「ありがとうっ! ちょっとだけど、元気出た、かも……」
 語尾は自身無さ気に段々と萎んでいったが、それでも彼の耳には届いただろう。
 振り向いた銀時の顔は、ほんの少し微笑んでいた。
「来いよ優等生。学校のサボり方教えてやる」
 その微笑みに、みやびも僅かながらに、しかし自然と浮かんだ笑みで応える。あの日以降、初めての作り笑いではない笑顔だった。
「銀ちゃん」
「おう」
「私、草履履いてないんだよね……」
 微笑は、気まずそうな苦笑に変わる。数度瞬きした銀時は、やがて気を削がれたとでも言いたそうな真顔に戻っていった。


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