えこひいき反対
『どうしてっ、どうして!!』
 そのまま倒れて血でも吐くのではないかと思うくらい、悲痛に塗れた叫び声だった。

 萩の城下町郊外、神無月の秋晴れの朝のことだ。あぜ道と田んぼ、それから疎らに点在する農家の中にその家屋はあった。古めかしい門構えの横には『松下村塾』と書かれた子供の背丈ほどの大きな看板が掛けられている。
「はい銀時」
「あんがと」
 その松下村塾、塾頭吉田松陽の生活空間でもある居間で、内弟子の坂田銀時は塾頭自らが白米を盛った茶碗を受け取った。
「……なァ松陽、アイツどー思う?」
 そしてみそ汁に口を付けた彼は、自分の分を茶碗に盛る松陽にそう問いかけた。
 現在午前六時半。授業開始は八時からだが、もうあと一時間弱もすれば塾生たちがちらほらと顔を出し始めるだろう。銀時の頭はまだ半分夢の中だったが。
「アイツとは?」
「あー……アイツだよ、ほら。みやび」
 塾生たちの朝は早いが、中でも一番早いのはその件のみやびだった。松下村塾の開設から半月が経過したが、みやびは一日たちとも教室一番乗りを誰かに譲ったことが無い。
 それどころか、松陽が朝の身支度を終え教材を運ぼうと教室に入ると、机を拭いたり床を掃き掃除していることさえあった。
「みやびですか?」
「おう」
「どう思うと言われても……質問の意図がよく分からないですね」
 そう言って白米と自家製の漬物を口に押し込む松陽に、銀時は左手でボリボリと頭を掻く。松陽は時折このように小難しい返しをしてくることがあるが、質問の意図と言われても銀時でさえなんでこの話題を出してしまったのかがよく分かっていない。
 そもそも始まりは、今朝方みやびを初めて見かけた日のことを夢に見てしまったからだった。
 橋の欄干を拳で思いきり何度も叩き、叫びながら今にも飛び降りかねない勢いだった彼女。見かねた松陽が何気ない風を装って声を掛けて気を逸らしたが、あのまま素通りしていたらどうなっていたか。銀時はそれを考えると何故だか寒気がした。
 別に、命のやり取りなど、命が消える瞬間など、今までに履いて捨てるほど見てきたというのに。
「アイツ、元気?」
「うーん……元気、そうに振る舞っているようには見えますが」
「……そっか」
 そう呟き、銀時は昨日の晩の残りである肉じゃがを口に含んだ。
 そう、あれだけ辛そうにしていた少女が、ここ数日は暗い顔一つしていなかった。それどころか松陽の前では笑顔すら見せていたのだ。銀時はそれが不可解で胸騒ぎを覚えていた。
 ただそれを上手く説明するには、些か銀時の頭脳の起動具合が間に合っていないのだが。
「ふふっ」
 すると、何か堪えきれなくなったという風に茶碗を片手にした松陽が笑い声を漏らした。何となく銀時は、自分の言動を笑われたのだと感じ咄嗟に彼を睨みつける。松陽はその視線に気付き「そんな怖い顔しないでくださいよ」と苦笑を浮かべた。
「ただ、そうですね。銀時が女の子に興味を示したのが初めてだったのでつい」
「はあ!? 誤解を招くような言い方すんじゃねェ!! 俺がいつあの幸薄そうな構ってちゃんに興味示したってんだ!?」
「おや、元気が無さそうだから心配という話ではないんですか?」
「ちっげーよ! ただあのクマできたやつれ顔で空元気されても見てて腹立ってくるって話!」
「なんだ、やっぱり心配してる」
「してねェェェェ!!」
 銀時がどれだけムキになっても松陽は生ぬるい笑みを絶やさない。最初こそ声を荒げていたが、一度変なスイッチが入ると何を言っても聞く耳を持たない松陽の特性を彼はよく理解していた。こうなると結局引き下がるのは自分なのだ、と銀時はみそ汁と白米と共に不平不満を飲みこんだ。
「まあ、きっと眠れてはいないでしょうね」
 ふと、一瞬静かになった食卓で、そんなことを呟いたのは松陽だった。銀時は思わず箸を止めた。
「慢性的な不眠症、それから栄養失調。それが自発的なものなのか、強いられているものなのかは分かりませんが」
「強いられてるって……メシ食わせてもらってないってのか」
「あくまで可能性の話ですよ。何かと理由を付けて銀時のおやつをちょろまかしてみやびにあげたりもしてるんですが」
「おい、今どさくさに紛れて爆弾発言しなかったか?」
「それはちゃんと食べてくれるので、拒食というわけではないと思います……ただ、特に飢えている様子もないんですよね。がっつく様子がないというか」
「おい、まさか昨日のわらびもちもやったのか? 買ったときより明らかに量減ってたよな?」
「あと誰かさんと違って授業中居眠りする様子もありませんしね。あんな深い隈作って来られちゃうと、むしろ居眠りしてくれた方が安心するんですが」
「先生、俺おやつ盗まれたショックで今日自主休講していいですか?」
「亡くなったお父さんと、関係しているのでしょうか」
 松陽が最後に付け加えた一言に、銀時は押し黙った。それまで昨日買ったときより三分の一ほど量が減っていたわらびもちに脳内の大半を支配されていたが、それが一気に吹き飛び代わりに過ったのはあの橋の上でのみやびの様子だった。
 彼女が言っていたことを思い出す。
『……死んだ父に似てたの』
「なあ、松陽」
「ん?」
「親を亡くすって、どんな感じなんだろ」
 それは、銀時にとっては本当に素朴な疑問だった。
 物心ついた時から彼は独りぼっちだった。生きるために盗みを働き、食べられそうなものは何でも食べ、戦火に包まれた町に潜り込んで死体から物を漁ることもあった。安らげる時など一分一秒たりともなく、刀を抱いたまま死体の横で眠る日々だった。
 目の前の男に拾われてなければ、きっと今でもそうしていた。だから銀時にとって、親子の情というものは想像したこともない未知の繋がりであったのだ。
「……さあ、私も親はいないので、よく分かりません」
 微笑を浮かべ少し俯いた松陽がそう告げる。
 その時初めて、銀時は松陽が自分と同じような境遇であることを知った。
「ただ、そうですね……もし銀時を喪ったらと考えると……」
 そこまで言って松陽は言葉を止めた。その瞳に暗い影が差したのを銀時は見逃さなかった。
「今、口に出して想像したことを後悔するぐらい、辛いです。家族を喪うということはきっと、そういうことなのでしょうね」
 松陽はそう告げた後、黙って残りの朝食を咀嚼し始めた。
 銀時は飲みかけのみそ汁に視線を落としながら思う。
 もしも松陽が死んだら、自分はどうなるだろう。辛いだろうか、寂しいだろうか。
 悲しいんだろうか。
 考えているだけで胃のあたりがキリキリと痛んだ。
 そしてもう一度、そっとみやびのことを思った。

「私たち知ってるんだから! みやびちゃんのお父さんが、人殺しだってこと!」
 松下村塾ののどかな午後に投じられた衝撃の一石に、銀時は今朝方の胃の痛みを思い出していた。
 松下村塾の昼休みは他の寺子屋などとは違い、居残って昼食をとる者は疎らである。生徒たちの家庭環境に鑑みて好きな時間に来て好きな時間に退出していいというシステムのため、昼で帰る生徒も多ければ昼からしか合流できない生徒もいた。ほとんど松陽と銀時の昼食のために作られたようなものであるこの十二時から一時間の昼休みだが、松陽はいつもこの間にみやびを呼び出しては自室で銀時や自分のおやつを分け与えていたらしい。
 らしいというのは、それを今しがた銀時は、この爆弾発言をした女子生徒から聞いたためである。
 子供は大人が思っているよりもずっと目敏い。昼休み、松陽が用意した握り飯を五分で食らって後は縁側で惰眠を貪るのが日課の銀時は、今朝方まで松陽がみやびにおやつをやっていたことすら知らなかったが、一部の生徒たちの間ではすでに噂になっていた。
 松陽先生がみやびをえこひいきしている、みんなに秘密でお菓子を与えていると。
 教室に戻ってきたみやびにそのことを問いただした女子生徒が、バツが悪そうに何も言わないみやびに対してヒートアップしてしまった結果がこの爆弾発言だ。
 元凶の松陽は騒ぎを聞き付け教室の入り口まで来ていたはいいが、丁度その発言だけ耳にしてしまい目を見開いて固まっている。
 みやびは女子生徒の前で、血の気の引いた顔をして無表情で立っていた。
「ちょっと、それは言っちゃダメだって……」
「何よ、みんなだって思ってるクセにっ……! 罪人の娘がどうしてこんなところに堂々と来て……」
「おい」
 銀時は思わずその女子生徒の肩を掴んだ。彼女は一瞬だけハッとした表情を浮かべ振り返ったが、すぐに銀時の手を振り払う。
「銀ちゃんもあの子のことかばうの!? そうだよね、私みたいな小作人の娘丸出しの貧乏人より、品があって頭もいいお医者の娘が良いよねっ」
「誰もそんなこと……」
「ばっかみたい! ちょっと読み書きができるからってさ、銀ちゃんにも松陽先生にも好かれて……私たちだって、私だって……頑張ってるのに……」
 そこまで捲し立てて、彼女は嗚咽を漏らしながら大粒の涙を流し始めた。銀時には彼女の気持ちを全て理解することは出来なかったが、少なくとも彼女が自分や松陽のことを慕ってくれているのは理解してしまった。
 松陽と目を合わせる。困り果てた視線がぶつかり合うだけだった。
「ごめんなさい……」
 すると、その教室の沈黙の中で掠れた声がひとつ響いた。
 銀時は咄嗟にその細い腕を掴もうとした。だが、寸でのところで取り逃がしてしまう。
 みやびは草履も履かないまま、縁側から外へ飛び出していった。
「みやび!」
「松陽!」
 慌てて追いかけようとする松陽を銀時は叫んで止める。自らは担いでいた刀を腰に差し、縁側の沓脱石に置いてある自分のわらじに向かって走った。履きながら、彼は松陽の方を振り返る。
「俺が追いかけるから、アンタは自分がやるべきことをやれ」
「!!」
 松陽が息を呑んで立ち尽くす。そして追い打ちを掛けるように銀時は庭先へ降り立ち振り向きざまにこう叫んだ。
「えこひいき反対! 俺のおやつ返せ!」
 それだけ大声で訴え、後は知るかと回れ右をしてみやびが消えた方へと走り出す。自分の撒いた種だ、精々苦労して回収するんだなと銀時は内心舌を出した。
 あの女子生徒の気持ちが全く分からないわけではなかった。銀時は朝食時に感じたショックが、わらびもちを盗られたという事実だけが原因ではないのかもしれないと、その時ようやく気付いた。
 それに気付けただけでも、少しだけ足取りが軽くなった気がした。


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