何かを変えたい君へ
 九月末日、今年に入って三番目の台風が萩を直撃した。
 萩の城下町は、阿武川から別れた松本川と橋本川という、二つの川の間にできた大きな三角州に作られた町だ。海にも面しているため、町の人間にとって台風は最も恐れている災害のひとつでもある。
 男たちは川の決壊に備え川原に土嚢を詰む作業に駆り出され、女たちはそんな男衆を支えるため夜通し食事の用意や着替えの準備、負傷者の手当てなどに追われた。
 当然災害対策の指揮を執る立場である家老堀田の邸宅でも、当主から女中までもが一日中忙しなく動き回っていたが、みやびはじっとしているよう言われ離れから出ることを禁じられた。
「嵐の日に子供がひとり行方知れずになったと分かれば、かなりの人手を捜索に割かなければならなくなる。今日だけは皆のためにもジッとしていてくれ」
 わざわざ当主自らが赴きみやびにそう釘を差していった。考えていることを見抜かれたようで、みやびはとても居心地が悪かった。
 死ぬなら誰の迷惑にもならないように時機を見て死ね。そう言われている気がした。

 翌朝、台風の脅威が去った萩の町は晴天だった。十月に入り、抜けるような高い空から降り注ぐ日差しは心なしか柔らかい。吹きつける風の涼しさに秋の到来を感じながら、みやびは木綿着物に一重の羽織を羽織って朝早くに堀田邸を後にした。
 男たちの夜通しの尽力の甲斐あってか、二つの川はどうにか決壊もせず持ちこたえてくれたらしい。萩城から見て東側にある松本川に掛かった橋まで来たみやびは、橋の上から欄干に凭れ掛かり川を覗き込む。
 普段は澄んだ水がちょろちょろと子供が泳げる程度の水嵩で流れているだけの松本川が、上流から押し流してきた汚泥や流木を巻き込み唸りを上げて海に向かっていた。子供どころか大人でも今この川に入ればきっとひとたまりもないだろう。
 今ここに飛び込めば、誰にも知られずに海まで流されて、ここから消えることができるだろうか。
 みやびの脳裏に、そんな『もしも』が頭をもたげる。彼女はそのまま、欄干に手を付いて前のめりになった。
 もう少し足を浮かせれば、もう少し、頭を下げれば。
『死ぬな、死なないでくれみやびっ……頼むから、お願いだから……っ』
『……また、何度でもお前を見つけ出すよ。井上』
『みやび、おいで!』
 もう、分からない。
 どうすればいいか分からないんだ。
 みやびはもう、何もかもから逃げたかった。ほんの少しの思いきりがあれば、何もかもから解放されると思ったのだ。
 思ったのに、その足はやはりあと一歩を踏み出せなかった。
「う、うあああァあっ!!」
 小さな唇から飛びだすのは、恨みや怒りを全て内包した咆哮。みやびはそのまま、自身の右手の拳を何度も欄干に叩きつけた。
「どうしてっ、どうして!!」
 この数か月、何度これを繰り返したか。どうしてこの足はもうあと一歩を踏み出せないのか。
 もう何もかもが嫌なくせに、生きたくないくせに。
 ぶつけ過ぎて感覚が無くなってきた右手で、目元を覆う。
 そのまま欄干に突っ伏したみやびは、自身に近づいてくるふたつの影に気が付かなかった。

「お嬢さん、どうかしましたか?」

 声を掛けられて、みやびはハッと覚醒する。
 突然聞こえた穏やかな男性の声に、どうしてだか、亡き父に話しかけられたような気がしたのだ。

 そんなはずがないのに、それでも弾かれたように顔を上げると、丁度一陣の風が吹き付ける。
 みやびの長い三つ編みが揺れた。
 声の主の、長い亜麻色の髪も舞った。
「おや、顔色が悪いですね。どこか具合が悪いとか……」
 紙製の買い物袋を両手で抱え、しげしげとみやびに視線を合わせるように中腰で覗き込んできたのは、長着に羽織姿の背の高い青年だった。
 男はいかにも優男然とした風体で、みやびのような草臥れた木綿着物を纏う痩せ細った子供を気に掛けている。そのどれもが、彼の腰に差している日本刀の印象から、帯刀しているという事実からかけ離れている気がして、彼女は警戒心から僅かに後退した。
 そして気付いた。青年の背後にもうひとり、誰かが立っていることに。
「おい、声掛け事案でPTAに不審者認定されるぞ」
 小指で鼻をほじりながら青年の背中から顔を出したのは、青年と同じように帯刀した、みやびと同じ年頃の男の子だった。青年が持っているものより一回り小さい買い物袋を肩に担いだ彼の髪に、みやびは目を奪われる。
 ふわふわの白だった。無造作に跳ねるその銀色がかった白髪はどこか柔らかそうで、まるで綿あめみたいだとみやびは無意識のうちに少年を凝視する。
「えっ、声掛け? そんな、怪しい者ではありませんよ私」
「怪しいヤツはみんなそう言うんだよ。こういうご時世なんだからオッサンは女子供に寄るな触るな見るな」
「ちょっ、銀時押さないでくださいっ……」
 みやびが少年の髪に気を取られているうちにも、少年は青年の背を押して先へ進もうとする。すると青年は背を押されながらも振り向いてみやびに話しかけた。
「お嬢さん、とりあえず橋の上からは退きなさい。ふらついて川に落ちたりしたら大変ですよ」
 そう言って微笑む青年の姿に、亡き父の姿が重なった気がした。
 容姿が似ているわけではない。声と、それから笑い方が似ていると思った。
 みやびは痛くなった心臓のあたりをギュッと手で押さえる。
 遠ざかっていく青年と少年の後姿に、もう二度と戻りはしない父と自分を思わず上塗りしてしまった。

「待って……父上……っ」
 気付いた時にはもう、その二つの背中を追いかけはじめていた。
 ふらつきながらの小さな歩みは、やがて早歩きになり、駆け足になる。気付いた時にはみやびは橋を渡り終え、二人に追いついてしまっていた。
 久々に走ったみやびは、ろくに食べず体力が衰えていたこともあり、すぐに息が切れてしまう。膝に手を付き息を整える彼女を、二人は驚きながらも落ち着くまで声を掛けずに待っていてくれた。
「私たちに何か御用ですか?」
 息を整え顔を上げたみやびが目にしたのは、目の前まで来てみやびの背丈に合わせ屈んだ青年の笑顔だった。
 ああ、やっぱり似ている。優しい目も、声も。
 その笑顔は、どんな心の傷も労わり、まるで包帯を巻くかのように包み込んでくれた。
 懐かしくて、辛くて、数カ月ぶりに視界が滲んだみやびの様子に、焦ったのは青年と少年だった。
「えっ、泣い……えっ!?」
「ばっ、だから言ったろ!? 声掛け事案だぞおい、ロリコン容疑掛けられてPTAに要注意のプリント配られるぞおい!?」
 急にあたふたし出す二人に、みやびは我に返り慌てて否定する。
「ご、ごめんなさい!! 違うんです、あの! ……貴方が家族に似てて、それでその、びっくりしてしまって」
「家族に似ててびっくりってツラかよてめー。鏡見てこい、そしてもっとまともな言い訳しろ」
 事実からかなり重要な部分を削ぎ落して言い訳すると、間髪入れずに少年から辛辣な指摘が入る。みやびは困って眉根を寄せた。
 随分と言い方のキツい少年だ、出会った頃の晋助くんみたい。とみやびは口元をへの字にして少年を見つめる。
「……死んだ父に似てたの」
 どうせもう会うことも無いだろうと、みやびは隠し立てせず本当のことを少年に言った。少年はそれまで眠そうに半開きにしていた目を少し見開き、何か言おうと口を開いたが結局何も言わなかった。
 バツが悪そうに逸らされた少年の目を見届けてから、みやびは青年に向き直り頭を下げる。いくら人が良さそうな子連れだからといって、帯刀した人間にあまり無礼な事はできない。本当はまだもう少しそばにいたい気持ちを抑え、踵を返した。その時だった。
「あの!」
 青年が声を上げる。みやびがゆっくり振り向くと、青年が買い物袋から何か掌大ほどの大きさの紙の包みを取り出していた。
 包み紙は見覚えがあった。繁華街にある団子屋のものだ。
「これから丁度、帰ってお茶にしようと思ってたんです。もしよろしければ一緒にどうですか? うち、すぐそこなので」
 団子が入っていると思われる包みを翳し、青年はニッコリ笑っていた。みやびはその姿をしばらく凝視し、出会ったばかりの人間に簡単に付いて行っていいものかという理性と、父によく似た彼ともう少し一緒に居たいという感情を天秤にかける。
「……」
 橋をもう一度渡ろうとしていた足は、少し迷った後に青年の元へ引き返した。

 青年と少年が住んでいるという家は、みやびの記憶が正しければ長い間空き家だった場所だ。
 萩の中心街から徒歩で1時間弱かかるそこは、利便性も乏しく周りには質素な農家ばかりが建ち並ぶ。ただその土地の安さからか建坪はそこそこ広く、みやびの生家より少し大きいくらいの平屋建てに彼女は快く招かれた。
 ついこの間まで空き家だったとは思えないくらい、家は小奇麗だった。所々に修繕の跡や古さを感じられたが、普通に生活する分には何の支障もないだろう。そのことを住人達に訊ねると「掃除と修理に一か月半かかった」と少年の忌々しげな返答があった。
 みやびはそのまま、二人の生活空間であろう居間に通される。男の二人暮らしなだけあって、荷物はほとんどない殺風景な光景が広がっていた。あるのはちゃぶ台と座布団、それから壁の端に積み上げられた週刊少年ジャンプくらいだ。
 みやびに腰掛けて待つよう言った青年は、そのまま台所の方へ消える。畳の上に荒々しく座って胡坐をかいた少年に倣い、みやびは恐る恐る座布団を避けて畳の上に正座した。
「……おい」
「!!」
 唐突に、少年に声を掛けられてみやびは肩をビクつかせた。
「座布団、あるんだから使えよ」
 しかし身構えていたみやびの怯えに反して、少年の用は他愛のないことだったようだ。そのまま行儀悪くも畳の上にごろんと寝転がった彼は、その体勢のまま手を伸ばして畳に置かれた座布団をみやびの方へ押しやる。
「あ、いやでも……」
「お前客なんだから、使えばいいだろうが」
 ならその態度は客の前で見せていいものではないだろうと、みやびは内心でツッコミを入れながら渋々座布団を自身の下に敷く。片腕を畳について枕代わりにする少年は、やがて大きな欠伸を漏らした。
 沈黙が辛い。みやびは冷や汗をかきながらただ身を小さくして青年の帰りを待っていた。
「お待たせしました。さあ、おやつにしましょうか」
 程なくして、木のお盆を抱えた青年が戻ってくる。みやびの前に仄かに湯気がたった湯呑と三食団子を置いた。
 繁華街に店を構える団子職人五平とその妻お久が夫婦で切り盛りする団子屋『五平』は、都から遠く離れそう特色も無い萩の町で自慢できる数少ない名店の一つだ。少なくともみやびはそう思っている。
 久々に、お腹が空いたと彼女は感じた。
 恐る恐る口に含んだ団子の味は、父や高杉と並んで食べた、あの日のままの味だった。
「そういえば自己紹介がまだでしたね。私は吉田松陽、こちらは弟子の坂田銀時です」
 すると、みやびが団子を一口含んだのを見計らってか、青年は思い出したかのように口を開く。みやびは慌てて団子を皿に戻し、居住まいを正した。
「わ、私はみやびと申しますっ。その、名乗りもせずにご馳走になってしまい、申し訳ございません」
「ふふっ、誘ったのはこちらなんですから、それは言いっこなしですよ」
 そう言って浮かべる悪戯っぽい笑みも、見覚えがあった。見れば見るほど、雰囲気や仕草が亡き父にそっくりだ。
 見ず知らずの他人だ。重ねてみるなんて失礼極まりない。みやびの理性は冷静にそう結論を出していたが、感情の部分ではそうはいかなかった。
 この人のそばは何だかとても落ち着く。ずっとここにいたい。そんなことまで思い始めてしまっていた。
「みやびさんは、寺子屋や私塾には通っているんですか?」
 きっと平日の昼間から橋の上でうずくまっていたからだろう、何気ない松陽の質問にみやびはどう答えようかと一瞬押し黙る。
「……通ってません。少し前まで和歌の師匠に読み書きは見ていただいてたのですが、家の都合で今は辞めました」
 みやびなりに、深く追及されにくい答え方をしたつもりだった。しかし松陽の反応はみやびが予想していたものとは遠くかけ離れたものだった。
「そうでしたか!」
 パーッと、満面の笑みを浮かべた松陽が目を輝かせている。困惑を隠しきれないみやびの様子と交互に見て、銀時が食べかけの団子を片手に深いため息を吐いた。
「実は我々、明日からここでこういったものを開く予定で」
「?」
 すると松陽はやや早口でそう告げながら、懐から何やら折られた紙を取り出す。それはどうやら手書きのチラシのようだった。
 みやびがそれに視線を落とす。
『松下村塾オープン』
『月謝は頂きません』
『読み書きが出来るようになりたい、強くなりたい、何かを変えたい君へ』
『一緒に学びませんか』
 紙には、筆で書いたそんな文字が躍っていた。
「もしお暇なら……という言い方は失礼かもしれませんが、気が向いたら授業を受けてみませんか?」
 松陽は声を弾ませながら、懐からもう一枚紙を取り出す。升目のような区切りが書きこまれたそれはどうやら時間割のようだ。
「この辺りはお家の手伝いもしなければいけない子が多いようですから、好きな時間に来て好きな時間に抜けられるようにしてあります。座学は基本午前中のみで、午後は男子のみ剣術稽古ですね。女の子は……実はまだ考え中で」
 女の子に剣術稽古って需要あると思います? と困ったように訪ねてくる松陽と、一枚目のチラシをみやびは交互に眺めていた。
『何かを変えたい君へ』
 その言葉に、何故だか心を鷲掴みにされていた。


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