彼がいる世界
 みやびが医学館から退院した二日後、今回の事件の現場となった萩の共同墓地に張られていた立ち入り禁止の縄が外された。
 その日、みやびは朝から桂と共に出掛け、河川敷で自生する撫子や竜胆、野菊などを彼と手分けしてたくさん摘んだ。二人で摘んだ両手いっぱいのそれを四つの束にして二つずつ抱え、彼らはあの夜戦場と化した場所へ赴く。
 母と、遺灰は無くともきっとそのそばにいるだろう父に、みやびはそっと手を合わせた。
 綺麗に磨かれた井上家の墓には色とりどりの秋の花が供えられ、その中心で蝋燭の炎と線香の煙が揺れている。
 この町を離れることを、どうかお許しください。
 みやびは目を閉じ、手を合わせながら静かに心の中で語り掛けた。
 一緒に生きたいと思える人たちができたこと、生きてほしいと願っている人がいること、たくさんの人に支えられ助けられて何とか生き永らえたこと。
 こう生きたいと思う、武士道が自分の中で出来上がりつつあること。
 父母と三人で過ごせた七年間が、みやびにとって最も幸せな時間だったことは、きっとこの先も変わることはないのだろう。
 けれどそれと同じくらい楽しくて笑顔溢れる思い出を、彼らとならきっと作れると思った。
 一人ではきっと越えられない辛く暗い夜も、彼らとなら強く優しく過ごせると思ったのだ。
 そして、大忠太と約束した。頑張って強く優しく生きると。
「だから私、行ってきます」
 最後の一言は、声に出して告げてみる。
 三人で暮らしていたあの頃よく浮かべていた、心の底からの満面の笑みでみやびは別れの挨拶を終えた。
「井上、もういいのか?」
「うん。待たせてごめんね」
 共同墓地の出入り口で待っていてくれた大切な友人にそう声を掛けて、みやびは父母が眠るその場所を後にする。
 振り返りはしなかった。

 桂とみやびはすでに昨日、出先から帰ってきた松陽を待ち伏せこっそり高杉邸の外で捕まえ、ついていきたいという思いを伝えていた。
 高杉に見つからないように伝えたのは、彼への二人なりの気遣いだ。銀時は大げさだと言ってあくびを噛み締めていたが、心なしか高杉に絡む回数が減っているようにも思える。
 高杉はまだ、松陽に返事をしていない。
 彼はあれから一人でいることが格段に増えた。誰かが話しかけても上の空であることが多く、屋敷の至る所で一人ぼっちの彼を遠巻きに誰かが見守るという光景がよく見られた。
 松陽は高杉が自分の納得のいく結論を出すまで待つ気でいる。みやびは何となくだが、今のままでは高杉はどちらを選んでも後悔が残るのではないかと案じていた。
「しかし、本当に良かったのか? 井上。……もし高杉が残ることを選んだら、離れ離れになってしまうぞ?」
 墓参りからの帰り道、足元を枯れ葉が転がる中で桂がそう問いかけてくる。みやびはその質問に少しだけ苦笑してみせた。
「そうだね。それは、やっぱり寂しいけれど……手紙だって書くし、お互いがちゃんと志を持って生きていれば、きっと晋助くんとはずっと仲良しでいられると思うんだ」
「……そうか」
 みやびの返事に、桂は優しい眼差しでそっと相槌を打つ。
「だから私は、離れ離れになることより……晋助くんが気を遣ったり意地を張ったりして、自分の本当の気持ちに嘘をついてしまうことの方が、怖い」
 みやびはそう言って、高杉家の女中が貸してくれた襟巻に鼻先を埋める。
 ついてくるにしろ残るにしろ、高杉が心の底から納得してそうするならそれで良かった。ただ、今の高杉にはあまりにも捨てるに惜しい大事なものが多すぎるのだ。高杉の周りに彼が慈しむ存在がたくさんいることはとても嬉しかったが、それが今高杉を悩ませているのかと思うとみやびは苦しくて仕方がなかった。
「そこは大丈夫だ」
 だが、そんなみやびの思いを吹き飛ばすかのように、桂はそう断言する。
「……どうして?」
「井上、お前は少し高杉に対して夢見がちなところがあるな」
 驚き顔を上げるみやびに、彼は軽く呆れたような口調で返した。
「あの悪童、高杉晋助だぞ? 俺に何度講武館に来いと言われても無視し続け、大忠太殿に何度殴られようとも自分の生き方を曲げなかった。……自分の気持ちへのバカ正直さに関しては折り紙付きだ。ヤツが自分に嘘をつく日が来るとは、俺には到底想像できん」
 腕を組み、一人合点するように頷きながらそう言う桂に、みやびは自分の杞憂が途端に晴れていく気がした。
「嘘がつけんから、まだ迷っているのだろう。……ついていきたい気持ちと残りたい気持ち、どちらもが今のヤツにとって本心なのではないか?」
「……そうだね。きっと、それが今の正直な気持ちなんだろうね」
 ここ最近はあまり高杉と一緒にいられなかったみやびでも、彼の松陽への心酔ぶりは手に取るように分かった。
 銀時との独特だが強い友情もある。そんな大切なものを一目散に追いかけられない理由は、ただ一つなのだろう。
 そうして話しているうちに、二人は高杉邸へ戻ってきていた。朝早くから墓参りの準備をしたせいか、まだ時刻は昼前。台所に顔を出して女中さんたちの手伝いをしようかと二人で相談し、彼らは台所へと向かった。
 味噌汁の香り立つ台所で一人包丁を握っていた女中頭に声を掛ける。笑顔で振り返った彼女に、何か手伝うことは無いかと聞こうとしたその時だった。
「お夏さん、大変っ! 大変ですっ!!」
 ものすごい勢いで台所に飛び込んできたのは、もう一人の年若い女中だった。
 女中頭の夏に飛びつかんばかりの勢いでそう捲し立てる彼女に、その場にいた三人は目を白黒させるばかりだ。
「ど、どうしたのよ一体……?」
「大変なんです!! 旦那様がまた坊ちゃんに酷いことを!!」
 普段はいつもニコニコ笑っている印象が強いその女中の泣き出しそうな顔に、みやびは思わず桂と顔を見合わせる。夏は飛び出してきた二つの単語にサッと顔色を変えた。
「また手を上げてるのっ?」
「いえ、そうじゃないんですが……」
 夏の問いかけに彼女は言葉を選ぶような素振りを僅かに見せる。一瞬だけみやびたちの様子を横目で伺ったのをみやびは見逃さなかった。
「実は、先ほどまでめっっずらしく親子二人で縁側に並んでお話しされてたんです。坊ちゃんが今後どうするのかって。最初は二人とも穏やかそうにしてたんで、やっと雪解けですかねーって甚兵衛さんとも話してたんですけど……でも途中からどうも雲行きが怪しくなってきて、そしたら何故かお互いの胸倉掴んで睨み合い始めちゃってっ!」
「……」
 夏の口から特大のため息が漏れる。
「どうして雲行きが怪しくなったのよ」
「私にもよく……でも旦那様、どうも坊ちゃんに松陽先生のところへ行ってほしいみたいなんです」
「そ、そうなんですか?」
 その女中の言葉に反応したのは桂だった。
 あの真夜中に大忠太の本心を聞いているみやびの心中は複雑だ。やはり今でも大忠太は、自分から離れなければ息子は幸せになれないと思っているのか。
「ええ。それで、最初は迷っている坊ちゃんの背中を押そうとしてたみたいなんですけど……なんか、上手くいかずにいつの間にか『出ていけこのろくでなしが!!』みたいないつもの感じに……坊ちゃんも売り言葉に買い言葉で『こんな家出ていってやらァ!!』って……」
「……」
「なんでそうなる……」
「何やってんのよあの人は……」
 桂が呆れた顔をして女中頭が額に手を当て大きなため息を吐く中、みやびはただひたすら苦笑するしかなかった。
「と、とにかく! 今は甚兵衛さんと松陽先生が仲裁してくださってるんですけど、お夏さんも来てください! 旦那様、なんだかんだ言ってお夏さんには弱い……」
「おう、お前ら。帰ってきてたのか」
 女中がそう言いながら夏の背中を押そうとしたその時、彼女たちの行方を小さな影が遮る。
 ここ数日ですっかり高杉家にて我が家のように寛ぐようになった銀時だった。もう冬も近いというのに襦袢も着ずに木綿の着物一枚でふらふらとしている彼は、女中が開けっ放しにしていた台所の引き戸からぬっと顔を出す。
「銀ちゃん! ねえ、聞いた? 晋助くんとおじ様が……」
「ああ、それな。なんか面白いことになってきたぞ」
 みやびが思わず駆け寄ると、先ほどまで見ていたかのような口ぶりで銀時がニヤリと笑う。
 その悪ガキらしさ全開の笑顔に、みやびは瞬間嫌な予感を抱いた。
「松陽と高杉のおっさん、今から高杉の今後を賭けて試合やるってよ」

「……はあァァァァァ!?」
 その衝撃の展開に、その場にいた銀時以外の四人の絶叫が響き渡る。思いのほか反響が大きかったことに銀時は肩をびくつかせていた。
「な、なんで松陽先生が出てくるのよ!?」
「俺が知るかよ。とにかく、おっさんが勝ったら高杉は問答無用で松陽に弟子入り、松陽が勝ったら高杉は今晩おっさんと同じ布団で添い寝だって」
「いや可笑しくないかその賭け!?」
「高杉のヤツめっちゃ焦ってたぜ。ざまあみろ」
「それ絶対松陽先生面白がってるヤツじゃん……」
 あの頑固親子にはこのくらいしてやらないと分からないんですよ、といつもの微笑みを浮かべて淡々と告げる松陽が目に浮かぶ。眩暈がしてきたみやびの隣では、可哀想なことに女中頭が風化寸前だった。
「あ、あのポンコツ親父……」
「お、お夏さんしっかり!?」
「やっぱりあの時、みんなでボイコットしとくんだった……っ」
「今からでも遅くないですお夏さん、やりましょう……!! 坊ちゃんは私たちで守るって約束したじゃないですかっ!」
 顔を手で覆い崩れ落ちた女中頭を若い女中が懸命に支えて励ましていた。何やらいささか過激な単語飛び交う二人の会話に子供たちが驚きながら眺めていると、廊下の奥から大きな足音がドタドタと近づいてくる。
「お前たち何してるんだ、早く松陽先生を応援しに行くぞ!!」
「あんなツンデレバイオレンスにはもう任せておけません!! 暴露してやりましょう、実は毎晩坊ちゃんの布団掛け直しに行ってること暴露して動揺させてやりましょう!!」
 現れたのは、使用人筆頭の甚兵衛と使用人の中で一番若い下男だった。いよいよみやびたちは何が起こっているのか分からない。
「絶対勝たせませんよ!! 坊ちゃんのためならいざ知らず、あんな堅物鬼瓦のつまらない虚勢の所為で坊ちゃんと離れ離れになるなんて私耐えられません!!」
「これで旦那様が勝ってみろ、坊ちゃんをワケの分からんロン毛に取られたって一番へこむのあの人だからね。ほんっとめんどくさい、なんで父親でいる時だけあんなめんどくさいのあの人!?」
「甚兵衛さん結構言いますね……普段旦那様に胡麻擦りまくってるのに……」
「いや、屋敷の主人としてはあの人は出来た人だよ? でも父親としては低スペックすぎるの、ポンコツすぎるの! まあ先代も大概だったけど」
「なら坊ちゃんもポンコツの父親になる可能性が……?」
「そんな遠い未来のことなんてどうでもいいです! 私たちが守らなきゃいけないのは、今の坊ちゃんなんですからっ!」
「みんな、辞表の準備はいいわね!? 今日こそはあの腐れ親父に全員で言ってやるわよ!!」
 おう!! とやたら雄々しい掛け声を上げ、高杉家使用人総勢四名が駆け足で去っていく。
 取り残された松陽の弟子三名が、目を見合わせ瞬きを繰り返すこと数秒。
 先に腹を抱え笑い出したのは銀時だった。
「アイツ、めっちゃ愛されてね? なのになんであんな孤独感丸出しで生きてんの? 中二病?」
「……確かに、これは高杉が鈍すぎるな」
「でもなんだか、それに気付いてないのも晋助くんらしいというか」
 銀時の笑い声に触発され、みやびもなんだかおかしくなってくる。ここにはいない、自分は嫌われ者だと思ってそれを演じている、本当はとても優しい男の子のことを思い浮かべる。
 彼がいる世界はこんなにも優しい。いつか彼自身もそれに気付いて、受け入れてくれたらいいと思った。
「……って!! 感傷に浸ってる場合じゃない!!」
「ああ、俺たちも行こう」
「まァ、松陽が負けるわけないんだけどな」
 弾かれたように動き出したみやびを先頭に、彼らも台所を出ていく。
 高杉家の廊下に子供の足音が三つ、軽快に響き渡っていた。

 そしてみやびたちはその日、とある父親の不器用で切実な願いを目の当たりにする。


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