いくつかの涙
「やはり、私たちはこの町から出て行こうかと思っているんです」
 夕暮れ時。高杉家の夕飯に同席させてもらっていたみやびと桂は、松陽からそんな衝撃の発言を聞かされた。
 当主不在の食卓で、唯一この家の人間である高杉が閉口する。固まってしまった弟子たちの中で、銀時だけが黙々と女中たちの用意した温かい夕食に箸を伸ばしていた。
 みやびや高杉親子を襲った攘夷浪士たちがこぞって逮捕されたことにより、松陽が攘夷思想を持つ教師として捕らえられる話は立ち消えた。
 しかし、だからといって松陽たちに纏わりついていた良からぬ噂が立ち消えるわけではない。
「この町が、先の攘夷戦争で深い傷を負い、攘夷という行為に対して少し過敏になっているのは聞きました。私は別に攘夷思想を説いているつもりは微塵もありませんが、聞く人が聞けばそう捉えられてしまうだろう危険性を孕んでいることは理解しているつもりです」
 だとしたら、自分のためにもこの町のためにも、私はここにいない方が良い。
 松陽はみやびと桂、そして高杉をまっすぐ見据えそう告げる。
「……じゃあ、この町で折角開いた松下村塾は……畳んでしまうんですか?」
 みやびの脳裏には、自分と同じく松陽を慕ってやまない同門の顔が思い浮かぶ。
 読み書きができるようになりたい、農民の子だけど剣を扱えるようになりたい。そんな夢を抱いて門を叩いた子供たちの武士道はどうなるのか。
 そんな面持ちで問いかけたみやびに、松陽は微笑んだ。
「実は……この二週間で、私の代わりに彼らへ読み書きや剣術を教えてくれる人を探していたんです」
「!!」
 その言葉に、弟子たちの視線が師匠へ集中する。
「私も、彼らを残していくことだけが心残りでね……何とか代わりの、報酬に執着しない奇特な適任者がいないかと探していたら、大忠太さんがいい人を紹介してくれました」
「親父が……?」
「ええ。元は藩校で教鞭を執っておられた方で、今は息子さんに家督を譲って隠居されているとか。大忠太さんが話を通してくれた時も随分興味を示してくださったようで、昨日直接会ってお願いをしてきました」
 優しくて聡明なご老人でしたよと、松陽はみやびたちを安心させるようにそう言う。
「なので今日は、生徒たちの家を回ってその説明をしてきました。さすがに、松下村塾という名前とあの場所はもう使えませんが……あの子たちの武士道はきっと、そんなことでへこたれる程ヤワではないでしょう」
 ですから、と言って松陽は一旦言葉を区切る。そして、小さく息を吸った。
「晋助、小太郎、みやび。……君たちにも決めてもらいたい。私たちと共にこの町を出ていくか、この町に残るか」
「……」
 誰も、即答などできるはずがなかった。
 その選択肢を、銀時だけは最初から提示されていない。きっと松陽は銀時にだけはこの話をしていたのだと、みやびは少しだけ銀時が恨めしく思えた。
 いつぞやの、もし銀時が金持ちへ養子に貰われる代わりに松陽と離れなければならないとしたらという、あの例え話が蘇る。
 きっと松陽と銀時は、互いが離れ離れになるなんて考えは端から頭にないのだろう。その関係が、今のみやびには羨ましかった。
「もちろん、すぐにとは言いません。あまり長い時間も取れませんが……返事の期限も、こちらから指定する気はありません。ゆっくり、自分が納得できるまで考えてみてください」
「あの、先生」
 おずおずと桂が小さく手を上げる。どうしましたか? と松陽が視線を向けると、桂は肩を落としながら上目遣いにこう問いかける。
「その、この町を出てどこへ行くかは決まっているんでしょうか?」
「……いいえ、まだ決まってはいません。ただ、いくつか当てはあります。この近辺の山間の小さな町や村で、寺子屋が不足している場所がいくつかあると聞いたので、まずはそのいずれかへ向かおうかと」
 松陽の話に耳を傾けながら、みやびはそっと隣に座する高杉を盗み見る。
 正座したその太ももの上に爪を立て、虚ろな目で夕食が置いてある机のあたりを見つめる彼がそこにいた。
 死闘を繰り広げたあの夜の、大忠太の大きな背中を思い出す。
 みやびや桂にはない葛藤と向き合わなければならない高杉の身を、みやびはただ黙って案ずる他なかった。


 夕食を終え、みやびは高杉家の厚意に甘え今日は屋敷で泊まらせてもらうこととなった。聞けばあれから二週間の間に桂も何度か泊まらせてもらっているらしい。自然と、彼も一緒に一夜世話になることになった。
 浴室を借り、高杉邸の広い檜風呂を十分に堪能する。脱衣所には今夜借りる高杉の寝巻が丁寧に畳まれて手ぬぐいと共に置かれていた。少しだけ長い袖丈に照れながらそれを纏い、長い髪を丁寧に拭く。
 脱衣所を出てしばらく廊下を進むと、表庭に面したくれ縁で黄昏れている背中を見つけた。
「桂くん」
 声を掛けると、まだ少し濡れた髪が揺れる。髪を下ろした桂の姿は少し新鮮で、本人には言わないがそうしているとますます女の子と見間違うとみやびは思った。
「井上……」
「隣、座ってもいい?」
 みやびがそう問いかけると、桂は少しだけ微笑んでくれ縁と外を仕切るガラス戸をみやびが座る分だけ開けてくれる。
 十一月中旬の夜更けは寒く、湯冷めしないようにと肩から掛けていた羽織にみやびはしっかり袖を通した。
「俺は、松陽先生についていこうと思う」
 聡い桂は、みやびが訊く前に確信を突いてくれた。
「桂くん……」
「不安はたくさんある。先祖代々が守ってきたこの土地を捨てて、両親やお婆と暮らしたこの町を出て、本当に後悔しないか……。正直、少し怖いよ」
「……」
 そう。桂とみやびにはもう、彼らを繋ぎとめる家族がこの世のどこにもいない。
 けれど、その家族が自分を愛してくれた大切な思い出は、全てこの町でのものだった。
「だが……遅かれ早かれ、こんな日は来ていたと思うのだ」
 しかし桂は、その大きな瞳にたくさんの希望を浮かべて東の暗い空を眺めていた。
「もしも父上や母上、お婆が生きていたら……きっと背中を押してくれたと思う。松陽先生の元で、立派な侍になってこいと」
「……そう思う?」
「ああ。俺の家族は、そういう人たちだった。俺がこの武士道を貫くためにここを去らなければならない日が来たら……振り返るなと言ってくれる人たちだった」
 強い確信を持ってそう告げる桂に、みやびの視線は沈む。
 自分の父母は、今のみやびになんと声を掛けるだろうか。みやびにはそれを考えるのが少し怖くて、難しかった。
「だから俺も……井上や高杉がどんな選択をしたとしても、背中を押すよ。……友として、お前たちを信じているから」
 その心強い言葉に、みやびは視線を上げる。大きな志を見据えたその瞳が、優しくみやびを覗き込んでいた。出会った頃と少しも変わらない、大人びていて誠実で、自分の生き方を自分で選べる強い男の子がそこにいる。
「……うん。私も、ちゃんと自分で考える。自分がどうしたいのか」
 変わらない桂の隣で、変わることができたみやびが強い意志を込めてそう言う。
 そんなみやびへ、桂はただ黙って見守るような視線を向けていた。


 その後、みやびは高杉の部屋へ赴き、おやすみの挨拶だけして早めに床に就いた。
 この二週間高杉邸に身を寄せている松陽と銀時は、いつもは客間を二人で使っているようだが今日はそこをみやびに譲ってくれた。今日は男四人で雑魚寝だという高杉の部屋には布団が四枚横一列に並べられ、ポートポア連続殺人事件を取り上げられなんだか手持無沙汰そうに枕を手元でポンポンと上げて遊んでいる銀時に、みやびは枕投げの気配を察して早々に退散した。
 案の定、その数分後に高杉の部屋から三人の怒声が聞こえてきたが、ものの数分で静かになったのできっと松陽の雷が落ちたのだろう。
 見慣れぬ天井を仰ぎ、みやびは松陽の提示した選択について今一度考える。
 本当は、もう八割方腹は決まっていた。
 ただ、臆病なみやびはその道の先にあるかもしれない後悔を思って、まだ桂のように断言できないでいたのだ。
 冴え切っている頭とは裏腹に、体は疲労を溜め込んでいたのか自然と瞼は落ちていく。起きているような寝ているような、意識がふわふわと安定しない奇妙な感覚が数時間続いた。
 みやびが心身ともにハッキリと覚醒してしまったのは、夜もすっかり更け切った午前一時のこと。
 成人男性の話し声は、いくら小さく潜めていても低くよく響くものだ。廊下から聞こえてきた聞き覚えのある二つの低音に、みやびは布団から這い出て寝巻の襟元を整えながら襖に近付いた。
「剣術に関しては、私や、私の弟子が交代で面倒を見るつもりです」
「ありがとうございます。本当に助かります。……でも、大丈夫ですか? あまり目立つ行動をしてしまうと、貴方の立場的には……」
「いいえ、ご心配には及びません。実は……この藩の教育水準を上げようと、以前から会議でたびたび教育制度の見直し案は挙がってはいたのです。吉田殿が作ってくださったカリキュラムに私の人材調達案を加えて敬々公にお見せしたところ、藩命として試験的に農民の子たちをこのように教育してみよと仰せになりましてね」
「敬々公……あの、なんだか話が大きくなりすぎてませんか?」
「そうですね。私も、許可を取る程度のつもりでお見せしたつもりでしたが……ともあれ、敬々公がそうせよと仰ったのです。この藩で、あの子たちが学ぶことを妨げる者が出てくることはもう無いでしょう」
 玄関近くの廊下で立ち話をしているのは、どうやら大忠太と松陽のようだ。起き抜けに少し難しい単語も出てきてみやびは半分以上何を話しているかよく分からなかったが、大忠太の声が普段より少しだけ穏やかなことだけは分かった。
「大忠太さんには、本当に何から何までお世話になってしまって……感謝してもしきれません」
「……いいえ。倅がお世話になるのですから、これくらいのお手伝いはさせてください」
「そのことですが、大忠太さん。……今日、彼らに話しました」
「……そうですか」
「晋助くん、迷っていましたよ」
 松陽のその一言に、大忠太が何と返せばいいのか分からず固まってしまったのが、みやびには襖越しにも感じられた。
「本来なら、親子の問題に他人が立ち入るべきではないのでしょう。……ですが、どうしようもなく私は歯痒いんです。貴方と晋助くんはお互いに……もう相手の心に自分は居ないんだと、思い込んでいませんか?」
 松陽がそう告げる声はまるで、そんなことはないんだと言い聞かせるように慈しみに満ちていた。
「……親友の、首を刎ねたのです」
「!!」
 そして、大忠太が静かに語り出した時、みやびは思わず声を上げそうになった口を必死に押さえた。
「私の全てを差し出せば、見逃せる命でした。……そうしなかった私を、息子は責め続けた。その眼が、あの日友と一緒に殺めた、昔の自分を宿しているようで……こんな男になってほしくなくて、私はあの子を何度も殴った。……憎く思ったことさえあった」
 みやびが聞いたこともないような大忠太の弱々しい声に、己の視界が滲んでいくのが分かった。襖横の壁に背を預けながら想う。
 松陽に出会うまで、同じようにずっと彷徨い傷付いていた少年を。
「けれどある晩、思い知ったのです。……晋助が責めているのは、私だけではなかった」
 そう。彼が責めていたのは、父親だけではない。
「眠りながら、ごめんごめんとみやびちゃんに何度も謝り、泣いていたんです。……殺してやりたかった。幼い我が子にそんな重責を背負わせた、人でなしを」
 零れ落ちた涙は、口を覆う震えた手を伝い、泣いていたという彼の寝巻へ染みていく。
 もういいじゃないかと、そんな思いがみやびの胸の内に込み上げた。
 もう十分苦しんだのだ。みやびも、晋助も大忠太も。
「吉田殿、お願いです。早く、晋助を私から遠ざけてやってください。……あの子を、救ってやってください」
 みやびは祈るような心持ちで、松陽の言葉を待った。
 大忠太が傷付き、疲れ切って、もうボロボロなのは明らかだった。かつてのみやびがそうであったように、その心には到底塞がらない傷跡がまだ何の手当てもされず剥き出しになっている。
 松陽はその口で何度も、みやびの心を救う言葉を紡いでくれた。
 救ってやってほしかった。その陽だまりのような言葉で、大忠太の心を。
「貴方は、もうずっと……死んでしまいたかったんですね」
 だが、みやびの祈りを裏切るように、松陽が告げた言葉は想像よりもずっと冷たく淡々としたものだった。
 その言葉に、大忠太からの返事はない。その無言が、みやびには肯定に思えた。
 どうして。
『……また、何度でもお前を見つけ出すよ。井上』
『父ちゃんのこと、生きて憶えててやれよ。大好きなんだろ?』
 大忠太も、あの頃のみやびと同じくらいボロボロなのに。
『君は松下村塾の井上みやび。私の、大切な教え子』
『なら、誰がなんと言おうとお前は井上みやびだ』
『武士道とは、弱き己を律し強き己に近づこうとする意志。自分なりの美意識に沿い精進する、その志を指すのです』
 どうして彼には誰も手を差し伸べない?
『生きろよ』
『もっと自分を大切にしてくれ。頼むから』
 どうして誰も彼に、生きろと言ってくれない?
『そんなみやびの目指す強き己が、志が、こんなくだらない殺人の先なんかにあるはずがねェ!! なあ、そうだろうみやびっ!!』
 誰が彼に、生きろと言ってあげられる?

 かけがえのない大切な人たちからもらった言葉の数々が、重なり束になって、強い力を帯びていく。
 その力は願いとなって、みやびの喉の奥で、口から飛び出すその瞬間を待つかのように大きなうねりを上げ始めた。
 松陽のように、人の心に温かな光を灯すような言い方はできない。
 銀時のように、短くとも強い力を持った言葉は言えない。
 桂のように、相手を心の底から信じて寄り添うような優しさも、持ってはいない。
 それでも、伝えなければと思った。
 高杉晋助がみやびへ惜しみなく与えてくれた、生きて、幸せになってほしいという願いを。

 右手を固く握り、左手で襖を勢いよく開ける。
 客間の一番端の襖からまっすぐ伸びた先の廊下に、彼らはいた。
 弾かれたように顔を上げた大忠太と目が合う。松陽はまるでみやびが現れるのを予見していたかのように、すでにこちらを振り返り微笑んでいた。
 その松陽の態度から、みやびはすべてを察する。
 廊下の床板を踏みしめながら、彼女は呆然と立ち尽くす大忠太の元へ、一歩一歩近づいた。
「……生きてください」
 立ち止まり、紡いだ言葉は震えていた。
 長身の大忠太を、目一杯顔を上げてしっかり見上げる。
「父の分まで……おじ様には、元気に、前を向いて生きてほしいんです」
 平蔵の最期を思い出していた。
 本当は、まだほんの少しだけ、みやびの中には大忠太への複雑な思いが残っている。
 どうしてあの夜、父を選んでくれなかったのか。そんな子供のような駄々をこねる自分を、みやびはどうしても無視できなかった。
「だってっ……だって父上は……っ、貴方のことが大好きだったから……!!」
 だが、そんな弱き己を抱えても、強くそう伝えたかった。
 流れ落ちる涙を拭うことはしない。今みやびは、自分が平蔵の分も泣いていると思った。
「おじ様がそうやって、死にたいほど辛い思いをずっと抱えて……自分のこと、人でなしだなんて思って生きていくなんて、そんなの絶対、父上は耐えられないからっ!!」
 呑み込み切れない嗚咽が喉を突いて出てくる。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、もう前がよく見えない視界で、それでもみやびは大忠太の方を仰ぎ続けた。
「父上の分も、幸せになって。父上の分もっ、家族を大事にしてっ。父上の分も、一生懸命働いて……。父上の分も、この町を、護って……! 父上の……父上……っ」
 大好きだった。
 だからこそきっと、その想いはみやびにしか伝えられない。
「私も頑張るからっ……頑張って、強く、優しくっ、生きるから……!!」

 指月山が見下ろす萩の町。その片隅の武家屋敷で、真夜中にいくつかの涙がこぼれた。
 少女の願いは屋敷中に響き渡り、涙はその足元を止めどなく濡らす。
 相対する男はいつしか膝を折り、彼女をそっと抱き寄せその小さな背を宥めるように叩きながら、やっと一筋の涙を流せた。
 そこから少し離れた廊下の陰では、一人の少年が膝を抱えて蹲っている。
 唇を血が出るほどに噛み締め嗚咽を堪える彼の頭には、やがて大きな手が乗せられた。
 いつの間にか彼の隣には、身を寄せ合うように彼の師が座っている。師は頭に乗せた手をそっと小さな肩へ滑らせ、自分の方へ抱き寄せた。
 二つの幼い啜り泣きは、もう少し夜明けが近づくまで続いた。


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