そして今日も
「まだ立ち上がりますか」
 髪を縛り、道着に着替えた松陽が木刀で空を薙ぐ。
 絶対的な強さでその場に君臨するその男に、桂はただ目を見開いて閉口し、みやびは口元を覆って向かい合う両者を交互に眺めるばかり。息巻いていた使用人たちは皆青い顔をして主人の身を案じていた。
 形ばかりの審判としてその試合を見届ける銀時だけが、平然とした顔で試合の行く末を見守っている。
 高杉家の一人息子は、全身に青痣を作り何度床に叩きつけられても立ち上がる父親を、戦う彼より険しい顔で見つめていた。
「そんなに、晋助を私の元へ預けたい理由は何です?」
 返答次第では再起不能にしてやるとばかりに、松陽は斬り込みざまにそう問いかける。彼の片腕での一撃を、片膝を床に付けたまま両手で何とか受け止めた大忠太が歯を食いしばった。
「……晋助が、それを望んでいるからだ」
 ギリッ、と。正座した太腿に幼い爪が袴越しに食い込む。
「馬鹿者が、本当は今すぐにでも貴方の手を取りたいくせに……つまらない気なんぞ回して、一度は捨てようと思ったこの家を、俺を、捨てあぐねているのには気付いていた」
 大忠太の雄たけびが轟く。松陽の木刀を渾身の力で何とか払うと、彼は上体を低く沈ませ松陽の死角に身を滑らせ、そこから鋭い突きを繰り出す。
 避けた松陽の髪が靡く。そこから繰り出される猛攻を、松陽は眉一つ動かさずに捌いていった。
「父親らしいことなど、何一つできなかったっ」
 松陽が戯れのように振り下ろした一太刀を、何とか打ち払う。
「今更なんだと言われるだろうが、それでも俺は……父親として、晋助が笑っていられる場所に、この手で送り出してやりたい」
 松陽の木刀を掴んだ右手が大きく後ろへ振られる。僅かに生じた上半身の隙を、大忠太は見逃さなかった。
「どうしようもない悪ガキだが、自慢の息子だ!! いいから黙って連れていけっ!!」
 晋助の表情から、不安、迷い、戸惑い、ありとあらゆる負の感情が一瞬抜け落ちる。
 年相応の、あどけない無垢な眼が父の会心の一撃を見届けた。
「……最初から、そう言っていれば良かったものを」
「!!」
 しかし、大忠太の全てを込めた一撃は、木刀の柄頭であえなく受け止められていた。
 途端、大忠太の体は道場の壁に叩きつけられる。みやびや若い女中の悲鳴が響く中、下男が駆け寄ろうとするのを鋭く制したのは銀時だった。
 まだ勝負は終わっていないと。
「そういえば、まだ三者面談をしていませんでしたね」
 腰を押さえながら咳き込む大忠太に、松陽は自身も座ってその顔を覗き込む。何を言っているんだと言わんばかりに顰められる眉を見てか、松陽は苦笑を零した。
「やれやれ。本当はこういったことは、それぞれのご家庭で話し合ってから、まとまった結論を教師のところへ持ってきていただきたいんですがね」
「……なんのことだ」
「でもまあ、それもいいでしょう。口下手な親子がいるなら、間に入るのも教師の役目なのかもしれません」
 そして、松陽は飛び切りの優しい笑顔を浮かべ、振り向いた。
「晋助、おいで。お父さんに話したいことがあるでしょう?」
 松陽の穏やかな灰色の瞳と、驚いたように見開かれる澄んだ深緑の眼、その視線が絡み合う。

 音も立てずにゆっくりと、高杉晋助は立ち上がった。
『……お前の声など、今は聞きたくない。出ていけ』
 あの日背を向けていた父が、まっすぐ晋助を見つめている。
『武士の恥とは……その二択を選ぶことができず、仲間を見捨て敵前逃亡し、醜く生きながらえること』
 あの日、己を武士の恥と吐き捨てた父に、一歩一歩、歩み寄る。
『……お前は、同輩や先達たちと足並みを揃えて生きろ。……それで良いんだ』
 はみ出しても、いいのか?
 それを確かめるために、晋助は松陽の微笑みを浴びながら、父の前にしっかりと折り目正しく座った。
「……弟子入りしたい人がいるんだ」
 紡いだ声は、震えていなかった。
「その人は、俺みたいなろくでなしを侍だと認めてくれた。……弱い己を律し、強い己に近付こうと戦う人間はみんな、護る主君や家なんて持たなくとも、立派な侍だと言ってくれた」
 握った拳に力は籠っていたが、もう爪は立てていなかった。
「俺は、松陽先生の元で……俺なりの武士道を見つけたい」
 そして顔を上げた先で彼は、今までにないくらい穏やかな表情をしている父を目の当たりにするのだった。
「……お前を、勘当扱いとする」
「!!」
 大忠太が静かに告げたその宣言に、晋助は僅かに息を呑む。
「家名だの立場だの、そんなつまらないものはもう気にしなくていい。……お前にとって、唯一無二の大切なものを護り通せ」
 そして、大忠太はほんの僅かに微笑んだ。
「俺も出会いたかったよ。お前くらいの頃に、松陽先生と」
 父と同じ、力強く生い茂る木々を思わせる色の眼が、大きく見開かれる。
 僅かに瞳が揺らぐ息子に優しい一瞥を送ったのち、大忠太は居住まいを正して松陽へ向き直った。
「息子を、どうかよろしくお願いします」
「……心得ました。謹んで、お預かりいたします」
 深々と頭を下げる大忠太に倣い、松陽も最敬礼を以てしてそれに応える。
 誰も何も言わなかったが、至る方向から複数のすすり泣く声は聞こえてきた。いつの間にか大号泣している使用人四人、そしてみやびと桂に、ひとり銀時だけが呆れ半分の笑いを浮かべている。
 やがて長い礼を経て顔を上げた大忠太は、そのまま息子から顔を背けそそくさと立ち上がった。
「そういうわけだ。松陽先生の元で立派な侍になるまで、うちの敷居は跨がせないからな」
「……上等だ。絶対に帰ってきてやらねーから覚悟しやがれ」
 そう答える晋助の口元は柔らかな弧を描いている。そんなこと言わないでください!! と両者に大ブーイングを浴びせる使用人たちに一睨み浴びせると、大忠太はそのまま足早に道場を後にした。
 使用人たちが我に返り、手当てをさせろとその後を追う。
 銀時の長く重いため息が響いたのと同時に、みやびと桂はほとんど同時に高杉へ飛びついた。
「な、なんなんだよテメェら!?」
「晋助ぐん゛ッッ!! 大好きだよおおお!!!」
「は、はァ!? 何言って……!?」
「だがずぎィィィ!!! 良かったな、ほん゛どう゛に、よかっだな゛ァァァ!!!」
「うわ、気持ち悪ッ! お前は離れろ桂!!」
「あーあ、これで晴れてボンボンも弟弟子かよ。言っとくけど俺兄弟子だから。今日からお前のことめっちゃこき使うから」
「あ? やれるもんならやってみろ天パ」
「黙れファザコン」
「ファザコンじゃねーよ!! つか離れろ桂!! 鼻水付いてんだよ!!」
「みやびは離れなくていいんですね」
「がっちり肩に手なんて回して、やーらし」
「おいテメェ、何なら親父たちに続いて二回戦行っていいんだぞこら」
「上等だボンボン、兄弟子が直々にしごいてやるよ」
「抜かせ!」
 その夜、高杉家では即席ながらも盛大に壮行会が催される運びとなった。
 女中たちが腕によりをかけて作ったたくさんのご馳走に、材料使い放題と聞いた銀時がほとんど自分のために作った特大ケーキが食卓に並ぶ。桂やみやび、松陽も手伝い用意した料理の数々に、使用人全員が加わったとしてもとても食べきれないと台所にいた全員を並べて説教する大忠太も、みやびが差し出したちらし寿司を一口含むと勢いが削がれたらしい。黙って出ていく大きな背中と入れ違いに台所へ入ってきたのは、得意げな顔をした悪童だった。
 先生! と元気よく響いた複数の声に、松陽の目が見開かれる。置いていくことになってしまった教え子たちが高杉の背後から飛び出す。一瞬だけ泣きそうな顔をした松陽が、満面の笑みを浮かべて彼らを抱きしめる様を、四人の弟子たちが優しい顔で見守っていた。
 壮行会は日が暮れる頃から始まり、夜が更けるまで続いた。
 突如始まった銀時と高杉の早食い勝負に松陽の拳骨が炸裂したり、銀時が一人の女子に呼び出され告白されるといったハプニングは間々起きたが、おおよそは松下村塾の門下生と高杉家の人間たちによる賑やかながらも穏やかな宴だった。そして縁もたけなわという頃、誰かが言い出した「最後に松陽先生の授業を受けたい」の言葉に、松陽が少しだけ彼らへ陽だまりのような言葉を贈り、楽しく幸福な時間はお開きとなった。
 生徒たちと、彼らを手分けして家へ送り届けるために出て行った松陽、大忠太、甚兵衛と若い下男を見送る中、泣き出してしまったみやびの涙を拭ったのは藍色のハンカチだった。
 拙い梅の刺繍が月明りに照らされる。
 これからもきっと幾度も、出会いと別れを繰り返す。けれどきっとこの少年はいつまでも、隣でこうやってぶっきらぼうに、泣き虫な自分の涙を拭ってくれるのだろう。そんな漠然とした予感が、みやびの寂しさに揺れる心をそっと慰めてくれた。


 そして、夜は明ける。
「で? どうだったよ。パパとの添い寝は」
 東の空が僅かに明らむ頃、松陽とその弟子たちは旅支度を整えて高杉家の門前に集まっていた。
 旅姿に身を包み欠伸を噛み殺しながら昨夜の様子を問う銀時を、同じく編み笠を被り行李を背負った高杉が睨みつける。
「するわけねーだろ。別の布団で寝たわ」
「あ、ずりィ。約束破りやがって」
「クソ親父と先生が勝手に始めた賭け試合だろうが、俺はハナから関係なかった」
 同じ部屋で寝ただけでも御の字だろうがとバツが悪そうに高杉は呟く。本来なら荷造りのどさくさに紛れていつも通り自分の部屋で寝る予定だった彼を無理やり父親の寝室へ押し込んだのは、松陽ではなく使用人たちの方だった。
「おじ様とお話できた?」
「……別に。アイツ即行で寝るし、俺もすぐ寝た」
 動きやすいようにと高杉に借りた袴に身を包むみやびがそう問いかけるも、彼はやはり不機嫌そうに答える。その様子に苦笑しながらもみやびは、きっと大忠太は夜な夜な起きて息子の布団を掛け直してやったのだろうなと思った。
「坊ちゃん。これから本格的に寒くなりますから、朝晩は薄着で出歩かないでくださいね。夜はちゃんと寝ること。朝ごはんは抜いちゃ駄目ですよ」
 頃合いを見計らって女中頭の夏が高杉に襟巻を巻いてやる。隣では若い女中が声を押し殺して泣いていた。
「分かってるよそんなこと、ガキじゃねェんだから。……おいユキ、いつまで泣いてんだテメェ」
「だ、だってええっ!! 坊ちゃん、手紙書いてくださいね! じゃないと寂しくて死んじゃいます!!」
「書けねーよ、俺一応表向きには勘当されるんだぞ」
「書いてやれば良いではないか。勘当された家に手紙を出してはいけないという法もあるまい」
 白い手ぬぐいに顔を埋め本格的に泣き始める女中を見かねて、高杉や銀時と同じような格好をした桂がそう口を出す。ややげんなりとした様子の高杉が軽くため息を吐くころ、開けっ放しになっていた玄関戸から若い下男が飛び出してきた。
「駄目ですお夏さん、旦那様仏間から出てこないです」
「あーもう、あの人は全く……」
 息子の見送りも出来ないほど甲斐性無しかと、報告を受け夏は額に手を当て項垂れる。
「もう一度ぶちのめしましょうか?」
「いや、マジで止めて」
 たっつけ袴に道中合羽を羽織った松陽がにこやかに申し出た提案を、その場にいた使用人全員が全力で拒否する。その様子を弟子全員が複雑な苦笑を浮かべながら静観していた。
「もういいよ、出発しようぜ。早く出ねェと二泊野宿することになるんだろ?」
 最初に痺れを切らしたのは高杉自身だった。くるりと踵を返し門を出ようとする彼に使用人一同が一斉に慌てだす。
「晋助くん待って! 私、ちょっと行って呼んで……」
「いいって言ってんだろ。……聞きたい言葉はもう聞けた。今更話すことももう無ェよ」
 それが鶴の一声となった。
 最後まで大忠太を来させようと頑張っていた甚兵衛を呼んで、使用人たちとの最後の別れを済ます。きっとまた帰ってきてくださいねと口を揃えて言う彼らに、高杉は肯定も否定もせず曖昧に笑ったままだった。
 手を振って見送ってくれる四人へ同じように手を振り返しながら、彼らは早朝の武家屋敷の通りを歩きだす。早々に前を向いて歩きだした高杉や銀時とは対照的に、みやびや桂はいつまでも後ろを気にしながら歩いていた。
 やがて、高杉邸の前に立つ人々が豆粒のような小ささになった頃。次の角を左に曲がればもう、完全に彼らが見えなくなるという十字路に差し掛かる。
 これで振り返るのは最後だ。みやびがどこか祈るような思いで振り向いた、その時だった。
 門前に一列に並ぶ四人を押し退け、飛び出してくる人影を見た。

「晋助くんっ!!」
 みやびの突然の叫び声に一行は立ち止まる。
 朝露に濡れた地面を踏みしめ、冷えた空気を押し退けて走ってくる足音が、確かに近づいてきているのが分かった。
「晋助!!」
 振り返れない頑固な息子に、息を切らした情けない父親が叫ぶ。
 振り返った銀時、桂、松陽の瞳に、すぐそこまで迫って立ち止まった男の姿が映った。
 先頭を歩いていた高杉の距離は、五人の中で一番彼と遠かった。

「達者で暮らせ……っ」
 それでもきっと、その震えた愛の言葉はしかと聞こえただろう。

 しばらく身動き一つ取らなかった高杉だが、やがてその手は顎に延び、編み笠の紐を外す。
 ゆっくり振り返った彼の口元が不敵な笑みを浮かべているのを、みやびは確かに見届けた。
「いつか必ずテメェを倒しに戻ってきてやるから、首洗って待ってな。クソ親父」

 朝焼けでキラキラと輝くその瞳に、大忠太が眩そうに、愛おしそうに眼を細めたのがみやびには分かった。
 そんな生意気な宣言だけ残してすぐにまた歩き出してしまう高杉を、桂が慌てて追いかける。ホント中二病だなアイツと呆れたように呟く銀時がその後を追い、松陽が大忠太に会釈して三人に続いた。
 四人が十字路を左に曲がってしまった後も、動けずにいたみやびに大忠太が近づく。
「みやびちゃん、ありがとう」
 弾かれたように顔を上げたみやびに、大忠太が微笑みかける。
「……あいつが、平蔵が必死に護ったものを、俺も逃げずに最後まで護ってみるよ。この町も、未来も、俺たちの武士道も」
「おじ様……」
「これからも晋助と仲良くしてやってくれ。……どうか、元気で」
 その時、早く来いとみやびを呼ぶ銀時の声が聞こえる。
 みやびはその場で深く一礼し、自分を呼ぶ声を追った。
 もう、振り返りはしなかった。
 みやびが角を曲がると、すぐそこで四人が待ってくれていた。下町に向かって緩やかな下り坂になっているそこからは、町の周りを囲む山の向こうから昇る朝日が一望できる。
 眩い光に包まれた大切な人たちに駆け寄る。何を話してたんだと訊いてくる桂にみやびが別れの挨拶を済ませたことを告げれば、お前ももうちょい話してこれば良かったのにと銀時が眠たそうな目を横を歩く少年に向けた。
「良かったんだよ、俺たちはあれで」
「どこがだよ中二病。……つか、さっきから何ニヤニヤしてんだ気持ち悪ィ」
 銀時の指摘に、みやびは隣を歩く彼を盗み見る。そして、彼が浮かべている表情に思わず目を奪われた。
 今まで、いろんな彼の表情を見てきたつもりだ。
 怒りや悲しみ、呆れ、様々な表情を浮かべてきたその顔に喜びが現れることも確かにあった。
 ただ、それらはどれも大人びた微笑みばかりで、喜びと同時に漠然とした寂しさも滲み出ているような気がしてならなかった。
 その彼が今、朝焼けに照らされて浮かべている笑顔は。
「良いんだよ。俺は勘当された、ろくでなし息子なんだからな」
 みやびにとっては、まるで彼自身が暁であるかのように、キラキラと屈託なく輝いて見えた。

 そして今日も、萩の町には陽が昇る。


prev next

bkm
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -