ただいま
「血中濃度良好、禁断症状も特になしと……」
 長州藩医学館。
 天人たちが持ち込んだ最新の医療器具が並ぶその研究施設の一角で、井上みやびは規律正しく正座しとある一点を祈るように凝視している。
 その視線の先では、艶やかな黒髪をかんざしでゆったりと結わえた女性が、白衣を肩にかけて何枚かの書類を眺めながらボールペンで自分のこめかみをトントンと叩いていた。
「まあ、及第点か」
 その女性、楠本ヨネの漏らした独り言のようなつぶやきに、みやびの幼い顔にじわじわと笑みが広がっていく。
 その目元にもう隈は無く、頬も以前のようにふっくらとした健康的な肉付きを取り戻していた。
「いいわ、ここは退院」
「やったっ……」
「喜ぶのはまだ早い」
 行儀よく膝の上に揃えていた手でガッツポーズをしようとするみやびに、楠本女医はピシャリと言い放つ。それを受けてあからさまに肩を落としていくみやびに、彼女は深いため息を吐きながらボールペンのノックカバーで頭を掻いた。
「あのね。何度も言うようだけど、アンタ二週間前まで十日以上毎日違法薬物投与されてた上に、最後の二日はあの飴玉型の加工品の七倍はある濃度の原液飲まされてたのよ? 急性の中毒症状で死ななかった自分の強運さに感謝こそすれ、ガッカリするとかありえないから」
 平蔵も草葉の陰で発狂してるわよ。と楠本は不満げな顔をして俯くみやびを厳しく咎める。平蔵の名を出されると、みやびも閉口せざるを得なかった。


 墓場での大捕り物から二週間。
 みやびはあの夜からずっと、この長州藩医学館で入院という名の軟禁生活を送っている。本来ならば医学館は医療研究施設であって入院施設は無いが、みやびの身の安全を確保するのと、みやびが薬の影響で周りの人間に危害を加える可能性があったことを考慮しての、特別な措置だった。
 秋が更けていく様子を医学館の格子窓越しに眺めながら、みやびは主治医の楠本や何度か見舞いに来てくれた松陽から、日を追うごとに少しずつ事の顛末を聞いていった。

 あの日みやびたちを取り囲んだ攘夷浪士総勢二十名の内、三名は死亡してしまったようだが残る十七名は全員逮捕することができた。その中にはみやびの叔父川瀬も含まれ、彼らはいまだ奉行所にて大忠太の部下たちによる厳しい取り調べを受けているらしい。
 みやびが発見した川瀬宛の家老からの手紙は、奉行所の人間たちが荷物を改めたときにはやはりすべて処分された後だった。浪士たちの中で攘夷派の家老たちとの繋がりについて証言するものもちらほらと出てきたようだが、物証が出ない限りは彼らを正攻法で失脚させるのは難しいとのことだ。
 ただ、あの死闘で得るものが全くなかったわけではない。
 十歳の少女が違法薬物によって洗脳され、攘夷浪士に利用された。この衝撃のニュースは事件翌日には萩の町中に駆け巡り、その報はこの長州藩の長、藩主毛利敬々の耳にも入ることとなった。
 目には目を。子供を薬漬けにして殺人に利用するような外道は、同じく外道の手段を使ってでも必ず罰せよ。事件三日後に萩城へ呼び出された大忠太は、藩主自らのその言葉とこの事件を捜査する全権を賜った。
 征夷大将軍、徳川定々に藩政へ干渉されないためにも、長州藩の家老衆のほとんどが攘夷派であることを表沙汰にすることはできない。しかしそのような藩主の命も出てしまった今、いつ大忠太や堀田派の人間に暗殺されるか分からないと、家老たちの中には屋敷から出ず自主謹慎する者も出てきたようだ。
 攘夷派の皮を被った保身と強欲の塊たちは、確実にその政治力を損ない始めている。
 おかげで私を逮捕するとかいう話もいつの間にか消えてくれたみたいで良かったですと、どこか他人事のように笑う松陽にみやびが釣られて笑いかけ、そして顔中の表情筋が凍り付いたのは記憶に新しい。
 そう、みやびが知らない間に起こっていたもう一つの戦い、吉田松陽の不当逮捕についてもとりあえずの決着は付いていた。
 松陽はその後数度奉行所に参考人として呼び出され取り調べを受けたが、結果役人への脅し行為に対して厳重注意されるだけに留まった。その背景には当然攘夷派家老の影響力の低下もあったが、何より本物の攘夷浪士十七名が捕まり役人たちが松陽に構っている暇がないというが大きい。
 あの夜の高杉親子の奮闘や松陽と弟子たちの奔走が、結果的にはみやびだけでなく松陽の身を助けることにも繋がったのだ。


「ったく、ホント大人しそうな顔してやってくれるわ。いい? 何度でも言うけど、今後勇気と無謀を履き違えたら私がアンタにトドメ差すわよ」
 ただ、みやびが振り絞った勇気に関してだけは、大人たちからこっぴどく大批判されていたのだが。
 楠本が最後に念のため血圧と心拍を測りながら、ブツブツとそんなことを呟いている。みやびはそれを顔を背けながら居心地悪く黙って聞いていた。

 川瀬がこの藩に何か良からぬことをしようとしているなら、暴かなければいけないと思った。
 事件から数日経った後に改めて大人たちに経緯を話した際、みやびは松陽から拳骨を食らい楠本からは二時間の説教を受けた。
 もちろん貰った拳骨は普段銀時へ振り下ろされているモノとは比べ物にならないくらい優しかったが、それでもみやびは痛くて思わず泣いた。
 頭ではなく心が痛かった。
 拳骨を振り下ろした後の松陽の眼差しが、みやびがどれだけ危険なことをしたのかを説明する楠本の口調が。
 そしてそれをそばで黙って聞いていた大忠太の表情が、これ以上なく辛そうだったのだ。
「良かったわね」
 楠本の一言でその時のことを思い出し浮かない顔をしていたみやびへ、楠本がそう告げる。
 みやびがふと視線を上げると、彼女はすでにみやびの腕から血圧計を回収し、部屋にあった座卓に書類を乗せて何かを書き込んでいた。
「殴ってくれて、あんなふうに叱って、心配してくれる先生がいて」
 トントンと楠本の強い筆圧が生み出す音が、みやびの病室に響く。
「……私、父上にも母上にも、叩かれたことがなかったので……少し、びっくりしました」
「そりゃあ、大層な良い子だったのね」
 みやびの胸を占める消化しきれない戸惑いを、楠本は一瞥もくれずにバッサリ切り捨てた。
「アンタがしたことを肯定する気は少しもないけど、アンタが悪い子になってでも護りたいものがあったってことは……私たち、分かってるつもりよ」
 そう告げる楠本の目元は、俯いて書き物をしている所為で前髪が掛かっていてよく見えなかった。
 平蔵が生きていたら、同じようにみやびを殴っただろうか。
 そんなことを考えて、みやびは少しだけ一人微笑む。その決して大きくはない体を震わせて拳を振るう父の目は、きっと今にも泣きそうなのだろうなと想像できてしまったのだ。
「じゃなきゃ、あの毒林檎の呪いは解けないしね」
 すると、顔を上げた楠本が書類の束を机の上で揃えながら、そんなことを言う。
 その言葉にみやびの好奇心が反応した。
「毒林檎って、苹果汪のことですか?」
 ボールペンの先を仕舞い羽織の胸ポケットにしまう彼女へ、みやびはその知識欲で輝く瞳を向ける。
 対する楠本はそのみやびの様子に気付くと、少しだけ意地悪そうな笑みを浮かべた。
「……ええ、そうよ」
「あの、呪いは解けないってどういうことです?」
「ねえ、アンタあの墓地で晋坊の声を聞いて正気に戻ったの、どうしてだと思う?」
 みやびの問いかけに魔女は質問で返してくる。どうしても何も、みやびに思い当たる理由は一つしかなかった。
「自分で苹果汪を食べて、自分で自分に暗示を掛けたから?」
「……何度も言ったけど、それはただの焼け石に水。全く効果が無いとは言わないけど、むしろ自分で体の中に毒素溜めただけでほとんどデメリットしかない行為だからね。物覚えの悪い子は嫌いよ」
 楠本はみやびの回答にあからさまに不機嫌になりながら、行儀悪く足を崩し座卓に頬杖を付きそう言い放つ。
 そう、楠本にこっぴどく説教されたのは、何も大人に頼らず自力で川瀬の身元を暴こうとしたその行動だけではなかった。
 医師という観点からもっとも叱られたのは、怪しいと分かっていながらみやびが自ら苹果汪を口にした点だ。彼女曰くみやびのその行動に殆ど意味はなかったとのこと。
 なら自分はどうして、あの時霞んだ意識の中で高杉の自分を呼ぶ声が聞こえたのかと、みやびが小首を傾げたその時だ。
「白雪姫って知ってる? ドイツの民話の」
「え? はい、知ってますけど……」
 すると、楠本は何やらニヤニヤと楽しげに含み笑いを浮かべてそんなことを問いかけてくる。みやびは戸惑いながらもそれに答えた。
 いつだったか、天人たちが江戸に降り立ち外国との交流も盛んになった頃、急に入ってきた外国の民話や説話などを知ってみやびは一時期それらを読み漁ったことがある。
 白雪姫はそのとき読んだグリム童話の一編だったはずだ。
「たしか、お姫様が森に追放されて小人たちと暮らすっていう……」
「あのお話のラスト、憶えてる?」
 目を細めて口元に緩い弧を描きながらそう問いかけてくる女に、みやびはますます疑問を募らせながら記憶を辿った。
「確か……魔女に毒林檎を食べさせられた白雪姫が、王子様のキスで目を覚ます、だったかな……」
 みやびは少し恥ずかしがりながらも、それを悟られまいと努めて冷静にそう告げる。
 外国の民話は王子様のキスだとか真実の愛だとかでお姫様が目を覚ましたり呪いが解ける話が多すぎて、当時みやびは妙に恥ずかしくて父に隠れてそれを読んでいた。
 ただ、もう少し成長してから源氏物語を読んだ際は、日本も負けていないなと思ったのだが。
「そう。……毒林檎の呪いは、キスと真実の愛で解けるのよ」
 努めて冷静、しかしその羞恥心がほとんど隠せていないみやびに、魔女は意地悪くそう追い打ちをかけた。
 みやびが、楠本の心底楽しそうな顔を見て数度瞬きをする。
 キスなんてしたことがない。確信を持ってそう怪訝そうな顔をするみやびだったが、数秒後、その表情は一変した。
『晋助くんっ、お願い!! 目を覚ましてっ!!』
 生気が微塵も感じられなかった憧れの人の唇を覆い、息を吹き込んだあの日の出来事に思い当たったのだ。
「現在、苹果汪の洗脳作用を解く科学的な治療法はまだ確立されていない。ただ、報告には何件か上がってるのよ。恋人からの口付けで目を覚ましたとか、伴侶との営みで正気に戻ったとか」
「……」
「ついたあだ名がポイズンアップル、毒林檎ってね。おそらくそれによって脳内で分泌されるいずれかのホルモンが上手く作用してくれてるんだろうけど、それはまだ研究段階」
「わっ、私!! キスはしてません!! あれは医療行為ですっ!!」
 思わず大声で叫んだみやびの顔は、既に茹蛸のように真っ赤だった。
 そのみやびの反応に楠本は声を上げて笑い出す。笑うなとみやびは頭を抱え叫びだしたくなった。
「ごめんごめん、それは分かってる。実際人が死にかけてるときに人工呼吸してセロトニンやドーパミンが出るはずないし」
「当たり前です! あの時私、ホントに必死で……」
「そう、その想い」
 笑い声を収めた楠本が、そう言ってみやびの胸の中心に人差し指を当てる。
「要するに、毒林檎は人の愛情や真心で解毒ができるんじゃないかってこと」
 天人の叡智を余すことなくその脳に叩きこんできたはずのその女は、真顔でそんな少女のようなことを言い出す。
 みやびはその発言に、無意識に眉を顰めた。
「そんな、非科学的な……」
「あら、そうでもないわよ」
 そう言って、楠本はおもむろに立ち上がる。
「天人の知識や技術が入り込んできて、この地球に住まうヒト科の医学はぐちゃぐちゃになってしまった。今までの常識が根底からひっくり返されることもあるし、今までは無かった難病にかかる者も出てきた」
 格子窓から差し込む午前の柔らかな日差しを浴びながら、楠本はみやびに背を向ける。
 みやびはその女医の華奢な背中を、挑むような目で見つめていた。
「それでも変わらない医学の真実があるとするなら……我々の体は、無限の可能性を秘めてるってことよ」
 だからこそ、医学は面白い。
 魔女は振り返り、不敵な笑みを浮かべる。井上平蔵の娘は、畳に坐したまま無言で彼女を見据えていた。


 楠本と並んで歩く二週間ぶりの萩の町は、紅葉の見頃を迎えどの木々も赤や黄色にと鮮やかに色づいている。
 道行くどこかの屋敷の女中や武家の奥様方は、みやびの顔を見て相変わらず何か小声で囁いていたが、彼女がそれらを気にすることはもう無かった。
 医学館を出て、子供の足でおよそ十分。
 松陽と銀時が現在身を寄せている高杉邸の門が視界に入る頃には、その敷地から元気な少年たちの声が否応なしに聞こえてくる。
 開け放たれている門扉をくぐれば、声の主たちはすぐに見つかった。
「いい眺めだな。バカが空を飛んでる」
「ふざけんなコラァ!! それおめーが言われる予定だった台詞!! 何が原作の言動を意図的に改変してますだ、変に帳尻合わせようとしてんじゃねーっ!!」
「松陽先生の言いつけを守らん貴様が悪いんだろうが」
 高杉家の一等高い木の枝に、縄で釣り上げられた白いふわふわが目に入る。
 また何をやったのだろうと、みやびは声を掛ける前に少しだけ笑ってしまった。
「んあ?」
 そして、彼の澄んだ赤銅色の瞳と目があった。
 坂田銀時は一瞬だけ毒気の抜かれた表情をするが、すぐにいつもの生意気そうな笑みを浮かべた。
「まあ、いい眺めではあるな。元気ながり勉ドブスが見下ろせる」
 どこか得意げな、しかし嬉しさの滲み出るその一言に、高杉と桂が弾かれたようにみやびの方へ振り返る。
 その時にはもう、みやびは二人の方へ走り出していた。
「みやびっ……!」
 高杉が彼女の名を呼んだのと同時に、みやびは高杉と桂の間に飛び込み、その背に思いっきり腕を回した。
 ああ、やっと帰ってこれた。
 毒林檎の呪いが解けたみやびは、ようやく心の底からそう思えたのだ。
「ただいまっ!!」
 突然の抱擁に固まっていた二人へ、彼女は弾む声でそう告げた。
 幼い二対の眼が、みやびの肩越しに目を合わせる。やがて、どちらともなく破顔し、彼らは三人で額を寄せあった。
「ああ、お帰り。井上!」
「ったく、遅ェんだよ。バカみやび」
 桂の手がみやびの肩を強く抱き寄せ、高杉の指先が優しくみやびの頭を撫でる。
 いろんなことがあった。
 平蔵が殺された夜のことを、みやびはきっと忘れられはしないだろう。彼らと共に彷徨ったあの絶望の暗闇を、転んでしまった自分の足を、これからも恐れ、恨み、夢に見る。
 それでも。
 みやびは、自分で選んでそこに戻ってきた。
 あの夜、一組の親子を生かそうと必死に走ってくれた大切な友人の元へ、彼女は自分の意志で戻ってきたのだ。
 父の後を追い自ら命を絶つ道や、叔父の甘言に身を任せ復讐に身を落とす道を否定して。
 井上みやびはその自分の選択を、そして自分を信じて待ってくれていた友を、誇りに思った。

「で? 銀ちゃんはなんで吊るされてるの?」
「俺のゲームやりすぎて先生がキレた」
「ゲームは一日一時間と約束したではないか銀時」
「うっせーっ!! 人が宙づりにされてる真下で生温い青春ごっこしやがって!! 犯人はコヤ〇!!」
「〇ヤスじゃなくてヤスだクソ天パ!! 中の人ネタは止めろ敏感なんだよその辺は!!」
「ポートポア連続殺人事件は先生が責任を持ってゲオに売りに行くと言っていたぞー」
「えっ、ちょっと待ってそれ俺のゲーム……」
「ねえ銀ちゃんあんまり足バタバタさせないでよ、ふんどし見えてる」
「ハァァァ!??? 何見てんだよ見物料取るぞクソアマ!?」
「誰がテメェの汚ェふんどしなんて金払って見たがるよ。行こうぜみやび、あんなヤツほっとけ」
「高杉、お前はまたそうやって隙あらば井上とイチャつこうとして。久々の再会に二人きりでにゃんにゃんなんて、お母さん許しませんよ!」
「誰がお母さんだ!? いい加減その気持ち悪い妄想止めろっつってんだろうが!?」
「ハッ! ウサギ柄パンツのガキに反応すんのかテメー、すげェな」
「……ん?」
「は?」
「……銀ちゃん?」
「おめーが川に落ちそうになったあの日、投げ飛ばす時にバッチリ」
 帰ってきた。
 そしてきっとまた、ここから始まるのだ。
「オイィィィィ!? こいつ今石投げたよ!? 宙吊りにされてる幼気な子供に石投げたぞこの女!?」
「降りてきなさいよ坂田銀時」
「フルネーム!? つか降りれるわけねーだろ、パンツごときで何ムキになってんだ!?」
「人前で柄まで言うことないじゃない!! ほんっと最低!! 黄ばみだらけの白ふん坂田!!」
「おい捏造止めろ!! 俺の白ふんは松陽が毎日綺麗に洗って……」

「君たちは、こんな往来に面した塀の近くで、何を大声で下品なことを言い合ってるのかな?」

 師の拳骨が炸裂する音が、萩の高い秋の空へ抜けていく。
 変わらないものがあった。けれど、変わってよかったこともある。
 高杉邸の地面に仰向けで転がり額を押さえ、みやびは痛みで顔を引きつらせながらも満足げに、新たに得た大切な人たちを見上げるのだった。


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