遡ること一日と少し。
みやびは赤い夕陽が照らす萩の町を、独り駆けていた。
「っは、はぁ……はっ……」
すっかり体力の落ちてしまった体を叱咤し、彼女は町はずれにある神社の石段を上る。その三十段を上り切るころにはすっかり息も切れ、足がガクガクと震えていた。頂上へ倒れ込むように到達し、そのまま彼女は石畳の上に仰向けで転がった。
真下から見上げる鳥居が、赤と青の混ざった空に縁どられている。どこからともなく聞こえる烏の声に耳を傾けながら、みやびは目を閉じて荒い息と煩い心音を宥めることに集中した。
やがてそれが少し落ち着いた頃、みやびは仰向けに転がったまま、懐から二粒の飴玉を取り出した。
『みやびは、お父さんを殺した人間が憎くないの?』
『誰ですか。貴方に、邪な考えを植え込んだ不届き者は』
どうして今までそう考えられなかったのかと不思議に思うくらい、今なら松陽の問いかけに確かな答えを示すことができた。
高杉の首を絞めようとした時も、堀田の首を絞めて川に突き落とそうとした時も、そのきっかけとなる多大な憎しみや怒りをみやびに植え付けたのは、まごうことなき己の叔父を名乗るあの人物だった。
川瀬与市。あの男が毎夜みやびを食事へ誘い出しては、その帰り道に耳元で囁いたのだ。
父を殺した者たちを許すなと。
みやびはそっと上体を起こし、神社からより一層美しく見える夕焼けを眺める。そして手元にある二粒の飴玉のうち、一つを包み紙から取り出した。
薄く黄色に色づくそれを、赤い夕焼けに翳す。橙の淡い光がみやびの口を怪しく誘っていた。
思えば川瀬はいつだって、みやびに呪いのような言葉を囁くときはその甘ったるい林檎の飴玉を与えてきた。
みやびの脳裏に過るのは、川瀬のものである風呂敷の中に大量に押し込められた飴玉と、一緒に挟まれてた妙な化学構造式。
今夜も自分は、この飴を舐めさせられながらあのおぞましい言葉を聞かされ続けないといけないのか。
いっそこのままどこかへ隠れてしまおうかとも思ったが、そうすればきっと真相は闇の中だろう。
川瀬が何者で、何の目的があってみやびに復讐心など植え付けたのか。その理由はきっと分からず仕舞いだ。
「……」
毒を食らわば皿まで。
みやびはそんな言葉を心の中で唱えながら、まずは手にしていたその飴玉を一粒、口に含んだ。
口の中いっぱいに広がる林檎の風味が、今では己を蝕む毒のように感じる。しかし、みやびはここで逃げるわけにはいかなかった。
「私は、この町が大好き」
己の鼓膜を震わせるように、飴を含んだ口が舌足らずながらもしっかりと、そんな言葉を紡ぐ。
「父上や母上と一緒に暮らした、萩の町が大好き」
甘ったるい毒が彼女の舌に絡みつき、ゆっくりと咽頭を下っていく。
「晋助くんや桂くん、銀ちゃん、松陽先生、松下村塾のみんなと出会えたこの町が、大好き」
確かな自分自身の望みを、祈りを、みやびは毒に混ぜ込んでいく。
「武士道とは、弱き己を律し、強き己に近付こうとする意志。自分なりの美意識に沿い、精進するその志のこと」
沈みゆく太陽を眺めながら、みやびはあの日の、朝焼けのように眩しかった松陽を思い描いた。
「私の武士道は、まだ分からないけれど。私は、強く在りたい。復讐したいと思う心にも、死にたいと思う心にも負けないくらい、強く優しく、これからを生きていきたい」
そして、想像するのだ。
高杉や桂と共にあの松下村塾の小さく古びた門を潜り、銀時や松陽におはようと挨拶する自分を。
桂と競うように手を上げて授業で発言し、居眠りをして松陽から拳骨を食らう銀時が可笑しくて笑って、それから。
松陽の言葉を静かに聞く高杉の横顔を、そっと盗み見て胸を高鳴らせる。そんな日々を。
「だから、戦う。私の大事なものを、今度こそ守るために」
彼らを傷付けようとする者を、父の意思をねじ曲げようとする者を、野放しにしておくわけにはいかない。
みやびは強い決意を胸に、もう一粒も口に含んだ。
「おい川瀬、どういうことだっ!? 話が違うではないか!?」
刀を構えた浪人たちが口々に声を荒げる。優男の面影もなく醜く顔を歪ませる川瀬の表情は般若そのもので、母に似ていると一時でも思ってしまったことをみやびは心の底から恥じた。
「どうしてっ……昨日と今日、苹果汪の原液を飲ませたはず……!!」
「へいかおう。それがあの薬の名前ですか」
みやびは川瀬から買い与えられた縮緬の帯揚げを解くと、それを大忠太の傷口に巻き付けて固定した。
「おじ様。あの男は、攘夷派の家老衆と繋がっています」
そしてさらに傷口よりも上部の腕部に、素早く己の帯締めを強く縛り上げながら、彼女は大忠太を見据え小声でそう告げた。
近くにいた高杉親子の目が見開かれる。帯枕が剥き出しになり、太鼓が解けてだらんと帯が垂れた不格好な姿になりながらも、みやびは少しも気にすることなく川瀬を睨みつける。
「川瀬の鞄から手紙を見つけました。家老の一人からの指示書で……私を使って、おじ様を始末させろと」
「!?」
「なんだと……?」
息子が息を呑み、父親は驚愕の表情でそう聞き返してくる。みやびは川瀬から視線を外すことは無かったが、ゆっくりと後退を始めた。
この先のこの場で、自分が前に出ていいことは何もないと察したからだった。
「私に手を下させて、父親の敵討ちに見せかけたかったようです。……ごめんなさい。本当はこうなる前におじ様のところへ行きたかったのですが、手紙を見つけたところで捕まってしまって……手紙も取り上げられてしまいました」
「おい、なんだ!! 何を話しているっ!?」
小声で何かを耳打ちするみやびに業を煮やした川瀬が、半狂乱になって叫んでいた。
大忠太はその男を静かに見据えると、血まみれの右手で落としていた愛刀を拾い上げ立ち上がる。
「晋助。みやびちゃんを連れて逃げろ」
「!! 馬鹿言ってんじゃねェぞ、手負いのくせに何抜かしてやがる!」
みやびをその背に庇いながら、彼もまた真夜中の冷たい空気を薙ぐように木刀を構えた。
「お前がいても足手まといだ」
「……」
「心配は無用だ。……俺はもう、何者にも殺されるわけにはいかなくなった」
息子をその背に庇いながら、大忠太は切っ先に付いた鮮血を払い落とす。
人の命を奪う武器が、満月の輝きを受けて美しく銀色の光を帯びる。
「やっと見つけた、あの卑怯者どもを高みの見物台から引きずり落とす糸口だ。……他の誰にも、譲る気は無い」
言い終えるや否や、大忠太は十人を超える浪人の群れへ単身突っ込んだ。
「ひ、怯むなァ!! 相手は一人の怪我人だっ、やれェェェ!!!」
川瀬が叫んだのと同時に、血しぶきが舞い、誰かの腕が大忠太によって飛ばされる。悲鳴、怒声、咆哮が飛び交う夜の墓場は一瞬で戦場と化した。
「晋助くん……」
木刀を構えたままその場から動かない高杉に、みやびは恐る恐る声を掛ける。逃げようと手を引くことも、行ってこいと背を押すこともできず、みやびはただ彼の迷う背中を眺めるしかなかった。
その時だった。
「よォ、おっさん。その喧嘩、俺も混ぜてくれよ」
響いたのは、墓石が倒れた衝撃音と、浪士が二人巻き込まれ圧し潰された悲鳴。
そして、少年特有の澄んだ声音だった。
闇から飛び出したその小さな影は、満月を背に、静かに墓石の上へ降り立つ。
「!?」
「ぎっ……」
木刀を肩に担ぎ、月夜の中でその鈍く光る白銀の髪を靡かせて、その少年は不敵に笑っていた。
「誰だ、小童!?」
見上げた浪人の一人がそう叫ぶ。
少年、坂田銀時は木刀をその男の脳天に向けて投げ飛ばすと、腰に差したその真剣を抜いた。
「そこで泣きべそかいてる、ガキ二人の兄弟子だ」
「このくそガキっ!!」
木刀をまともに食らって気絶した男の隣にいた浪士が、刀を構えて叫ぶ。それを墓石の上から悠然と見下ろしながら、赤い襟巻を風に躍らせ銀時はいつも通り鼻をほじっていた。
「ったく、馬鹿な弟弟子がパパとガールフレンドのピンチって血相変えて走ってくもんだから、追いかけるのが大変だったぜ。つかこの町の墓地広くね? マジ夜の墓場でバカ見失って迷って泣きそうだったんだけど」
「何を訳の分からないことを言っているっ! そこから降りてこい小僧、叩き切って……」
「ええ、全くもってその通り」
その戦場には、おおよそ似合わない穏やかな声音が響く。
次の瞬間、銀時が乗っていた墓石が凄まじい衝撃音を立て木っ端微塵に砕け散っていた。
「銀時ー? お墓の上なんかに乗ったら罰当たりでしょう?」
「おめーにだけは言われたくねェよ!?」
間一髪で墓石の上から飛び上がった銀時が白目を剥き出しながらそう怒鳴る。
パラパラと細かな粉塵が舞う砕け散った墓石と、おそらくそれが投擲物であろうのびた浪士の向こうで、その男は笑っていた。
その場にいた浪士どころか、高杉親子やみやびまでもがその人間離れした所業に顔を引きつらせる。
それを知ってか知らずか、彼はその笑みを顔に張り付けたまま銀時の木刀を拾い上げた。
「さーて、私の可愛い弟子を苛め抜いてくれた悪い大人はどこのどいつですか?」
刹那、振り被った男の手から木刀は消えていた。
銃弾でも撃ち込まれたかのような激しい炸裂音が木霊する。見ると、その木刀は立ち尽くす川瀬の頬を鋭く掠め、その背後にある墓石に突き刺さっているではないか。
「こう見えてかなり怒っていますので、死ぬなんて楽な選択肢が選べるとは思わないでくださいね」
その場の空気を完全に浚った男、吉田松陽は微笑みをその口元に湛えながら、抜刀もせずに両手の関節をボキボキと鳴らす。そのあまりに危険なアンバランスさに、浪士たちはこぞって狼狽え後ずさった。
「お、おい……あの男、なんかヤベェぞ……!」
「大忠太と娘だけ始末してずらかるぞ!! アイツは無視だ、無視!!」
「ほう……?」
松陽は無視しろと告げた男が、背中から血飛沫を出してうつ伏せに倒れ込む。
こめかみに青筋を浮かばせた大忠太が、浪士どもを猛獣のような凶暴な眼で睨みつけていた。
「面白い。この高杉大忠太の命、そう易々と獲れるものなら獲ってみろ……!!」
「ひっ!?」
先ほどまで殺気はあれど満身創痍だったはずの男が、何の箍が外れたのかどこか意気揚々とした様子で再び刀を振り回し始める。
ほとんど動かない左手を庇いながら、右手のみで握り締めた刃で浪士の命を刈り取る様は、まさしく鬼神のような戦いぶりだった。
「駄目だっ、退けっ!! 退けェェ!!」
「逃げろォ!!」
とうとう浪士たちは蜘蛛の子を散らしたように墓石の間を通り抜けてバラバラに逃げ出した。銀時がそれを追いかけようと走り出すのを松陽が止める。
「おのれっ、よくも大忠太先生をっ!!」
その時、墓地のあちこちから聞こえてきた無数の声に、大忠太が目を見開いたのが分かった。
「よかった、間に合った!」
「桂くんっ?」
すると、みやびと高杉の背後に見知った影が飛び出してくる。
高く結った黒髪を揺らして駆けてきた、木刀を手に持った桂にみやびは驚きの声を上げる。
「高杉家の方々が、大忠太殿のお弟子さんを急いで集めてくださったんだ。……大丈夫。ここはもう完全に、彼らに包囲されている」
方々から聞こえるのは、激しい剣戟の音と怒声にも悲鳴にも聞こえる人の叫び声。
そこでようやく、みやびは己が完全に助かったことを理解した。
「井上っ!?」
突如笑い出した膝に、みやびはそのまま地面へ崩れ落ちてしまう。桂が慌てて駆け寄ってくる。心配させまいと立ち上がろうとするが、もう完全に腰が抜けているようだった。
「ご、ごめん……なんか、ホッとしたら腰が抜けちゃったみたいで……」
みやびが苦笑を浮かべながら周りを見渡す。遠くで何かを言い合っている松陽と銀時。起きる様子のない大忠太たちが仕留めた浪士たち。いつの間にか駆けつけていたらしい医師たちに手当てを受ける大忠太を眺めながら、みやびは桂へそう告げる。
「帰ろう、井上。……ほら高杉、何をやってる。お前も肩貸せ」
桂がみやびの腕を肩に回して彼女を支えようとした、その時だった。
みやびは、高杉がその終息に向かっている戦場の中で、どこか一点を凝視していることに気が付く。
刹那、嫌な予感が彼女の胸を駆け巡った。
慌ててその視線の先を追うと、そこにそれは居た。
小娘が。
そう、唇が動いたのを、みやびは確かに目撃する。
墓石の影で項垂れ、すっかり戦意喪失したように見えていた川瀬が、ふらりと立ち上がる。
その足元に捨ててあった、みやびが投げた短刀を携えて。
「死ねェェェェェェ!!!!!」
「!!」
その場にいた全員の視線が、その狂気に満ちた怒声の主へ向けられる。
鋭い切っ先をまっすぐ前へ向けながら、川瀬は走り出した。
みやびに向かって、一直線に。
「井上っ……」
みやびはとっさに、己を支えていた桂を突き飛ばす。
怖かった。逃げ出したかった。それなのに足は動いてくれない。
もう目の前まで迫っていた殺意の塊に、それでもみやびは目を背けることだけはしなかった。
最後まで、睨んでいたかったのだ。
その時だった。
全身に突き刺さる殺気からみやびを庇うように、小さな背中が眼前に躍り出たのだ。
「これ以上……」
竹刀だこだらけの、誰よりも頑張り屋な手が、強く木刀を握り締めたのを見た。
「その薄汚ェ手で」
己の父の鮮血が染みついた凶器が振り下ろされるよりも早く、少年は夜の空気を切り裂く。
「みやびに触るんじゃねェ!!」
一閃。
男の体が、月夜を軽々と舞う。
重たい音を立てて地面へ落下し、泡を吹いたまま起き上がる気配もない男を前に、高杉晋助は静かに立ち尽くしていた。
誰も何も言わなかった。木刀を構えた手を下ろしこちらに背を向けた少年が、静かに夜空を仰ぎ、息を深く吸い込む音が聞こえた。