武士道
 翌日。大忠太がいつも通りに仕事を終えて帰宅すると、予想通り晋助は帰宅していなかった。
 夜の八時を過ぎた頃、甚兵衛が使用人総出で探しに行きたいと申し出てきたが、彼はそれを許可しなかった。
 居場所ならおおよその検討はつく。書斎で筆を執りながら、大忠太は時折時計を眺め、これでよかったんだと己に言い聞かせた。
 彼の文机の上には今、とある浪人の不当逮捕を藩主に訴える意見書が広がっている。人々の噂話と憶測に扇動された証拠不十分な逮捕であり、今一度本人や生徒たちへ充分な事実確認をする必要がある、と大忠太は力強い文字で切々と書き記していた。
 そしてその際は、自身も含めた監察方の上層部複数人により、公平を期した取り調べをさせてほしいと。
 その意見書を使う可能性は、おそらく五分五分だろうと踏みながら。
 晋助がこの家を出奔し、もう帰ってこない気でいるなら、自分にそれを引き留める資格は無いと思った。
 あの男の救出に成功したなら、そのまま師と弟子たちで安寧の地を求め旅立つのもいいだろう。悪夢ばかりが繰り広げられた、この鳥かごのような町に息子を一生縛り付けておくには、大忠太自身もうほとほと疲れ切っていた。
 幸せになってほしい。
 突き詰めれば、大忠太が晋助に願う全ての事柄は、それに通じていたのだ。
 あの男をそれほどまでに慕っているのならば、あの男の近くでなら笑えるというのならば。
 きっと、この親子の縁はこれから先邪魔になるばかりだ。
 大忠太は意見書の最後の一文を書き終えると、ゆっくりそれを折りたたんだ。
 その時だった。

「旦那様、よろしいですか」
 廊下から甚兵衛の声が掛かる。「何だ」とそこから要件を伝えるよう促すと、彼は少し焦ったような早口でこう告げた。
「お客様がお見えです」
「客? ……何時だと思っている、もう十時だぞ。一体誰だ」
 大忠太が部屋の壁に掛けられた振り子時計を確認する。それが、と言いにくそうに甚兵衛は言葉を続けた。
「みやびお嬢さんです、井上先生のところの」
 大忠太は一瞬、息をするのを忘れた。
 その夜更けの来訪者に、どんな顔をして会えばいいのか分からなかったからだ。
「……晋助に会いに来たのではないのか?」
 甚兵衛が外に控えている襖へと歩みより、乱雑に開ける。苦し紛れに出たのはそんな問いかけだった。
「いいえ、旦那様にと。……それから、男が一人一緒で」
「男?」
「ええ、見覚えがないのですが……みやびお嬢さんのご親類の方だとかで」
 甚兵衛のその申し出に大忠太は眉を顰める。
「……客間に通せ。すぐに行く」
「かしこまりました」
 襖を閉じると、内着にしている質素な紬の着流しの上に簡単に羽織だけ羽織る。大忠太の頭の中では、最後に見たみやびの絶望に染まった表情と、息子が夢の中で彼女に泣いて謝る光景が交互に去来していた。
 客間に顔を出すと、上座で小さな体がこちらに首を垂れていた。
「みやびちゃん……よく、来たね」
「ご無沙汰しております、高杉のおじ様」
 そう言ってゆっくりと顔を上げた彼女を見て、大忠太は下座に座る途中ながらその場に凍り付いた。
 親友の娘は、別人のような姿になり果てていた。
 痩せ窪んだ頬、目の下に刻まれた深い隈、血色の悪い肌。
 身を包んでいる上等な着物に違和感を覚えるほどやつれていた彼女だが、一番の変わりようはその目だった。
 荒んでいた。大忠太はその瞳が映す影に嫌な既視感すら覚える。
 彼が斬って捕まえた攘夷浪士に似た闇を宿している、そんな気すらした。
「……それで、そちらは?」
 元気だったかと、尋ねることはとてもではないができなかった。逃げるように視線を床の間の前で微笑みを絶やさない男へ向ける。
 内心ではみやびを預かった堀田家に対して腸が煮えくり返っていたが、それを何とか隠してそう問いかけた。
 それからは、ほとんど男が喋りっぱなしだった。
 男は川瀬与市と名乗り、身分やみやびとの関係性を順を追って説明した。そして川瀬は大忠太に、明朝にはみやびと共に萩を発つと告げる。
 大忠太は心の底から驚いたが、川瀬に話を振られて頷くみやびを見ながら、萩から離れられるのはむしろこの子の救いなのかもしれないと察した。
「そうか、わざわざ挨拶に来てくれてありがとう。……だが、済まないね。今晋助は家を空けているんだ。会わせてやりたかったんだが……」
「しんすけ、くん……」
 大忠太がそう話を振ると、みやびは虚ろな目で宙を見上げながらその名を口にする。
 すると、僅かにその闇が深い瞳に光が宿ったように見えた。
「晋助くん、晋助くん……っ、に、あいた……」
「みやび」
 みやびが晋助の名を呼んだ後に何かを言いかける。だがそれを阻止するように川瀬がみやびを呼んだ。
 その様子に大忠太は少し川瀬を睨む。
「大忠太さんに、何かお願い事があったんじゃないのかい?」
 まるで脳に直接吹き込むかのように、彼女の耳元でねっとりとした口調でそう告げる川瀬に、大忠太はますます眉間の皺を深くした。
 確証はなかったが、それらの行動が妙に怪しく思えたのだ。
「……高杉のおじ様。私と一緒にお墓参りに行っていただけませんか?」
 次にみやびが言葉を紡いだ時にはもう、その目から宿った光は消えていた。


 その後、大忠太は提灯を一つ持ち出し、みやびや川瀬を先導して墓地に向かった。
 明日の朝、日が昇ってからにしないかと何度も提案した。しかしみやびは首を縦に振らず、川瀬はならば二人で今から行くと言って聞かなかった。
 みやびをこの男と二人きりで真夜中の墓地へ送り出すには、あまりにもその男は胡散臭すぎた。
 なるべくこの男とみやびを引き留めて、見極めなければと思った。いっそ今夜は自分の家に泊めてしまいたいくらいだ。その間にこの降って湧いたように現れた長府藩の藩医という男の身元をできるだけ調べたかった。
 それくらいもできなければ、平蔵に合わせる顔もない。その友の灰は未来永劫入ることのない井上家の墓を目指しながら、大忠太はその満月の光差す墓地を歩いていた。

 そして大忠太は、墓石の影から僅かに覗いた刃の反射を視認した瞬間、自身のすぐ後ろを歩く川瀬目掛けて勢いよく拳を振り抜いた。
 川瀬の男にしては華奢な体が見ず知らずの家の墓石に叩きつけられる。大忠太はそのまま提灯を捨てみやびの体を抱え上げ、人の気配が立ち込めるその場から走り去ろうとする。
 しかし、既にその退路には刀を構えた浪人が三人立ち塞がっていた。
 振り返ると、先ほどまで大忠太がいた場所で十は超える数の男たちが、それぞれ抜刀して平蔵を取り囲んでいる。
「痛いなあ……なんで僕だけ殴られなければならないんです? 僕だってただ巻き込まれただけかもしれないのに」
 川瀬が赤く腫れた頬を押さえながら、浪人たちの方へと近づいていく。その様子を眺めながら、大忠太はみやびを墓石と墓石の間の隙間に押し込み、背に庇いながら抜刀した。
「貴様ら……この子を脅して俺をここまで誘き出したのか」
「さあ? 彼女に聞いてみたらどうです?」
 一人だけ帯刀していないその総髪の優男は、浪人を従えわざとらしく肩を竦めた。
「……この子の母方の叔父というのは嘘か?」
「……いいえ? 事実ですよ。みやびには僕と同じ血が流れている。養子にしたいというのも本当の話だ」
「ふざけるなよ」
 大忠太が川瀬に刃を向けたその瞬間、逆側に立ちふさがっていた三人の浪人たちが一斉に切りかかってくる。
 大忠太は即座に振り向き一撃目を打ち払うと素早く体勢を立て直し、大ぶりな攻撃を見舞おうとしていた二人目の腹に一刃を刻む。そのまま三人目の薙ぎ払うような一太刀を身を低くして交わすと、そこから相手の懐を片手で掴み足払いを決めてまだ立っている別の男へと投げつけた。
「退けェ!!」
 ぶつかり重なり合った二人の男の腹に、大忠太は刃を突き立てた。
 一先ず三人は片づけた。しかし、みやびを庇いながら残り十数人を片付けるのは、おそらく大忠太でも至難の業だろう。
 退路は今空いている。この男たちが何者で、どういった経緯で大忠太の命を狙うのか。本当は男たちを切り伏せ何人か生け捕りにして是が非でも聞き出したかったが、今は何よりも優先すべきものがある。
「みやびちゃん!!」
 背に庇っていた親友の忘れ形見へと振り向く。逃げよう、そう言って左手で彼女の小さな手を掴もうと思った。その時だった。

 大忠太は、振り返った先で、幼い手に握られた鈍い光を見た。

 鮮血が舞う。
 己の肉が断たれる、鈍い音が聞こえた。
 右手から愛刀が滑り落ち、無意識のうちに斬られた左手を庇うように手のひらで覆う。
 それでもなお、大忠太の左腕からは、おびただしい量の血が噴き出してきた。
「うわ、もろ上腕動脈。みやびってばえげつないねェ」
 川瀬の冷やかすような声がやけに遠くに聞こえた。憎悪で焼け焦げた幼い眼から、大忠太は目が離せない。
「みやびを脅してここまで誘き出したのかって? 残念。みやびがアンタを殺したかったから、自分で誘き出したんだよ」
 月の光を浴びて怪しく光る血濡れの短刀を翳したみやびは、まるで能面でも張り付けたかのように無表情だった。
「みやび、ちゃん……?」
 己をおじ様と呼び慕い、母によく似た愛らしさと父に瓜二つの聡明さで、いつ如何なる時でも明るく聡く振舞っていた、あの少女の成れの果て。
 その姿をその目に焼き付けながら、大忠太はもう、何も考えられなかった。
「アンタ、自分の身可愛さでその子の父親斬ったんだろう? どうしてその娘に仇討されるとは思わなかったのさ」
「……」
 この手で首を刎ねた親友と同じ目が、崩れ落ちた大忠太を見下ろしてくる。
 首が転がり絶命したのちに見た、あの虚ろな目で。
「へい、ぞう……」
 ああ。
 そこにいるのか、平蔵。
「みやび、やれ」
 川瀬の冷酷な合図が下る。みやびがその手に持った刃を振り下ろす様を、大忠太は泣き出しそうな顔でただ受け入れようとしていた。


「みやびーーーっ!!!」
 声が、聞こえた。

 草履が墓場の土を踏みしめ、僅かに滑る音が聞こえる。
 少年の荒い息が聞こえる方へ、大人たちの視線が吸い寄せられた。
「みやびっ……みやびっ!! まだ聞こえてるんだろうっ、みやびっ!!」
 振り下ろされたはずの刃は、大忠太の鼻先で止まっている。そこから滴る大忠太の血が、彼の頬へポタリと落ちた。
「っ、立て!! クソ親父っ!!」
 絞り出すような悲鳴染みた怒声に、大忠太の右手の指先が跳ねた。
 視線の先で、使命も運命も希望も、全てを背負ったような決意の表情をその幼い顔に湛えた息子が、立ちはだかっている。
「みやびは違法薬物で操られているんだ!! そいつらに!!」
「!!」
 晋助がまっすぐ指さした方向へ、大忠太は振り返る。
 心底面白くなさそうな顔をして立っている、川瀬の姿がそこにあった。
「みやびが、テメェを殺したいなんて、思うはずねェだろうがっ!! 寝ぼけたことしてんじゃねーぞっ!!」
 激しい怒りを露にする晋助の咆哮に、大忠太の胸に立ち込めていたどす黒い絶望に光が差し込んでいく。
「万が一、そんなことを少しでも思っていたとしても、俺が止めるっ。何度だって、そんなのはお前じゃないって言って止める!」
 見上げた少女の顔に、相変わらず表情は無い。
「なぜなら、その先に……みやびの武士道は無いから」
 ただ、その頬には。
 少女の心を代弁するかのように、一粒の涙が伝っていた。
「俺が今まで見てきた井上みやびは……泣き虫で傷付きやすくて甘ちゃんで、けど、転んでも立ち上がれる根性があって、人に優しくていつも何かに一生懸命で、それから、命を誰よりも大切にしている井上先生を、誰よりも、心の底から愛していた」
「おいみやび、何をしているんだ。早くやれ」
「……」
 晋助の言葉を遮るように川瀬が再度命令を口にする。小さな手に握られた短刀が、カタカタと震え出した。
「そんなみやびの目指す強き己が、志が、こんなくだらない殺人の先なんかにあるはずがねェ!! なあ、そうだろうみやびっ!!」
「もういいみやび、先にそのオトモダチを黙らせてやれ」
「みやび!! 俺はお前がっ、お前のことがっ!!」
「おじ様」
 晋助の必死な叫びと川瀬の冷たい声が飛び交う中で、その小さなつぶやきは妙に夜の墓場で響いた。
 水を打ったようにその場は静まり返る。
「一つだけ、訊いてもいいですか?」
 命を奪う刃をそっと下ろしたみやびは、大忠太にそっと問いかける。
「……父との約束を、まだ、憶えていますか?」
 少しだけ微笑む少女のその目の穏やかさに、大忠太は友の面影を見た。
 命絶えた後の冷たい眼ではない。
 共に夢を語らい、酒を酌み交わし、戦場は違えど志同じく戦った、井上平蔵の優しくも強い眼差しの面影を見たのだ。
「忘れられるわけがない。たとえ、何があったとしても」
 大忠太は親友の忘れ形見をまっすぐ見据え、己にも言い聞かせるように強い意志を込めてそう告げる。
 それを受けて、みやびは花が綻ぶように笑った。
「よかった。……おじ様の武士道も、父上と同じなんですね」

 そしてみやびは、手にした短刀を川瀬の足元に向けて勢いよく投げつけた。
「!! 何故っ……」
「大事な薬の在庫は、きちんと把握しておいた方が良いですよ。川瀬さん」
 短刀は川瀬に届く前に地面へぶつかり、乾いた音を立てて彼の足元へ滑っていく。
 みやびは血に濡れた手で己の懐のあたりを掴むと、川瀬を睨み上げた。
「養子の件ですが、お断りさせていただきます。……本当に私を下関へ連れ帰る気があったとは思えませんが」
 そして明らかに狼狽える川瀬に向かって、みやびは高らかにこう言い放つのであった。
「私は井上みやび! 医師、井上平蔵が娘。そして松下村塾、吉田松陽が弟子!! それ以外の何者にも、なる気はないっ!!」


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