死ねない理由
 暗い林の中を、少女は一人でただ駆けていた。
 背後からは怒声と無数の足音、そして甲高い笛の音が迫ってきている。前に進んでいるのか後ろに戻っているのかも分からず、ただ彼女は音のしない方へと走っていた。
 足を止めたら全てが終わってしまう、そんな恐怖に駆られていた。
 だが次の瞬間、彼女の足は何かに絡め取られてしまう。
 少女は成す術無くその体を固い土に打ち付け、動けなくなってしまった。冷たい提灯の光が彼女の周りを取り囲む。冷たい手が彼女の肩を、足を、腕を押さえつける。
 彼女、みやびは恐る恐る自分の身体に纏わりついている何かを確認した。
「早くこちらへ来なさいな、みやびさん」
 喉にぽっかり穴を開けた、髪を乱した義母が肩を押さえつけている。
「俺に濡れ衣を着せた罪を償えよ、なあ」
 足を押さえつける義兄の首から流れる血が、みやびの身体を汚していく。
「残念。また逃げられなかったようだね、みやび」
 首が離れた彼女の父親が、その細い手首を逃がすまいと強く掴んで放さない。
 みやびは涙を溜めたその眼を見開き、声にならない悲鳴を上げた。

 みやびがその物の少ない殺風景な四畳半で飛び起きたのは、長門国長州藩、萩の城下町に太陽が昇ったばかりのころだ。
 少し冷たくなった長月の風が吹く早朝六時、狭い部屋に響くのは少女の息切れのみ。やがてその息遣いは重たいため息に変わり、深く肩を落とした彼女はおもむろに生温い布団から立ち上がった。
 寝汗で湿った寝間着を緩慢な動きで脱ぎ、手ぬぐいで簡単に汗ばんだ体を拭く。枕元に用意してあった長襦袢とくすんだ蜜柑色の木綿着物を纏って、黒い半幅帯で文庫を結ぶ。それから、所々が跳ねた腰まで届く長い髪を三つ編みに結い、身支度を終えると重たい足取りで襖に近付き取っ手に手を掛けた。
 彼女が寝ていた部屋はとある屋敷の離れ、使われていない茶室だった。その建物の水場に移動し、小さな流しで歯を磨き顔を洗う。脇に干してあった乾いた手ぬぐいで顔を拭き、角に置いてある小さな卓上鏡の中の自身と目を合わせた。
 目の下にできた濃い隈を薬指でなぞる。痩せこけた頬、血色の悪い肌を気にする余裕はもう彼女には無かった。
「この穀潰し、さっさと出ていけ」
 開け放たれた窓の外から投げかけられた罵声に、みやびは無表情のままそっと顔を上げる。そこには今から朝稽古に向かうのであろう、竹刀を持ったその屋敷の子息たちがいた。兄の方が冷たい目でみやびを見下し、弟が舌を出して彼女をなじる。みやびも負けず劣らずの温度の無い瞳で彼らをしばらく見つめると、そのまま無視して窓を閉じる。
 このやりとりがかれこれ三か月続いている。みやびはその兄弟に何を言われても言い返さなかったし、言いたい言葉すら少しも思いつかなかった。

 みやびはかつて、井上という姓を名乗ることが許されていた。だがそれは今では名乗ることができない。
 当主の処刑でお家取り潰しという話は、この時代珍しい話でもなんでもなかった。幕政批判、国家転覆、攘夷倒幕思想を抱く武家が一族諸共粛清対象になるのはよくあることだ。
 だが、幸か不幸かみやびは生き残ってしまった。
 予定ではみやびの父、井上平蔵は家老一家殺害の罪で表向きは処刑されたことになり、秘密裏に藩外へ追放される手筈だった。
 それもそのはず、平蔵は倒幕思想などまるで抱いていない、むしろ攘夷浪士たちの凶刃からこの町を護るためにその手を汚したにすぎないからだ。
 だというのに、藩政に翻弄されて捕えられ首を斬られ、そして三日三晩その首は刑場にて晒された。
 亡骸を引き取ることもできず、彼は死した後も刀の試し切り用の遺体として役人たちに弄ばれ続けたのだ。

 覚束ない足取りのまま、みやびは今日も行く宛ても無く町を彷徨う。
 親を亡くしたみやびの後見人は、当初の予定通り平蔵へ取引を持ち掛けた家老の堀田が担うことになった。
 しかし、そのことがみやびの立場をさらに悪くしていた。事情を知らない使用人たちはこれ見よがしにみやびを鼻つまみ者にし、ひょんなことから事情を知ってしまった子息たちもみやびに辛く当たった。
 罪人の子。父の足枷。彼らにとってのみやびはそういう認識だ。
 早くあの屋敷を出ていかなければ。
 そう思うことはあっても、みやびはどう行動に移せばいいかが分からなかったし、考える力も残っていなかった。
 生きるべきか死ぬべきか、その結論すら出せていない今の彼女に、生きる場所や方法を決められるはずも無い。
 生きていたって、辛いだけだ。
 父が処刑された翌日には、みやびはもうその結論に達していたはずだった。それを察してか否か、堀田もみやびに監視など付けていないし、外出も許可している。命を絶つ機会などいくらでもあった。
 なのになぜ、いまだ生きながらえているのか。
『死ぬな、死なないでくれみやびっ……頼むから、お願いだから……っ』
 全てを奪われたはずのみやびにたった一つ、たった一つだけ、まだ残っている死ねない理由があった。

 みやびは町の外れにある小川の木陰に腰掛け、懐から小さな袋を取り出す。
 梅の刺繍が施された、三味線ばちを入れる赤い小袋だ。
 川のせせらぎを遠くに聞きながら、もう弾くことも無い三味線のばちを肌身離さず持っていることに自嘲する。
 もうあの事件から三カ月が経つ。何一つ決心が付いていないことに、みやびは焦りを感じ始めていた。
 あの日、自ら命を絶とうとしたあの時、小袋の送り主が涙を流しながら止めてくれた事を、みやびはどこかで嬉しいと思ってしまっていた。冷え切って何もかもがどうでもよくなってしまった乱暴な心が、少しだけ癒されたような気がしたのだ。
 同時に、そんな気持ちを抱く自分が許せなかった。
 無念のまま死んでいった父を差し置いて、そんな感情を芽生えさせてしまったことが信じられなかったのだ。
 だから、みやびはあれから彼、高杉晋助と顔を合わせていない。
 誰とも口を利かず、人気のない場所で一日中物思いに耽る。やはり全てを終わらせるために命を絶つか。それとも鬼となり父を死に追いやった全員へ復讐するのか。はてまた父を、あの事件を忘れて温かい場所で生きていくのか。
 そのどれもがみやびの望む未来であったような気もするし、そのどれもが本心で無い気もした。
 きっとどの道に進んでも、自分は必ず後悔する。ならその後悔が長引かない、自害が一番楽な道だ。みやびは毎日日が沈むころ、必ずその結論に達する。
 そして明日死のうと決心してあの離れの茶室に帰り、用意されている冷え切った食事に少しだけ口を付け、眠れない夜を布団の中で過ごす。眼を閉じると、毎晩同じ悪夢を見た。
 けれどやっぱり翌朝死に場所を探して町を彷徨っていると、昨日の決心が鈍るのだ。
 自分が命を絶ったら、きっとあの心優しい少年は深く傷付くのだろうと。

「井上」
 毎日同じことを繰り返している。そんなみやびにとって週に一度、日曜日にだけ掛かるその声だけが、曜日感覚を取り戻させる唯一のものであった。
 その日も小川の木陰で物思いに耽っていると、昼過ぎくらいにその少年が現れた。
 長い黒髪を高く結った彼は、みやびに了解を得ることも無くその隣に腰を下ろす。みやびはそれでも彼の方を見ようとはしなかった。
「最近はこの辺りにいることが多いな。どうだ井上、久々に石投げでもしてみないか?」
 わざと声の調子を上げて楽しげにそう問いかけてくる声の主に、その酷い顔を見られたくなくてみやびは顔を膝に埋めた。
 彼女の数少ない友人の一人、桂小太郎は事件後も根気よくみやびに会いに来た。
 話す内容はと言えば、異常なやつれ方をしたみやびへの心配、他愛のない世間話、それから今のような遊びに誘い出すようなことばかり。彼はみやびが辛いことを思い出すような話題は一切振らなかった。
 その気遣いがみやびはこれ以上なく嬉しくて、同時にひどく苛立っていた。
 自分にそんな気を使われる資格など無いと思っていたのだ。
「しかし九月も終わりだと言うのに、相変わらず昼間は暑いな。井上は体調を崩してはいないか? 蝉の鳴き声こそ最近聞こえなくなったが……」
「ねぇ、桂くん」
 顔を上げないまま、みやびは幾度となく伝えた言葉を性懲りも無く呟く。
「私、もう井上じゃないんだってば」
 彼女が言い終えると、しばらく沈黙が続く。
 川のせせらぎ、魚が跳ねる音、鳥の羽ばたき。それから近所の子供たちが遊ぶはしゃぎ声が、微かに遠くから聞こえてくる。スゥと、隣で桂が少し深めに息を吸った音がした。
「お前を井上と呼び続けるのは、俺の意地の問題だ」
 迷いのない言葉だったが、その声は震えていた。桂も何かに怯えているのだとみやびは思った。
 何に怯えているのかまでは分からなかったが。
「じゃあ、辛いって言ったら?」
 この三か月、桂はみやびの痛い場所へは全く触れてこなかった。なのに彼は変わらずみやびを井上と呼ぶ。家族との繋がりを、父を思い出させるその名を呼ぶ。
 桂が何を考えているのかが分からない。今まで懸命に押し殺していたその苛立ちが、沸々と抑えきれなくなっていくことをみやびは感じ取っていた。
「もう放っといてよ。私なんかに会いに来ないで」
「……そんなこと」
「桂くんが」
 顔を上げないまま、みやびは彼の言葉を遮る。きっと傷ついた顔をしているのだろうなと思った。
「桂くんが、私を気遣ってくれてるのはすごくよく分かるよ。私がいつまでも落ち込まないように、楽しい話をしたり、遊びに連れ出そうとしてくれてるんでしょう? ……でも、お願いだから、そんなこともうしないで」
 だらだらと、鋭利な言葉が唇から零れ落ちていく。止める気にはなれなかった。
「私ね、楽しい気分になんかなりたくないの。……お願い。これ以上、こんな私を桂くんに見られたくない」
「井上……」
「止めてって言ってるでしょう」
 その時初めて、みやびは顔を上げた。人を傷つけることを厭わない、傷付いた目で桂を見据える。
 桂は、とても寂しそうに微笑んでいた。その表情にみやびの言葉は止む。
「高杉が、また……講武館へ来なくなったんだ」
 三か月ぶりに聞くその名に、みやびは息を呑んだ。
「辛い事件だった。……でも、俺は傲慢だから、出来ればまた三人で楽しいことをしたい。……高杉の生意気なツラが、井上の笑顔が見たいのだ」
 そう言ってそっと目を閉じる桂のまぶたの裏には、一体何が映っているのだろう。みやびは、その答えがなんとなく分かる気がした。
 みやびとてこの三か月、何度も思い返した光景だから。
「だから、空気を読んでなどやらん。……また、何度でもお前を見つけ出すよ。井上」
 そして、桂小太郎は笑った。
 みやびは、それを見ていられなくてとうとう背を向けた。
「晋助くんのこと、お願い。桂くん……」
 自身の腕を抱いて、川の方へ体を向け項垂れるみやびに、桂はもうそれ以上何も言わなかった。
 また来る。そう言い残し去っていく桂の気配を察しながら、みやびは桂の言葉と笑顔を何度も思い返す。
 きっと、桂のように考え、行動するのが健全なのだと思った。
 けれど今のみやびには、何をどうすれば彼のようになれるのかが全く分からなかった。


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