死んでしまえ
「もしも貴方が、ご子息の姿に己を見て拳を振るっているのだとしたら、どうか、そんな自分も彼も傷付けるようなことはもう止めてください」
 知ったような口を利く厚顔無恥な青二才が、一瞬、この手で殺した親友に見えた。


 満ち足りぬ月が昇る萩の城下町。指月山の麓、長州藩主に仕える武士たちの住まいが立ち並ぶ街並みの一角に、その男の屋敷はあった。
 高杉大忠太は、家人の寝静まった屋敷の最奥に建てられた道場にて、一心不乱に素振りを続けている。すでに小一時間は木刀を振るっている男の頬や首筋には僅かに汗が浮かび、握るそれには男の体温がすっかり移っていた。
『待たせたね、大忠太』
 声が聞こえた、気がした。
 無心に目の前の何かを斬り続けていた男の手が止まる。弾かれたように振り向いた先には、母屋へ続く渡り廊下への扉が開けっ放しになっていた。
 今しがた聞いた気がした声の主は、いつもこのくらいの時間に姿を現しては、仕事用の西洋鞄を片手にへらへらと笑い、そこから顔を覗かせて大忠太に声を掛けた。待たせて悪いと。
 平蔵と飲む約束をすると、いつも大忠太が予定よりも大幅に待ち惚けを食らった。仕事や研究が大好きなあの男は、時間も忘れて職場に籠り切りになることもよくあったのだ。いつしか二人は平蔵の家で飲む時も外へ飲みに行くときも、大忠太の家で待ち合わせることが多くなった。
 待っていたのだ。こうやって一人素振りの稽古をしながら、いつも大遅刻をしてくるあの男を。
「……」
 大忠太は無言で、木刀を壁際の刀掛けへ戻す。隅に置いてあった手ぬぐいで顔を拭い、そのまま道場を後にしようとする。その時だった。
『父上っ! おれにも、おれにも剣をおしえてっ!』
 記憶の端に引っ掛かっていた、幼子の声に呼び止められる。今度は、そこにもう何もいないと分かっていながら、彼はゆっくり振り返った。
 格子窓越しの月明りだけが差し込む、空っぽで薄暗い道場がそこにあるだけだった。剣を教えろとせがむ、キラキラと目を輝かせた息子はいない。その様子を微笑ましく見守ってくれる、弟子たちもいない。
 大忠太は道場からそっと抜け出し、そして重たい扉を閉めて、鍵を掛けた。もう、そこへ誰も入らないように。
 弟子たちへ、もうここには来ないよう伝えたのは、三日ほど前のことだった。
 元々、高杉家は道場主というわけではない。それでもこの一族は代々剣の腕を買われて下級武士の身分ながら藩内で一定の発言権を勝ち得てきたが、その中でも大忠太は数世代に一人と言われる逸材だった。実力を評価され藩校の剣術師範となり、気が付いたら勝手に彼を師と仰ぐ若者たちに囲まれていた。
 正式な道場を開いたり、内弟子をとるということはなかった。ただ、自分の剣を慕って集まってくれる者がいるならと、自宅の道場を解放し何時でも使っていいとしたのは、藩校に勤め始めて三年目の春のことだった。
 それももう、終わりにしよう。道場ごっこを仕舞いにする決意を弟子に告げたとき、彼らは何も言わずに微笑んでそれを受け入れてくれた。
『大忠太先生。それでも先生は、ずっと俺たちの先生ですから』
『有事の際はいつでも言ってください。……どうか一緒に、背負わせてくださいね』
 藩を抜ける井上平蔵を捕縛して処刑せよとの命が下った際、自分たちがやると言って聞かなかった者たちも、皆食い下がりはしなかった。
 逃げた大忠太を責め立てるものは、いなかったのだ。

 男は短い廊下を進み、風呂場や洗面台などが集まる水場の前を横切る。
『大忠太、貴様見合いの日にいつまで稽古なんぞしておるのだ!? もう相手方がいらっしゃるぞ!? 早く風呂入ってこい!!』
『まあまあ、旦那様。若は緊張しておられるのですよ。……若、お召し物こちらに置いておきますからね』
 台所や住み込みの女中たちの部屋の前を通り過ぎ。
『お夏さん、お願い! ちょっとだけでいいの、お台所貸して? 暇すぎて死んじゃいそう』
『いけません奥様! もう産み月ですよ!? お願いですからジッとしててくださいっ』
 わずかに開かれたままだった居間の襖を閉じて過ぎ去り。
『旦那様っ!! 男の子ですっ、元気な男の子ですっ!!』
『奥様も大変お疲れですが、お元気です!! 母子ともに、とっても健康です!! ……って』
『ギャーッ!? 旦那様が倒れたーっ!?』
『おい、誰か井上先生呼べっ!』
 己の書斎の前で少しだけ立ち尽くし。
『高杉晋助。良い名じゃないか。晋んで助ける、きっと名前通りの真っ直ぐで優しい子になるよ』
 中庭に面するくれ縁に出て、葉先が色付く梅の木を仰ぎ。
『大忠太さん。……私、貴方や晋助ともっと一緒にいたい。死にたくない……っ』
 そして、仏間へと足を踏み入れた。
『ちちうえ、ははうえはどこ? ねえ、ははうえはっ……』

 線香から漂う白檀の芳香にまみれ、男は仏壇に向かってそっと手を合わせていた。僅かに満ち足りぬ今宵の月は明るく、部屋に明かりを入れなくとも充分に手元も遺影も見ることができた。
 妻を亡くして、今度の冬で九年になる。最期に見たときよりも幾分か若く健康的に見える遺影を眺め、そっと心の中で語り掛けるのが男の日課であり、変わらぬ愛を伝える術だった。
 あの日、屋敷中どこを探しても居ない母の姿に絶望し、泣きじゃくっていた幼子の声はもう聞こえない。
 自分はあの時、ははうえははうえと泣き叫ぶ彼へ何と声を掛けたのだったか。
 ああ、そうだ。と大忠太は思い出す。
「武士の子がいつまでも泣くんじゃない。……そう言ったんだったか」
 自嘲混じりの声で、男は妻に話しかけた。
 当時、大忠太は必死だった。もっと自分たちと一緒にいたい、息子の成長をこの目で見守りたい。その願いもむなしく雪降る夜にその生涯を閉じた妻に代わり、晋助をこの手で立派な侍に育てると。自分以上の男に育ててみせると、彼は妻の亡骸を前にそう誓ったのだ。
 その誓いを強く思えば思うほど、口調は厳しくなり、手が出る回数は増えた。
「ミチ。……俺は」
 俺は最近、自分がひどく恐ろしくなることがあるよ。
 その言葉は彼の胸の内で、静かに妻へ告げられた。


 その日、大忠太は仕事中に使用人から連絡を受け、慌てて診療所へ走った。
 寄せられた報告は二つ。晋助が川に落ちて頭を何針か縫ったというものと、堀田家の子息たち相手にまた喧嘩を吹っ掛けたというもの。
 診療所へ急ぐ彼の頭の中には、心配というものは欠片ほどしか浮かばず、その大半は怒りと呆れで埋め尽くされていた。
 次に問題を起こせば勘当と言った。確かにそう言ったのに、数日と間を置かずこれだ。
 勘当してほしくてワザとやっているのかとさえ思えた。
 本当に一度、勘当くらいしてやろうか。あの悪童にはそれくらいしてやらないと骨身には沁みないのだ。
 そんなことを考えながら、大忠太はいつも通り息子を殴った。最近息子に悪い影響を受けてしまったらしい俊才と、最近息子に悪い影響を与えていたのであろう浪人と白髪の少年の前で。
『元気そうに見えますが、つい数時間前に彼は心臓と呼吸が止まったんですよ』
 そんな状況へ追いやったのはお前たちではないのか。寝耳に水の事実を聞かされて、自身の振る舞いに肝が冷えていくのを必死に責任転嫁して胡麻化した。
『怪我した我が子を、訳も聞かずにお前が悪いと決めつけて殴るのが貴方の教育だと言うのなら、なるほど道理で彼は周りに助けを求めないわけだ』
 そんな浅はかな父親の逃げを見抜いた、どこか平蔵と似ている男は、丁寧に一つ一つ大忠太の行いを批判した。
 一目見た瞬間、大忠太は察していた。最近晋助が少しだけ生き生きしている原因がそれであると。
『一度、お二人で見学にいらしてください。お時間があればぜひ三者面談も。……いつでもお待ちしておりますから』
 けど、それが何だと言うのだろう。手渡された甘言の並ぶ紙切れを細切れに破き、捨てた。
 晋助に、そんな夢幻へ近づいてほしくなかったのだ。

『他の家老どもが、そろそろお上へ攘夷浪士の首を献上したいと言ってる。誰でもいいから近日中に捕まえろ』
『誰でもいい……? 最近は浪士どもの刃傷沙汰も無い。奴らが勝手に手駒の中から見繕って差し出せばいいだろう』
『……奴らは俺たちの忠誠を試している。平蔵の一件で牙が抜けたか見たがっているんだ。……お前か俺が差し出さなければ意味がないんだよ』
『……』
『気が進まないというのなら、俺の息が掛かった者にやらせる。相手は……あの町はずれで私塾を開いているという、吉田とかいう浪人でいいだろう。子供たちを集めて怪しげな教えを説いていたと言えば国家反逆の罪に問える』
『!! そんな不当な理由で罪に問うのか!? 授業内容を検めもせず……』
『大忠太。……俺たちが今あいつらから危険視されるわけにはいかん』
『……』
『親友を斬ったんだろう。いい加減、鬼になりきれ。大忠太』

 吉田松陽は明日、堀田の息が掛かった奉行所の者によって、逮捕されることが決まっている。大忠太にそれを止めることはできなかった。
 はみ出たものから淘汰されるこの町で、晋助に生き残ってもらう方法をもうずっと考え、必死に伝えている。
 なのに晋助はまたはみ出る。はみ出た者に憧れ、そこへ行きたいと言う。
 どうして分かってくれない。
『俺が顔向けできないほどに済まないことをしたと思ってるのは、この世とあの世、合わせてただ二人だけだ』
 伝えても伝えても伝わらない歯痒さの上に、息子から向けられる侮蔑の視線が降り注いでいく。
 大忠太は、最近自分がとても恐ろしく感じられる。
 この世で最も大切なはずの存在が、時折ひどく憎らしいのだ。
『アンタだって、本当はそうだろうが』
 何も知らずに理想を抱き、友と未来を語り合った。
 あの頃の自分が、殺したいほど恨めしい過去の自分が、晋助の中で生き続けているような気がして。
『もしも貴方が、ご子息の姿に己を見て拳を振るっているのだとしたら、どうか、そんな自分も彼も傷付けるようなことはもう止めてください』
 本当に、憎くてたまらない時があった。
『お願いします。……坊ちゃんへの接し方を、考え直してはいただけませんか』
 そしてとうとう、大忠太は自身の抱える使用人、その中でも古株と言っていい女中頭に土下座までさせてしまった。
 晋助を自宅へ送り届けた後に仕事に戻り、夜更けに帰宅した際の出来事だ。
 彼女は己の進退を掛け、辞表まで用意していた。先代から世話になっているその自身よりも幾分か年上の彼女から、地べたに額をこすり付け震える声で告げられた懇願に、男はもう途方に暮れるしかなかった。
「ミチ……俺は、どうすればいい?」
 大忠太の疲れ切った声に、妻の遺影は表情を変えてはくれない。


 男は仏間を出た後に、その隣にある部屋へ続く襖を開けた。
 雨戸が閉じられ殆ど光が差し込まないその中にいるのは、布団に包まり眠る彼の息子。
 開けた襖から差し込む月明りで目を覚まさないようにと、襖を静かに少しだけ開けた状態まで閉めた。暗がりの中、一筋だけ差し込む光と寝息を頼りにその枕元まで歩み寄る。
 晋助は右足を布団から突き出し、両手を軽く上げて寝ていた。
 大忠太はその小さな右足を布団の中へ仕舞い、胸元まで下がっていた掛布団を肩まで引き上げてやる。
「みやび……」
 その時、馴染みのある名が舌足らずな響きで紡がれた。
 死ぬよりも辛い思いをさせてしまった、親友の娘の懐かしい笑顔が脳裏を過る。最近は晋助と交流が復活したと小耳には挟んでいた。
 想い人と遊ぶ夢でも見ているのか。ほんの少しだけ、大忠太の口元から硬さが消える。ああ、お前はあの子の味方になってやれ。そう思いながら、少し伸びて目元に掛かった前髪を、横へ流してやろうと手を伸ばした。
「ごめん……」
 右手は刹那凍り付いた。

 大忠太の目が、段々と暗闇に慣れる。
 幼い頬を伝う涙に、息子と同じ深緑色の瞳から光が消えていった。
「みやび……ごめ、ん……」
 死んでしまえと思った。
 親の役目など何一つ果たせず、それどころかその小さな肩に重荷ばかりを背負わせて。
 お前がいるから晋助は苦しんでいるのだ。お前がいるから、お前さえいなければ。
 唇を噛み締めると、己の中を流れる汚い血の味がした。無性に、その腹へ刃を突き立てたい衝動に駆られた。
 息子の涙を拭ってやることも、そこから去って親友の後を追うこともできず、大忠太は晋助の髪を横へ流してやったまま止まっていた。
 すると、少しだけ身じろいだ晋助が顔を横に傾ける。
 晋助から、大忠太の手に触れてきた。人の温もりを感じた本能からか、彼の頬は大忠太の手の甲へと柔く押し付けられる。
 ほんの少しだけ、晋助の表情が柔らかくなったのを大忠太は見た。
「晋助」
 男は、そこでやっと、息子の涙を拭ってやる決心がついた。
 指先で腫れ物に触るかのように、そっと涙の筋を消す。すると晋助の寝顔には、安堵するような優しい表情が混じり始める。
 小さな額が大忠太の手の甲に押し付けられて、彼は亡き妻によく似た息子の黒髪をそっと撫でる。
 そして、小さな唇は寝息の合間にこう漏らした。
「しょうよう、せんせ……」
「……」
 大忠太は、黙ってその手を引いた。


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