伝えられるだろうか
 萩の城下町、規律正しく建ち並ぶ武家屋敷の街並み。月も高く昇った午後十時半に、三人の足音が静寂を切り裂いていく。
 提灯を右手に持った、白い羽織の楠本女医が先行する。その後ろを左右を警戒しながら、肩に木刀を担いだ銀時と靡く灰色の襟巻を押さえた高杉が続いていた。
「ここ左だったわよね?」
「ああ」
 幸い、高杉邸は医学館から目と鼻の先だ。女と子供の足で、走って五分。何事もなく到着したその正門は固く閉ざされ、あたりに人の気配は全く感じられない。
 試しに高杉がくぐり戸を押してみるが、中から施錠されているようだった。
「裏へ回ろう。この時間ならそっちの方が人気もあるし、扉も低いから最悪よじ登れる」
 家の周りをぐるりと囲う白塗りの壁に沿い、正門の逆側へ三人で回り込む。高杉の言う通り、裏にあるのは使用人が普段使うような木製の質素な引き戸で、施錠はされていたが確かに誰かの肩でも借りれば子供でも乗り越えられそうな高さではあった。
「甚兵衛! お夏さん! 誰でもいい、誰かいるかっ!」
 格子状になった引き戸越しに、少し離れた場所にある屋敷の裏口に向かって押し殺した声で呼びかける高杉。するとしばらくして、その裏口のすぐ横にある擦りガラスから明かりが外へ差し込んだ。
「坊ちゃん! 全く、こんな時間までどこに行ってらしたんですか!」
 いの一番に飛び出してきたのは、甚兵衛という中年の使用人だった。その後を女中頭の夏が追いかけてくる。裏門の鍵をすぐさま開けた甚兵衛に高杉は詰め寄る。
「説教は後にしてくれ、緊急事態なんだ」
「後にって……おや、貴方は確か……」
「坊ちゃんが痘瘡にかかった時の……楠本先生ではありませんか?」
 使用人二人の視線が、高杉の背後に立つ楠本に向けられる。楠本は挨拶する間も惜しいとばかりに軽く会釈するのみに留め、高杉に話の続きをするよう無言で促した。
「親父はいるか。……少し話さなきゃならねェ」
 苦虫でも噛み潰したかのように、目線を逸らし口を曲げながらそう告げる雇い主の子息に、甚兵衛と夏は瞬きを数度繰り返す。
「いえ、残念ながら先ほど旦那様は出掛けられまして……」
「はァ? こんな時間まで仕事かよあのクソ野郎」
「ああ、そうではないんですよ坊ちゃん」
 主人の不在を告げる甚兵衛に不快感を露にする高杉へ、苦笑いを浮かべながら否定する。
「実は……先ほど井上先生のところのみやびお嬢さんがお見えになられたんですよ」

 その瞬間、高杉の頭は一瞬真っ白になった。
「……横から失礼。その娘、一人でこんな夜更けに?」
 同じく呆然としている銀時の隣に立っていた楠本が一歩前に出る。そう問いかける口調には隠し切れない動揺と焦りが滲み出ている。
「いいえ。川瀬さんというお嬢さんの叔父様にあたる方と一緒に。それで、しばらく三人でお話をされていたんですけれど、先ほど少し出掛けてくると旦那様が。お二人とご一緒に」
「どこへ行ったっ!?」
「ぼ、坊ちゃん?」
 小柄な夏の腕を両腕で掴み、その体を揺さぶりながら高杉が声を荒げる。夏は大いに困惑していたが、その高杉の行動を咎める余裕のある人間は誰もいなかった。
「そ、それが……」
 夏は困りながら甚兵衛と顔を見合わせる。
「少し妙な話で。こんな夜更けに墓参りに行ってくると」
「……墓参り?」
 やっと事態が呑み込めてきたのか、そこでやっと銀時が口を開く。
「ええ。どうもみやびお嬢さん、急な話ですけれど明日の朝に下関へ養子に行くことになったそうで。その前に井上家の墓参りをしたいから、旦那様も一緒に手を合わせてくれないかと。そんなことを言い出したようで」
「真夜中の墓参りなんて不気味だから、せめて日が昇ってからにしませんかと進言はしたのですが……お嬢さんからの頼みは断れないからと言われまして」

 使用人二人の声が、段々と遠くなっていく。
 一度真っ白になった頭が、今まで得た情報を急速に組み立てていた。
『服用中に第三者が何か強い思想や命令を言い聞かせ続けると、服用者がやがてそれを自分の意志と勘違いして行動を始めてしまう』
『殺してやる!! お前など、あの男の家族など!!』
『売人は一斉検挙されてその殆どは回収できたそうだけど、入港直後に取引したという攘夷浪士が、売った二十キロの苹果汪と共に行方をくらませたまま』
『昨日、先生言いましたよね。私に邪な考えを植え込んだ、不届き者は誰だって』
『テメェの親父と俺の親父は、理想のためなどではなく、保身のために一組の親子の人生をこれ以上なく辱めた。その事実は未来永劫、変わることは無い』
『汚らわしい売国奴の子だ、お前ら二人とも!! 我ら尽忠報国の士を愚弄した罪、その身をもって償えっ!!』
『敵を見誤るな、俺たちの仇は大忠太殿ではない!!』

「晋坊、とりあえず墓地に行ってみましょう。なんで大忠太まで一緒なのかは分からないけれど……」
「なあ」
 焦点の定まっていない高杉の目が、楠本の方へ向く。
「売られる女たちは、あの薬で一体どんな洗脳をされるんだ?」
「えっ……」
 一瞬言葉を詰まらせる楠本。高杉のその問いかけで矛盾に気付いた銀時だったが、彼には重要な情報がいくつか欠けている。
「それは……奴隷商やら客やらに逆らわないようにって、あらゆるものに無抵抗でいろという洗脳が多いかしらね。やっぱり……」
「じゃあ例えば、薬を使って誰かを殺せと洗脳されたら、その女はどういう用途で利用されると思う?」
「え? それは、やっぱり刺客とか……」
 そこまで言って、女医はその表情を凍り付かせた。
「……ちょっと待って。もしかして」
 高杉邸の裏庭に、萩の夜風が吹き付ける。少しだけ解けた高杉の襟巻が、闇の中を踊った。
 ザリッ、と草履が土の上を滑る音が響く。
 次の瞬間、高杉は銀時と楠本の間を抜けて裏門を飛び出していた。
「晋ッ……!!」
「坊ちゃん!!」
 楠本の引きつった声と夏の悲鳴が追いかけてくる。振り向く余裕などあるはずがなかった。
 夏が巻いてくれた襟巻が解けていく。月明りだけを頼りに、高杉は駆けた。ただひたすらに、無事を祈った。
 好きだと告げるのもおこがましいほどに愛おしいたった一人の少女と、嫌いだと告げるのも諦めてしまうほどに許せないたった一人の父親の、無事を。
『服用中に第三者が何か強い思想や命令を言い聞かせ続けると、服用者がやがてそれを自分の意志と勘違いして行動を始めてしまう』
『殺してやる!! お前など、あの男の家族など!!』
 みやびはおそらく、堀田や堀田の家族を殺したくなるように仕向けられていた。
『売人は一斉検挙されてその殆どは回収できたそうだけど、入港直後に取引したという攘夷浪士が、売った二十キロの苹果汪と共に行方をくらませたまま』
 黒幕が攘夷浪士なら、その動機は十二分にあると言えるだろう。堀田家はこの藩に蔓延る攘夷派にとって、遅かれ早かれ消さなければならない政敵のはずだ。
 そして。
『昨日、先生言いましたよね。私に邪な考えを植え込んだ、不届き者は誰だって』
 松陽はきっと、あの橋の上でみやびが見せた凶行と、似たような言動を見聞きしてしまった。だから彼女にあのようなことを言って聞かせたのだ。
『テメェの親父と俺の親父は、理想のためなどではなく、保身のために一組の親子の人生をこれ以上なく辱めた。その事実は未来永劫、変わることは無い』
 ではみやびは、松陽の目の前で、誰にその言動を向けたのか。
 堀田? 松下村塾の誰か?
 いいや、違う。
 居ただろう。あの日、すぐ近くに。もう一人。
『汚らわしい売国奴の子だ、お前ら二人とも!! 我ら尽忠報国の士を愚弄した罪、その身をもって償えっ!!』
 そう。堀田家と同じく、彼らにとってはいずれ消さなければならない、彼ら曰く売国奴の息子が。
『敵を見誤るな、俺たちの仇は大忠太殿ではない!!』

 もしもみやびが、高杉家の人間に対しても殺意を抱くよう洗脳されていたとしたら。その確信に近い推測は高杉の胃のあたりを急激に冷やしていく。
 みやびが不意をついて大忠太を殺めようが、大忠太がそれを防いでみやびを返り討ちにしようが、高杉にとっては地獄以上の惨劇であることは疑いようがなかった。
 伝えなければならない。説得できるかは分からなかったが、それでも、みやびが今正気ではないことを。
 そして止めなければいけない。今度こそ。
『みやびを人殺しにさせてェのか!?』
 命を誰よりも尊く思っていた人の娘、その意思を継ごうとする強い眼差しを、高杉晋助はもう何度だってこの目に焼き付けている。
 己の命を幾度となく救ってくれたあの小さな手を、誰かの命を刈り取るために使わせるなど、あってはならないのだ。
「死ぬのも、殺すのもっ、許さねェ……っ、許さねェからなっ!!」
 かつて、みやびの父平蔵が命を絶たれた時。後を追おうとしたみやびに高杉は泣いて縋ることしかできなかった。
 死なないでくれ。そう懇願し、あの小さな体に抱きついて泣きじゃくることしかできなかったのだ。
 本当に泣きたかったのは、きっと彼女の方だったのに。
 死にたいと叫んで、誰かに縋りつきたかっただろうに。

 今なら、もっと違うことを伝えられるだろうか。

「みやびーーーっ!!!」
 そして少年は、墓場に立った。

 刀を構えた男たち十数人に囲まれた、腕から血を流し膝をつく父と、その眼前に刃を翳す井上みやびの前に、立ったのだ。


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