見誤るな
「状況を整理しましょうか」
 時刻は午後十時になろうとしていた。
 奉行所前から武家屋敷の一角を抜け、とある場所へ向かっていた松陽とその弟子三人。けしてゆっくりではない松陽の大きな歩幅に合わせて、弟子たちは早歩きで道を進んでいた。
 月明りを頼りに進む萩の城下町は、妙な静けさに包まれていた。その静寂に沿うように、松陽は弟子たちへ小さくもよく通る声で語り掛ける。
「私が堀田邸を訪ねた時に使用人の方から聞き出した話と、晋助が堀田家の子息から聞き出した話を合わせると、みやびが昨日から堀田邸へ帰っていないことはほぼ間違いない。少なくとも堀田家の人間はそう認識している」
 松陽は足の速さを緩めることもなく、淀みなく話を続ける。
「堀田家の子息は、みやびが明朝萩を出て叔父上と共に下関へ行くと聞かされていた。しかし、私が夕刻に隙を見て堀田邸へ侵入した際、みやびが住んでいたという離れの茶室で明らかに纏める途中だったと思われるみやびの私物が散乱していた」
 昼前に会ってから夜までの間に、いつのまにか不法侵入までやってのけていた松陽に高杉は最初面食らったが、おそらく松陽が捕らえられるという話がなければ遅かれ早かれ自分も同じことをしていただろうと驚きは共感に変わっていた。
 前を歩く大きな背中を、彼は早歩きで追いながらじっと見つめる。
「そして晋助が同じく夕刻、その叔父上が寝泊まりしているという宿、山根屋に赴いたところ、部屋を引き払ってはいなかったが彼もみやびも不在であったと」
「ああ」
 日没前、奉行所前で夜通し張り込む前に訪れた宿屋に、やはりみやびはいなかった。一縷の望みを賭けて宿屋の人間に託してきた手紙には、下関へ行くという話を聞いたことと、明日の早朝にもう一度宿屋に行くことを記してきた。
 ただおそらく、もしもこの嫌な予感が当たっているとしたら、きっとみやびはそれを読むことはできないだろうとも思った。
「みやびが叔父に引き取られるかもしれないという話は、もう十日以上前から出ていた。彼女はそれを断るつもりで、堀田邸を出てこの町で一人で生きていく術をずっと探していたんです。加えて昨日の少し不可解な言動の数々。……彼女が自発的に下関行きを了解し、叔父上のところに身を寄せているとは考えにくい」
「それどころか……ひょっとしたら井上は、自分が何か良からぬ事態に巻き込まれそうなことを予感していたのではないですか?」
 左に差した木刀に手を添え、高く結った黒髪を揺らしながら桂がそう問いかける。松陽は間髪入れずに「私もそう思います」と答えた。
「その良からぬ事態が、みやびの叔父上の引き起こしているものなのか。はてまた彼もまた共に巻き込まれているのか。今はまだ分かりませんが、ともかくその叔父上かみやびに会ってみなければ何も始まらない」
「堀田家の人間が嘘ついてて、屋敷のどこかに罰で監禁されてるとかは考えられねーのか?」
「いいえ。屋敷は隅々まで調べました。たとえ彼女が何者かに捕らえられていたとしても、そこは堀田邸ではない」
「地下牢は? あそこには確か地下牢があったはずだ」
「ええ、調べましたよ。しばらく使われた形跡はありませんでした」
 松陽の歩みは、徐々に早くなっているようにも感じた。少しも悪びれる様子もなく不法侵入の結果を語る様子もどこか上の空で、高杉は彼の焦りを感じとる。
「後悔してるのか?」
 そう問いかけると、松陽は止まることも振り返ることもなく、しばらくの無言ののちにこう告げた。
「後悔してみやびが無事でいてくれるなら、いくらでもしましょう。……とにかく今は、彼女が残してくれたヒントを元に、何とか足取りを掴むしかない」
 亜麻色の腰まで届く髪が夜風に靡く。
 その向こうに、目的の場所が見えてきたのに高杉は気付いた。
『長州藩医学館』
 門の左右に置かれた松明が、その手書きの大きな看板を照らし出している。そこへ来るのは、井上平蔵がまだ健在だった頃に呼び出されて以来だ。
『万が一、私が明日顔を出さなかったら、その飴を長州藩医学館へ持ち込んで、それが一体どういうものなのか調べてもらってくれませんか?』
 そう言われ託されたあの何の変哲もない飴玉を、松陽は言われた通りに医学館へ持ち込んでいたようだ。
「昼過ぎに例の飴を持ち込んだら、夜には分析結果が分かると言われたので。少し遅くなってしまいましたが……」
「先生、ちょっと待ってください」
 やっと歩みを止めて、弟子たちの方へ振り返った松陽を呼び止める声が一つ。
 桂が険しい顔をして一歩前に進み出た。
「……可笑しい。こんな時間に松明が出てるなんて」
 彼のその一言に高杉はハッとする。萩に住み始めて日が浅い松陽と銀時は首を傾げているが、もともとこのような地方都市は夜の八時も過ぎれば、一般人の居住区である下町はともかく殆どの公的施設は門を固く閉じ見張り番以外はいなくなる。人の気配などほとんど感じられず、煌々と松明が焚かれることなど祭りの夜か非常事態くらいにしかない。
「何かあったのか?」
「分からない。ともかく……」
 すると桂の言葉を遮るように、門扉の横に設けられたくぐり戸が音を立てて開いた。
 中から出てきたのは、剃髪の三十代後半くらいの男性。彼は松陽と目が合うと、血相を変えてくぐり戸から飛び出してきた。
「吉田殿!! 良かった、お待ちしていたんですよ!!」
「松島先生、すみません遅くなってしまって……どうかされたんですか?」
 松陽に抱き着かんばかりの勢いで駆け寄ってくるその松島という男に、高杉は見覚えがあった。彼が去年の夏痘瘡を患った際利用した、天人の薬が彼の体の中でどう作用しているのか。その経過を見るためにも数度訪れたこの医学館で何度か目撃している。
 松島の勢いに気圧されながらも、松陽の目の奥に宿る焦燥の色が少し色濃くなったのが分かった。
「詳しい話は中で。今門を開けますから」
「いいえ、くぐり戸からで大丈夫です。それより……例の飴ですか?」
「……」
 松島医師は松陽の言葉に無言で頷くと、くぐり戸の元へ向かい長身な松陽が頭を打たないようにその上部に手を添える。
「さあ、とにかく中へ……吉田殿、その子たちは?」
「私の弟子です。みやびの友人でもあるので、何か役に立つことがあるのではないかと思って連れてきました」
「そうでしたか……さあ、君たちも早く」
 四人がそこを潜り抜けると、医学館の正面玄関の前で三人の大人たちが何か話し込んでいるのを発見する。
 見ればその正面玄関は引き戸が開け放たれ、建物の中からは最新式の蛍光灯による明かりが漏れている。
 やがて、その三人が門外から入ってきた彼らを視認したのか、走ってこちらに向かってきた。
 その中でとりわけ全力疾走してくる、女袴に編み上げブーツ姿の女の影に高杉はギョッとする。
「皆さん!! 吉田殿が……」
 最後に入ってきた松島医師が何かを告げる前に、女の影が松陽目掛けて突進する。銀時が木刀を構えるよりも早く、女は松陽の胸倉に掴みかかった。
「アンタね、子供から呑気にあんなもの預かったっていう馬鹿は」
 女が肩にかけていた純白の羽織が地面に落ちる。長い黒髪をかんざしでゆったりと束ねたその三十路半ばくらい女は、一年前謎の天人製抗ウイルス剤を手に高熱を出す高杉の前に現れた、あの魔女だった。
「貴方は……?」
「おいババアッ!! 先生を放せっ、出会い頭に何やってんだテメェ!」
 問答無用で魔女に対して殺気を剥き出しにする銀時に不穏な空気を感じ取った高杉は、慌てて彼女の袂を引っ張りそう怒鳴る。すると魔女、楠本女医は横目で高杉の存在を確認するが、無視してさらに松陽を掴む腕に力を籠める。
「楠本先生、落ち着いて! まずは状況説明を……」
「言いなさい。子供は、平蔵の娘は今どこにいるの!?」
 周りにいた他の医師たちが慌てて引き剥がそうとするも、楠本は松陽の胸元を乱しながらその場を梃子でも動こうとしない。その掴まれた松陽の体も、微動だにしていなかったが。
「みやびの居場所は、昨日の夕方から掴めていません」
 不自然なほどに感情が押し殺された声で松陽が事実を告げると、楠本の長いまつ毛に縁どられた眼がこれでもかと見開かれる。
「お願いです。力を貸してください。……今はとにかく時間と情報が惜しい」
 そして、丁寧に、しかし有無を言わさぬ力で楠本の手を退けると、松陽はその場で医師たちに深々と頭を下げる。
 高杉は、そっと楠本の袂を放した。視界の端で銀時が木刀を引いたのを見たからだった。
 そして、頭を下げ続ける松陽の眼下に、楠本は懐から取り出した親指大の何かを投げ捨てる。
「苹果汪(へいかおう)」
 半透明の包み紙に包まれたそれに視線を落としながら、楠本は吐き捨てるようにそう告げた。
「馬鹿な天人が持ち込んできた、新種の違法薬物よ」
「……」
 松陽は、静かにその場へ膝をつき、土の上に転がったそれを摘まみ上げる。
 禁断の果実の名を掲げたその毒薬を、感情の読めない瞳が見つめている。
「ここから何十光年も離れた辺境の星でしか採れない、ラミアという植物の蜜から生成された所謂抑制剤に分類されるものね。ただ、様々な脳への刺激を抑制し神経伝達の水準を低下させる一般的な抑制剤とは一線を博す効果が、これにはあるの」
 松陽がゆっくりと立ち上がる。飴玉を握り締めながら楠本を見据える彼を、三人の弟子が不安げに見上げていた。
「洗脳作用」
 一瞬、松陽の目が見開かれる。高杉の心臓も、ドクリと嫌な高鳴りをその体内に響かせた。
「服用中に第三者が何か強い思想や命令を言い聞かせ続けると、服用者がやがてそれを自分の意志と勘違いして行動を始めてしまう。一、二度の使用ならそれはまだ深層心理に軽い暗示を掛ける程度だけれど、回数を重ねるごとに洗脳の効果は高まり、十回も使えばほとんど命令以外のことは考えられない廃人が完成するわ」
『死ねっ、死ねっ、死ねっ、死ねっ、死ねえええ!!』
 みやびの口から出た、彼女が言うはずもない呪詛のような言葉を思い出す。
「……その効果と食べやすい林檎のような風味をしていることから、江戸では飴玉やラムネなんていう菓子類に加工されて、違法組織が自己啓発セミナーだのヨガ教室だのを名目に若い女を集めて配り歩いているわ。洗脳して、色町やよその星に売り飛ばすためにね」
 楠本は足元に落ちた自身の白い羽織を拾い上げると、今度はそれにしっかりと袖を通した。
「本来なら、こんなド田舎でお目にかかることなんて滅多にないのだけど……一か月前、下関の港で大量の苹果汪が密輸されているのが発見されたそうよ。売人は一斉検挙されてその殆どは回収できたそうだけど、入港直後に取引したという攘夷浪士が、売った十キロの苹果汪と共に行方をくらませたまま」
「攘夷浪士っ……!?」
「みやびが、攘夷浪士と接触してる可能性があるってことか……?」
 桂が驚きの声を上げ、それに追従する形で銀時が険しい顔をして問いかける。
「娘がたまたまどこかでこれを入手したのか、それとも娘自身がこれを使われていて、違和感を覚えたからアンタに託したのか。どちらかは分からないけれど……いずれにせよ、娘の消息が分からないなら攘夷浪士絡みの厄介な事件に巻き込まれているのはほぼ確定と思いなさい。ともかく今は……」
「使われてる」
 その時、高杉と松陽の声が重なる。
 ハッとして高杉が松陽を見上げると、彼は俯き、悔し気に顔を歪ませて苹果汪を握り締めていた。
「使われています、確実に」
 一瞬だけ見せた深い悔恨は、高杉が瞬きをする間に消え去る。松陽は次の瞬間には再び顔を上げ、強い力を持った眼差しで医師たちを見つめた。
「みやびにこの薬を与えたのは、おそらく川瀬与市という長府藩の藩医です」
「長府藩の、藩医?」
「最近現れた、みやびを引き取りたいと言っている彼女の母方の叔父です。彼女の様子がおかしくなり始めた頃と現れた時期も合致する」
「待ってください。でも、苹果汪を持って逃げているのは攘夷浪士なんでしょうっ? どうして藩医なんかが……」
「それは分かりません。彼自身が攘夷浪士の仲間か、脅されてやったことか、はてまた彼自身も薬で洗脳されているのか……しかし少なくとも、みやびに薬を手渡したのは彼のはずです。見ず知らずの人間から渡された飴を、彼女が何の疑いもなく食べるとは考えにくい。……それに、彼の住まいも確か下関です」
「そういえば……明日の朝、二人が下関に発つらしいってみやびが身を寄せてた家の息子が言ってたな」
 ふと思い出したことを高杉が口走ると、楠本が険しい顔をして右手を顎に添える。
「まずいわね……下関に連れ去られたらアウトよ。そこから船で江戸まで移動されて、奴隷商に売られかねない」
「!!」
 その場にいた全員の脳裏に、最悪の結末が過る。
 このまま永遠に、みやびと会えなくなってしまうかもしれない。それどころか、どこかの星に奴隷として連れていかれてしまう可能性が高い。
 高杉は無意識のうちに、懐に手を当てていた。その中に大事に仕舞ってある、梅の刺繍が施された藍色のハンカチを着物越しに握り締める。
『……探しに、来てくれるの?』
 その時、いつかの夜に交わした約束が、高杉の脳裏に過った。
「下関へ抜ける街道を張りましょう!! 闇雲に探すより、そちらの方が確実です!!」
 最初に声を上げたのは、最初に高杉たちと遭遇した松島医師だった。
「いや、萩港から直接船で向かう可能性だって残っている。港も見張るべきだ」
「人手が足りないわね……奉行所の連中を叩き起こすべきかしら」
「奉行所は……」
 今しがた四人がしでかしてきたことを思えば、奉行所を頼るのは得策ではない。しかしそんなことを言っている場合ではないほどに、迷っている暇も人員を選んでいる余裕もないことは、おそらく全員が把握していた。
 どうすればいい、考えろ。みやびの顔がちらつき今すぐにでも夜の町に一人で探しに行ってしまいたくなるのを懸命にこらえながら、高杉が思考を巡らせていたその時だった。
「高杉」
 名を、呼ばれた。
 顔を上げると、覚悟を決めたような精悍な顔つきをした桂が、まっすぐこちらを見つめていた。
「大忠太殿を頼ろう」
 数秒かけて、己の顔が強張っていくのが高杉は自分でも分かった。
「……正気か。あいつは」
「言いたいことは分かる。だがもうこの町で、他の適任が思いつかない」
 神童の強い眼差しが迫ってくる。高杉と同じくらいの大きさの手のひらが伸びてきて、強く彼の両肩を掴んだ。
「彼が動けば彼の弟子も動く。直目付としての権限もある。……井上先生の忘れ形見が危ないと知れば、きっと力を貸してくれるはずだ」
「その井上先生を日和見決め込んで殺したのは誰か忘れたのかっ!?」
「日和見などではないっ!!」
 思わず桂の胸倉に掴みかかった高杉の肩を、彼は強く握って揺さぶる。
「あの時、彼にああする以外の道はなかった……!! 本当はお前だって分かっているんだろうっ!?」
「!!」
 黄味の強い褐色の瞳が、強く高杉に訴えかけてきていた。
「あの夜、俺たちは誰も悪くなかった……!! 敵を見誤るな、俺たちの仇は大忠太殿ではない!!」
「……テメェ!!」
 咄嗟に振り被ってしまった右手の拳に、桂が目を閉じ僅かに顔を右に逸らしてその衝撃に耐えようと身構えるのが分かった。それでも、行き場のない八つ当たりを止める気は高杉にはなかった。
 それをいとも簡単に止めたのは、先ほど己に拳骨を見舞った大きな手だった。
「晋助、拳を収めなさい。今は喧嘩をしている場合ではない」
 ビクともしない利き腕に、思わず松陽を見上げる。前髪が作る影が、彼の目元を暗く覆っていた。
「小太郎、その案でいきましょう」
「っ、先生!!」
「君たちと晋助のお父上、それから井上親子に何があったのかは知りません。……けれど私も、彼なら力を貸してくれるような気がします」
 高杉を桂からある程度離してから、松陽はその手を解放する。掴まれていた手首を擦りながら、話がまとまりそうな大人たちを無言で睨みつけるくらいしか高杉にできることはなかった。
「時間が惜しいわ、とりあえずここにいる人間で手分けしてやるべきことをやるわよ」
「何手に別れましょう? 高杉殿のお宅へ行く組、萩港、街道……」
「一度、川瀬が滞在していたという宿に行ってみてもいいですか? 夕方の時点ではまだ引き払っていなかったようですし、まだ荷物が残っているようなら事情を話して部屋を見せてもらいます。それに、店の者が何か知っているかもしれない」
「なら四手ですね。どのように分けましょう? 吉田殿はその宿に向かうとして……」
「俺、こいつとこいつん家行くわ」
「!!」
 矢継ぎ早に話を進めていく大人たちに気を取られていた高杉は、いつの間にか隣に来ていた銀時の存在に気付かなかった。
 今までほとんど発言もなかった割に突然大人たちの話し合いに割って入った彼は、小指で耳をほじりながら松陽の方へ視線を向ける。
 対する松陽は、しばらく真顔で彼を見つめる。
「おい、勝手に何決めて……」
「お前ん家だろ、お前が頭数に入るのは当然だろ。大好きなガールフレンドのピンチなんだから、泣いてパパに助け求めるくらいのことはしろ」
「テメッ……!!」
「おめーがやらねェなら俺がやる」
 高杉の方を一切見ずにそう告げる、銀時の赤みを帯びた瞳がここではないどこかを見つめている。
「それでみやびが見つかるなら、土下座でもなんでもしてやるよ」
「……」
「つーわけだ。こっちは任せろ、松陽」
 生意気そうな笑みを浮かべてそう宣言する弟子に、松陽はやがて微笑み「ええ、お願いします」と返した。
「なら私も大忠太のところへ行くわ。子供二人で夜道歩かせるわけにはいかないし、あの男には貸しがあるからね。いざとなったらそれ盾にして是が非でも動かしてやるわ」
「え、いやでも……もしかしたら攘夷浪士と遭遇するかもしれないってのに、子供二人と女性一人っていうのは……」
「失礼ね、アンタたちより強い自信はあるわよ」
 そう言って着物の袖の中から無数のメスを取り出す魔女に、心配していた医師がギョッとして後ずさる。まさかの得物に松陽も桂も若干引いているのが分かった。
「え、なにあのオバサン、ブラックジャック先生に憧れちゃった感じ? ちょっと自分の歳分かってる? すげー痛いんだけど……ギャーッ!?」
 高杉に耳打ちしてくる銀時の頬をメスがかすめ悲鳴が上がる。実は一年前似たようなやり取りをすでにしている高杉は、同じ轍は踏むまいと終始無言を決め込んでいた。
「ま、まあ、楠本先生も腕は立つようですし、銀時も晋助も自分の身くらいは守れる実力は保証しますから、問題ないかと」
「なら、楠本先生と彼らが高杉邸ということで」
「決まりならもう行くわよ。ここの初動が遅れると後に響くわ」
 提灯取ってくる、と他の医師たちの返事も聞かずに医学館内へ戻っていく楠本を横目に、松陽が高杉と銀時の方へ歩み寄ってくる。
「晋助」
 しゃがんで彼らの背丈に目線を合わせた松陽は、おもむろにその名を呼ぶ。呼ばれた本人は、どこかバツが悪くてその目を直視できなかった。
「いいですか、もう一度言います」
「……?」
「私は、君だって諦めませんよ」
 その言葉に、深緑色の瞳が、恐る恐る前を向く。
「私の弟子になることで、君に家族を捨てさせる気は無いと言ってるんです」
「!!」
 どうして。
 その問いかけは声になる前に、編み上げブーツが土を蹴る音が戻ってくる。白い提灯を持った楠本が高杉と銀時に声を掛けた。
「さあ、行くわよ! 晋坊とそこの白いの!」
「おいこらババァ、テメェさっきから初対面の人間に対する態度が横暴すぎじゃねーか?」
 抗議しながらもその背に付いていこうとする銀時が、高杉を気にするように少しだけ振り返る。
 高杉はそれに気付いていたが、なかなか松陽から目を逸らすことはできなかった。
「高杉!」
 耐えかねた銀時がその名を呼ぶ。刹那、一瞬だけ目を閉じた高杉はようやく銀時と楠本の背中を追い始める。
 考えることが多すぎて、もう何から手を付ければいいのか分からなかった。
 ただ、とにかく今はみやびに逢いたいと。
 それが一番の願いであることだけは分かった。


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