松下村塾へようこそ
 萩の町に夜の帳が下りる。
 午後九時過ぎ。高杉は冷え込む寒空の下で、奉行所の塀に凭れ掛かり、首に巻かれた灰色の襟巻に鼻先を埋める。
『坊ちゃん。夜は冷えますから』
 帰宅早々、自室にあった木刀だけ持ってまた出掛けようとする悪ガキに、女中頭は訳も聞かずそっとそれを巻いてくれた。
 自分が今からしようとしている行為は、きっと今以上に大忠太の立場を悪くする。それが分からないほど子供ではなかった。
 大忠太だけではない、きっと高杉家全体に泥を塗りたくる行為だ。
 いつも母親のように世話を焼いてくれる女中頭に、口煩くとも最後には父から自分を庇ってくれる甚兵衛、坊ちゃんと呼び慕ってくれる使用人たちに、幾人か顔の浮かぶ親類たち。
 彼らのことが嫌いなわけではない。それでも、彼らを切り捨てなければ護れないものがあるとするならば、自分は正真正銘のろくでなしにならなければならない。
「高杉」
 眉間に皺を寄せそんな考えにとりつかれていた高杉を現実に引き戻したのは、聞きなれた腐れ縁の声だった。
「こんな夜更けに遊び歩いていいのか? 今度こそ勘当されるぞ」
 全く咎めるような気配は感じさせない、淡々とした問いかけ。高杉は声の主、桂小太郎の方は見ずに口を開く。
「心配いらねェよ。どうせ明日には勘当される身だ」
「……」
「桂。お前こそこんな所で夜遊びしてたら、折角の特待生も取り消しだぜ」
 奉行所の門前の道を挟んで反対側、民家の塀にそっと背を預けた桂の方を、目だけ動かして見据える。彼は相変わらずの優等生然としたすまし顔で、真一文字に口元を結び腕を組んでいた。
「心配いらん。丁度くだらんゆとり教育にはうんざりしていた所だ」
 そう告げる彼の腰には、高杉と同じように木刀が差してある。
「夜になる前に逃げるよう伝えておいた。借りは返さんとな」
「……」
 昨日の診療所で目の当たりにした、桂の怯えるような表情を思い出す。
 この男は、桂家の当主としてその復興を第一の目標としてずっと掲げてきたはずだった。高杉や堀田とはまた別の、お家を守るための忍耐を強いられてきたはずだ。
 本当に良いのかと、口に出して問いかけようか迷っていたその時。桂の視線がふと高杉の方へ向く。
 その意図を汲んだのか、彼はそっと微笑んだ。
「俺も同じだよ、高杉」
 投げかけられた言葉に、高杉はゆっくり目を見開いていく。
「今度こそ護りたい。……ただ、それだけだ」
「……俺は」
「みなまで言うな。……なに、名門講武館きっての神童と悪童がもう一度組むんだ。今度こそ、役人の足止め位はたやすかろう」
 背後のずっと先で、重たい奉行所の門が開いた音が聞こえる。幾人かの気配が出てくるのを感じながら、高杉は桂と視線を合わせる。
 きっと同じではないと思った。
 自分のこの気持ちは、桂のような美しい義憤ではない。
 晒された平蔵の首へと捧げられた、白い百合の花束を思い出す。それを投げ入れそっと手を合わせる桂小太郎と、きっと自分は一生薄暗い感情を共有することは無いだろうと思った。
 高杉が護りたいと思った綺麗なものの中には、桂があの日見せた強さも入っていた。
 やはり巻き込めない。お前はお前の目的のために生きるべきだ。そう告げるために高杉が口を開こうとしたその時だ。
「名門の二人? 笑わせるな」
「!!」
 奉行所とは逆側の道の向こうから、小さな影が忍び寄ってくる。
「国家転覆を狙う反乱分子を育成する悪の巣、松下村塾の悪ガキ三人の間違いだろ」
 今は地平線の彼方にある、太陽の光を受けて光る月のように。
 鈍く輝く銀色を思わせる少年は、木刀を携えそこに立っていた。
「お前は……!! 何故ここに!! 逃げろと言ったはず……」
「そりゃ松陽の話だろ。なんで俺まで逃げなきゃならねェ」
 昨日脱臼したはずの利き腕の肩を回し、その手で気だるそうに鼻をほじる少年。坂田銀時を高杉は無言で睨みつけていた。
 何となく、予感はしていた。桂が詳細を伝えていたのなら、この男はきっとここへ現れるだろうと。
「それに、学校のサボり方から夜遊びまで覚えたんだ。もうテメェらは立派なうちの門下だ。別れの挨拶位くるさ」
「……」
「もうこれで充分だ。あとは俺がやっから、お前らは手ェ引け」
 そしてきっと、そう言うだろうことも。
「どうせ俺と松陽は流れ者だ、居場所なんざどうにでもなる。だがお前らは違う。これ以上関わったら戻れなくなるぞ」
 士籍を失いてェのか。そう忠告する背中は、独りで何もかもを抱え込み、人に頼ろうとしない危うさをこれ以上なく表している。
『ご立派なお父上も帰るべき家もあるのに、どうしてこの子がいつも独りで戦うような顔つきをして剣を握るのか、私は不思議でならなかった』
 なるほど、あの男の目に自分がこう映っていたのなら、確かに放ってはおけないだろうな。そう一人合点して、高杉はその一歩を歩みだした。
「戻る場所なんぞあったら、ハナからこんな所に来ねェ」
 それを捨てる覚悟で、ここへ来たのだ。
「お婆が死んでから、既に天涯孤独の身。元より、この身を案ずる者などいない」
 それでも別の守るものがあったはずの男も、今のこの少年の行動で完全に火が付いてしまったようだ。
「何より士籍などという肩書が必要なものには、もうなる気はない」
「もしそんなもんがあんなら、誰に与えられるでもねェ」
 奉行所前から、遠く萩の町の外れ、松下村塾まで続く長い道に、三人の少年が立ちふさがる。
「この手で見つけ」
「この手で掴む」
 そっと木刀を抜いた二人の淡い影を、銀時は眠たそうな半開きの目でジッと見つめていた。
「そうか……じゃあもう何にも言わねェ」
 そう告げる口元は、ほんの少しだけ笑みを浮かべていた。
「おい、そこの童ども。こんな夜更けに何をやっている」
 いつの間にか、役人たちはその視界に高杉たちが入るほどまで進んでいたらしい。道の先に立つ年端もいかない少年たちの影を捉えた彼らは、その顔を見ようと手にした提灯を翳す。
 それがまず映し出したのは、鈍く光る銀色だ。
「松下村塾、吉田松陽が弟子。坂田銀時」
「同じく、桂小太郎」
「同じく、高杉晋助」
 三者が名乗りながらそれぞれ木刀を構える。奉行所の役人たちの顔に動揺が走る。
「参る!!」
 そして、彼らは同時に叫び、駆けだした。
「なっ、なんだこのガキども!?」
 役人たちが戸惑いながらも思わず真剣を抜いた、その時だった。

「抜かないでください」
 その男は、暗い場所に静かに佇んでいた。

「!!」
「そのまま剣をおさめていただきたい。両者とも」
 役人たちの背後をとっていたその男は、鯉口を切ることも鞘に左手を添えることすらしないまま、悠然と語り掛けている。
「どうか私に、抜かせないでください」
 そう言って役人たちの間をゆっくりと歩く、吉田松陽その人に高杉は声を失う。
 どうしてわざわざこんなところに、早く逃げろ。言いたいことはたくさんあったが、何一つとして口から出ることは叶わない。
 松陽の纏っている空気が、昨日病室で大忠太に見せたそれと同じだったからだ。
「吉田松陽、貴さっ……」
「私のことを好き勝手吹聴するのは構いません。私が目障りならどこへなりとも出ていきましょう。……ですが」
 松陽はやがて役人たちの群れを抜ける。
 次の瞬間、彼らが構えていた刀が全て、音を立てて砕け散った。
「それを私の教え子たちに向けるのならば、私は本当に国家くらい転覆しても構いませんよ」
 抜刀した素振りは、少しも見せなかった。
 低い声が脅しに聞こえない恐ろしい言葉を紡ぐ。男たちの顔は、途端に凍り付いた。
「ひっ、ひいィィィ!!」
 引きつった悲鳴を上げながら散り散りになって逃げだす役人たちを、松陽はしばらく見据える。
 無数の足音が遠退き、やがて完全に聞こえ亡くなった頃。ようやく彼は三人の方へ向き直った。
 その顔には、いつもの人の好さそうな笑みが浮かんでいる。
「……松陽」
「やれやれ。教え子は巻き込まないようにみんな家に帰したつもりでしたが、こんなところにもまだ残っていましたか。悪ガキどもが」
 その口調に責めるような意図は感じられず、むしろどこか嬉しさすらにじみ出ていた。それに安堵しながら、高杉は強張った自身の顔から少し力が抜けたのを感じる。
「でも、すみません。二人とも」
 済まなさそうに眉尻を下げる松陽は、高杉と桂にそう謝罪する。
「君たちはきっと、たくさん悩んでここに立つ決意をしてくれた。けれどもう、松下村塾は……」
「心配いらねェ」
 その目に浮かぶ辛そうな色を見ていられなくて、高杉は松陽の言葉を遮るように声を上げた。
 松陽が驚いたように高杉を見つめる。いつの間にか、高杉の顔にはいつもの不敵な笑みが戻っていた。
「俺が護りたかったのはアンタだ。松陽先生」
 初めて本人を前にして、そう呼べた。
 豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしている松陽に、高杉は何故だか妙に嬉しさが込み上げてくる。
「先生。我等にとっては、先生がいる所なら野原であろうと畑であろうと、学び舎です」
「それに、アンタの武士道も俺たちの武士道も、こんなもんで折れるほどヤワじゃないだろ」
「……君たちは」
「君たちじゃねェ」
 高杉は木刀を肩に担ぎ、松陽をまっすぐ見上げる。
「俺は高杉晋助」
「桂小太郎です、松陽先生」
 二人が名乗る様を、松陽は瞬きを幾度か繰り返しながら見つめていた。
 やがて、その口元に柔らかな弧を描くと、そっと口を開く。
「晋助、小太郎」
 何か大切な気持ちでも確認するように、ゆっくりとその名は紡がれた。
 高杉は、己の心にも大切な炎が灯った気がした。
「……やれやれ。こりゃまた銀時以上に生意気そうな生徒が入ってきたものだ」
「俺の可愛げに溢れる態度に感謝する時が来たぜ、松陽」
 したり顔でほじった鼻くそを道端に弾く銀時に、松陽は考えの読めない微笑みを向ける。
「そうですか。……では早速、そんな可愛い生徒たちに、路傍で授業を一つ」
 そして高杉は、月夜に翳された男の拳骨を、ほんの一瞬だけ見上げることができたのだった。
「ハンパ者が夜遊びなんて百年早い」
 次の瞬間走ったのは頭部への激痛。けれど何故だか、己の父に振るわれる拳より温もりを感じた。体は痛かったが、心は痛くなかった。
「松下村塾へようこそ」
 いたずらっ子のように弾んだ声がそう告げる。土煙舞う中でこちらを見下ろしてくるその男に、引きつってはいたが高杉は何とか笑みを返してみせた。
 すると、松陽は少しだけ目を細める。そして静かな声でこう告げたのだ。
「さあ、もう一人の問題児を迎えに行きましょうか。みんなで」


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