いらねェよ
『高杉。お前はもう、侍になんてなれんよ』
 皮肉にも、高杉晋助の箍を外したのは、そんな嘲りの言葉だった。
 太陽が高い場所から少し西へ傾いた頃、齢十一の少年は神社の静謐な空気で肺をいっぱいに満たした。つい数分前まで無数の怒号と悲鳴が飛び交っていたその場は、すでに静まり返り風に靡く羽音や小鳥の羽ばたきばかりが小さく響いている。
 強く握りしめていた、己の腕の長さほどの棒切れを右手から落とす。少年の周りには、九人の傷付き意識を失った少年と人数分の竹刀が転がっていた。
「どうなっても、知らんぞ……高杉」
 理由あってわざと止めを差さずにおいていた男がそう呻くのを、冷たく見下ろす。自分がこの先どうなるかなど、今の高杉には毛ほども興味がなかった。
「おい、いくつかテメェに質問がある」
 うつ伏せで倒れている堀田兄を、つま先で蹴り上げて仰向けにさせる。何度か咳をこぼした彼を鬱陶しそうに睨みつけながら、高杉は左目に掛かった己の前髪を掻き上げる。
「松下村塾が本当に攘夷思想を説いているかどうかは、この際どうでもいい。……この藩の中枢は攘夷派に乗っ取られているんだろう。それなのにどうして、同じ攘夷派とされているあそこが潰されなきゃならねェ?」
 高杉の低い呟きに、堀田は浅い息を幾度か繰り返したのちに目を細める。
「ハッ! 愚かな質問だな。……奴らは自身が助かるために、同志の首を刎ねながらずっと将軍の注意を逸らしてきたんだぞ」
 心底忌々しげに吐き捨てる堀田とは対照的に、高杉に表情は無い。
「あいつらは、攘夷なんて本当はどうでもいいんだ。ただ、国を揺るがすような攘夷思想にかこつけて、あわよくば自分たちが安全にこの国を乗っ取りたいだけなんだよ」
「……」
「だから、あの私塾が本当は何を説いていようと関係ない。いつか来るかもしれない好機まで、どうでもいい連中に適当に罪名を与え捕まえて、自分たちは佐幕派だと定々にアピールしたいだけだ」
「吉田松陽が、その生贄に選ばれたって言いたいのか」
 高杉の問いかけに、堀田はその口元を真一文字に結ぶ。
「テメェの親父は、政の場でその卑怯者たちと戦うために、井上平蔵を殺したんじゃねェのかよ」
 むせ返るような線香の煙の中で、仏壇と向かい合い項垂れる父の姿が脳裏をちらつく。
「……今はまだ、無理だ」
 少年の瞳は、動揺からか高杉の視線から逃れるように泳いだ。
「奴らの勢力が大きすぎる。……父上は、機を伺っておられるのだ。だから今は耐えて、奴らの言う通りに適当な人間を差し出し……」
「今はまだ無理、言うことを聞くふりをして機を待つ。……テメェら、結局敵と同じことしてるだけだろうが」
 高杉の右手が、少年の胸倉を掴んで引き寄せる。
「どうせ父親の受け売りなんだろう。お前自身の頭で考えて、それは可笑しいと思わねェのか?」
「……」
「テメェの親父が、あの人畜無害なお医者に重たいもん全部背負わせて、挙句大罪人として首を刎ねさせてまでしたかったことが!! そんなちんけな犬の真似事でいいのかって訊いてんだよ!!」
「俺は父上を信じている!!」
 その泣き出しそうな叫び声に、高杉は言葉を詰まらせた。
 泳いでいたはずの堀田の視線はもう逃げなかった。潤みながらもまっすぐに彼を睨み返している。
「ろくでなしのお前には分からんだろうがな、子は親を信じるものだ!! 井上医師も、あの娘も、父上が仕方のない犠牲だったと言うなら俺はそれを信じる。それが正しかったんだと信じて、俺なりに証明し続けるしかないだろうが!?」
 窮鼠が猫を噛もうとしているような、必死な言葉だった。けれどそれは高杉に向けられた言い訳には聞こえず、むしろ己へ言い聞かせているようにも思える。
「だから俺は、あの娘のことをずっと許さなかった!! 大義のためには必要な犠牲だったのだ!! なのにあの娘は道理などまるで解さずに、世話をしてやっている堀田への恩を返そうともしないっ」
 高杉を睨み上げる、その三白眼が涙を湛える。
「毎日死に場所を探すあの姿を、可哀想だと、申し訳ないと思ってしまったら……俺は!! 俺、は……」
「自分たちの非を認めなければならなくなる、か?」
「……」
 堀田の頬を、一筋の雫が伝った。それを恥じるように背けられる顔を、高杉は思い切り殴りつけた。
 堀田の体が石畳に転がる。うつ伏せに倒れ込んだまま咳き込む彼の背に、高杉は声を浴びせた。
「憶えておけ。テメェの親父と俺の親父は、理想のためなどではなく、保身のために一組の親子の人生をこれ以上なく辱めた。その事実は未来永劫、変わることは無い」
「ゴホッ、ケホッ……」
「もう侍になんてなれない? ハッ! 俺ァ端から、そんなもんのために今まで耐えてきたわけじゃねーよ」
 まだ幼さを残す小さな唇が、酷薄そうな笑みを浮かべる。
「けど、俺はろくでなしだからなァ。お坊ちゃんみたいに、思考停止してパパの言いつけだけ守って生きるくらいなら、どこかで独り野垂れ死んだ方がずっとマシだ」
 高杉の腹の中で、バラバラに引きちぎられたはずの武士道の出来損ないが、集まり形作ろうとしていた。
 阿呆どもを無我夢中で薙ぎ倒していた時からもう、自分がこの先どうなろうと関係ないとは思っていた。
 けれど今やっと、高杉は自分の身の振り方に決心がついた。そのことに関してだけは、この世界で最も似た立場にいるこの少年の存在に、感謝していた。
「それを守るために他の大切なモン全部諦めろってんなら、俺はもう、家族なんていらねェよ」
 恐ろしいほどに温度を感じない声で告げられた宣言に、堀田が小さく息を呑む。次の瞬間、高杉は彼の髷を鷲掴みにしてその上体を無理やり起こす。
「いっ……!!」
「さァ、次の質問だ」
 井上みやびは今どこにいる?
 音に乗せた彼女の名はどこか甘く、そして異様な執着が垣間見えた。少なくとも己の声を己の耳で聞いた高杉自身は、そんな感想を抱いた。
「し、知らないっ……!! 昨日から見ていないっ!!」
「なら知っていることは全部吐け。俺はみやびほど、可愛い握力じゃねーからな」
 左手で髷を掴みながら、右手を堀田の首筋に這わせる。耳元で囁かれた楽しげな脅し文句に、堀田は声を引きつらせた。
「きっと、あの叔父だという医者のところだっ!!」
「……叔父?」
 聞き返す高杉に、堀田はこくこくと必死に頷く。
「か、川瀬とかいう長府藩の藩医だっ! あの娘の実の母親の弟と言っていた!」
「……どうしてみやびが、その母親の弟のところにいるんだ」
「一緒に、住むとか言ってた。下関で……だから、明朝この町を出ていくと」
 堀田の髷を掴んでいたその手から、力が抜けていくのが分かった。
 膝から崩れ落ちた堀田は体を反転させると、悲鳴を上げて尻もちをつきながら後退する。高杉はその様子を眺めながらも、意識は別のところへ向かっていた。
 何かの間違いだと思った。
『大丈夫。もうどこにも行かない。……そんなの、私は望んでない』
 何故ならみやびはつい昨日、そう言ったのだ。祈るように高杉の手を握りながら。
 高杉は彼女の姿を思い返しながら、まだ包帯の巻かれている左手にそっと視線を落とす。
「お前たち、みやびを早く厄介払いしたくて、そんな話を持ってきたのか」
 歯を剥きだす高杉の口元は、笑っているようにも、何かを耐えて歯を食いしばっているようにも見えた。
「みやびの後見人はそんなに重荷だったか? 堀田さんよォ」
「そうじゃない!! 川瀬の方から申し出てきたんだっ!」
 堀田の叫びはまるで命乞いでもするかのような悲痛さが帯びる。
「井上みやびだって乗り気だったっ!! 買ってもらった綺麗な着物を着て、毎日美味いものを食べに連れて行ってもらってっ! 下関に行けば、あの女をことを知る者もそう居ないだろうし、この町にいるよりはずっと、あちらにいた方があの女にとっても幸せ……ひっ!?」
 足元に転がっていた、誰の物とも分からぬ竹刀を堀田に向けて振り被る。頬を掠ったそれを横目で一瞬捉え、堀田は涙を流すことすら忘れ震えていた。
「お前が、お前なんかが、みやびの幸せを語るな」
 堀田の目に、紫がかった黒髪の間から覗く、怒りで爛々と輝く深緑の瞳が映る。小高い神社の境内に吹き付ける冷たい風が、高杉の黒髪を躍らせながら悪戯にその悪夢のような輝きを隠したり露わにしたりしていた。
『みやび、おいで!』
 両手を広げそう呼びかける父親の元へ、一直線に駆けていく小さな背中を、高杉は昨日のことのように思い出せる。
 あの幸せを壊したのは、他でもない。
「その川瀬って男は、どこにいる?」
「……山根屋という、中心街から、少し外れたところにある……宿、だ」
「なら、吉田松陽を捕えるために役人が動くのは何時ごろだ?」
「く、詳しくは、分からない……けど、たぶん日が沈んでから、日付が変わるまでの間っ」
 高杉の問いかけに、堀田は掠れた小さな声でしどろもどろに答える。それを聞くや否や、高杉は羽織を翻し踵を返して神社を去ろうとする。
「どうしてお前は、そこまで井上みやびや吉田松陽に固執する!?」
 しかし背中に投げ掛けられた純粋な疑問に、高杉の歩みは止まった。
「俺たち武家の長男にとって、何よりも大切なのはお家を守ることのはずだっ! お前にとってあの者たちは、お家より、家族よりも大切なものだとでもいうのかっ!?」
 高杉は、まるで自問自答でもしているかのような男へ、少しだけ振り向く。
 そしておもむろに唇を開けた。
「なァ、知ってるか。この世には、守るお家や振るう剣など持たなくとも、志を持って何かと戦う生きとし生けるもの全てを、侍だと認めてくれる馬鹿がいるんだぜ」
 その声は、どこか楽しそうに弾んでいた。
「馬鹿だけど、綺麗だと思った。まるで朝焼けみたいにキラキラして、希望に満ちていて、俺もそんな風に考えられる人間になりたいと思った」
 口角を上げた高杉は、やがてそっと目を閉じる。
 瞼の裏に浮かぶ、彼にとって飛び切り美しいもの。松陽の武士道、銀時の剣筋、門下生たちの屈託ない笑顔、それから。
「綺麗なものを汚いものから護りたい。至極真っ当な本能だろう?」
 井上みやびの、その心。
 呆然と座り込んでいる堀田を一瞥し、今度こそ高杉は真っ直ぐ前を向いて歩き始める。
 もう迷いはなかった。未練はなかった。
 今度こそ、護ってみせると決意する。たとえ、この身が持っている他の全てと引き換えにしても。


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