君を迎えに行く
 神無月が終わり、霜月最初の朝に高杉晋助は独り自室で目を覚ました。
 部屋の壁にある掛け時計が指し示す時刻は午前六時。すでに屋敷の中には人が動く気配がするが、いつもの自分の起床時間よりは三十分ほど早い。枕の上に頭を置いたまま、目を閉じたり天井をぼーっと眺めたりを繰り返した。
 夢を見ていた気がした。幸せな夢だった気がするが、内容は覚えていない。その消えてしまった正体も分からぬ幸福感と、今日からまた始まる虚無を思って、髪をぐちゃぐちゃにしながら寝返りを打つ。
 二度寝は無理と判断したのは、それから十五分後のことだった。障子越しに差し込む朝日を鬱陶しいと思いながら、布団を蹴り飛ばしおもむろに起き上がる。寝起きが悪い彼にしては珍しく、あくびではなくため息が漏れた。
 顔を洗うために寝巻のまま部屋を出ると、偶然水場の周りで洗った洗濯物を籠に入れて運ぶ女中頭に出くわす。
「あら坊ちゃん、おはようございます。今日はお早いんですね」
「ああ、おはよう。……なんか目が覚めちまった」
 笑顔で挨拶をしてきた彼女に、寝巻のはだけた襟元から右手を突っ込み脇腹を掻きながら寝ぼけ眼でそう返す。そんな高杉の年相応な行儀の悪さにも、彼女は比較的目を瞑ってくれる使用人だ。
「きっとお腹が空かれたんですね。ご飯は多めに用意しておきますから、ご準備ができたらいらしてくださいね」
 そう言って庭の方へと去っていく彼女の背を眺めながら、そういえば昨日は晩飯を抜かれたんだったと彼は思い出す。
 本当なら、いつも通り庭へ閉め出されるか、下手すれば高杉が飛び切りの悪さをしでかした時限定で行われる庭の木へ一晩宙づりにされるという罰が決行されるはずだった。それが行われなかったのは、使用人たちが頑張ってくれたのと、診療所の医師が退院の条件として絶対安静を強く提示してきたからだ。
『次にあの男と会ったら、今度こそ勘当だ。いいな』
 妥協案としての晩飯抜きと、その最後通告を言い放ったのちの父の行方は知らない。今朝はおそらくもう家を出ているだろうと思いながら、高杉は洗面台の前に立った。
 ピカピカに磨かれた鏡に、寝ぐせを付けた自分が映る。
『早くに天涯孤独になったわけでもなし、飢えと外敵に怯えながら強くならざるを得なかったわけでもなし。ご立派なお父上も帰るべき家もあるのに、どうしてこの子がいつも独りで戦うような顔つきをして剣を握るのか、私は不思議でならなかった』
 蛇口をひねると何の迷いもなく出てくる上水を両手で掬い、その中に顔を沈めた。
『言うよ。……家族が死んだ時、俺はそうしたってちゃんと伝える』
『銀ちゃんにはご両親がいないって訊きましたけど……先生が、どこかで保護されたんですか?』
 肌触りの良い手ぬぐいで濡れた顔を拭う。着替えるために部屋へ戻れば、箪笥の中には綺麗に畳まれた絹の長着や袴、羽織などが収められている。
 父親から玩具の類を買い与えられたことは一度もないが、親戚たちは皆本家次期当主の立場に興味があるのか、盆暮れの集まりにはねだってもいないテレビゲームのソフトや流行りの漫画本なんかを置いていく。
 暇つぶしくらいにしかならない玩具の山を見つめながら、重たい手を動かして寝巻を剥いでいった。
 日本中の子供の生活水準を調べたとして、きっと自分がヒエラルキーの上層部にいるだろうということは分かっている。
 それでも、この記号化された『幸せ』に自分がどうしても寄り添えないことを、彼はもう気付いてしまっていた。
 適当に引きずり出した小豆色の長着の上に、淡黄の羽織を着る。足袋を履いて部屋を出ると、そのまま居間ではなく隣の部屋に移動した。
 線香の残り香が絶えない。きっと、大忠太が早朝に手を合わせに来たのだろう。
 特別母を弔うことに熱心なわけではない。ただ、二歳の頃からの習慣というのは、簡単には消えてくれないものだ。
 おそらくはまだ十代であろう、娘時代の母の写真と日課の邂逅を果たす。
 彼女が亡くなった頃はまだこの国に天人や余所の星なんて概念は無く、当然現在普及しているようなカラーの写真技術など無い。良家の子女だった母は長崎を経て外国から輸入された白黒写真を独身時代に撮っていて、それが遺影として採用された。
 慣れた手つきでろうそくに火をつけ、線香に火を移す。濃くなった白檀の香りに包まれながら、りんの音を部屋に響かせた。
 手を合わせながら、思う。幸せでなくともいい、裕福なんかよりもずっと欲しいものがある。
 自由になりたいと。そう望む自分は、きっと無い物強請りの世間知らずなのだろう。
 でも、それでも。
「なあ、母さん。俺、松下村塾に通いたい」
 昨日とうとう父に言えなかった我儘を、自分とそう歳も違わない遺影に告げる。当然何も言うことはない死人に、高杉は自嘲を浮かべるとろうそくの火を消して足早にその部屋を去った。


 高杉が講武館へ行くふりをして屋敷を出て、松下村塾に向かったのは朝の七時半のことだ。
 松陽と会うなとは言われたが、松下村塾に行くなとは言われていない。そんな屁理屈を心の中でこねながらも、彼が危険な橋を渡るのには理由があった。
 八時半少し前、松下村塾に着いた彼は教室が見える場所へ生垣で身を隠しながら回り込む。
 教科書を片手に持ちながら机と机の間を縫って歩く松陽と、行儀よく座って筆を執っている生徒たちが見える。
 案の定、その中にみやびの姿は無かった。
 さて、彼女を探しに堀田家へ乗り込むか、それとも遅れてでも来るだろうと信じてここで待つか。その二択を前に高杉が眉間の皺を深くしたその時だ。
 ふと、松陽が庭の方を、正確には庭越しに教室を眺めている高杉の方へ振り向く。
 慌ててしゃがんで生垣に隠れた。危ない、どこに目があるか分からないのだ、さすがに顔を合わせて話をしてしまうのはアウトだろうと高杉はいやに跳ねる心臓のあたりを押さえる。
 その場に座り込んだまま、しばらく考える。
 そして迷った末に、午前中いっぱいはここで待ってみることにした。
 堀田家に乗り込むことも考えたが、それはすなわち新たな問題を起こすことに繋がる。さすがに今度こそ勘当は免れないだろう。みやびが危険に晒されているというのならそれも辞さない覚悟だったが、早とちりで特攻をかけて勘当などされたらみやびにどれほどの罪悪感を与えてしまうか知れたものではない。
 ただ、教室から丸見えのここや、門の前で待つのは人目に付きやすい。少し考えて、高杉は松下村塾の門前がよく見える、道を挟んで向かいにそびえ立つ樹木の影に身を潜めることにした。
 九時近くになって、二時間目からの授業を受けに来た生徒たちがまばらに門をくぐっていく。そこにみやびはいない。
 十時になっても同じだった。見慣れたおさげ髪は姿を見せない。
 思えば、みやびはあの家老の息子の首を絞めたのだ。そこに至るまでにどれほど卑劣なことをされていたとしても、その後身を振り払われたみやびがどうなったかも、きっと連中は事情を汲もうとしないだろう。
 もしかしたら、堀田家でそのことを咎められ軟禁されているのではないか。そんな危機感が高杉の中で頭をもたげる。
 軟禁ならまだいい。もしも自分のように、理由も聞かれずお前が悪いと決めつけられ、折檻を受けていたら。
 こんなところで午前を無駄にしている場合ではなかったと、高杉が木陰を飛び出そうとしたその時だ。
「ああ、やっぱりみやびは来ないなー。仕方ない、ほかの子たちには悪いけど、午後は休講にして様子を見に行こうかなー、頼まれていたこともあったしなー」
 わざとらしい、大きな棒読みのセリフが聞こえてきて、思わず肩が跳ねた。
「だからどこかの道場破りさんは、何も心配しなくていいんですよねー。あ、これ独りごとですけどねー」
 こっそりと木陰から出ないように様子を伺うと、すぐ近くに不自然に明後日の方向へ目を逸らした松陽が立っている。
 演技下手すぎか、と呆れ顔になるのを止めきれない。
「あと、今日はけっこう冷えますから、何時間も外で突っ立てる子供がいたら心配だなー。まあ、そんな子供私からは見えないんですがー」
「どっかの誰かがデカイ独り言言っててクソうるさいが、とりあえず俺は家出るときにカイロ持たされたからむしろ暑いくらいだ」
「それならよかったー」
 木の幹に背を預けて俯きながら、己も独り言を呟く。すると、すぐ後ろから聞こえた物音と声の近さから、松陽もおそらく同じように木の幹に凭れ掛かっただろうことを察する。
「私が何とかします。大丈夫。君は安心して家にお帰りなさい。まだ安静にしていた方がいい。銀時だって今日の午後退院なんですから」
「体ならもう大丈夫だ。……みやびを迎えに行くなら、俺も」
「今、お父さんをあまり刺激しない方がいいでしょう?」
「!!」
 もはや独り言でも何でもない背中合わせの会話の中で、高杉はぎゅっと強く両手を握り締めた。
「私は君だって諦めませんよ。みやびの次は君を迎えに行く」
「俺は……」
「大丈夫。君のお父さんは、心底血も涙もない人間なんかじゃない。ただ少し……そうですね、道を見失っているだけなんでしょう」
 その言葉に、思わず彼は振り向きかける。
「なんで、そう言える?」
「……長く生きているとね、救いようのない人間とそうではない者の見分けくらいはできるようになるんですよ」
 どう見ても父よりは若いその青年は、妙に疲れたような声でそんなことを言う。
「銀時に何度も挑んだ君なら分かるでしょう? 私にも意地がある。ここで君を諦めたら、私は私の武士道を曲げたことになる」
『そんな彼らを一人でも多く見届けるのが……そう、私の掲げた武士道なのかもしれません』
 いつの間にか高杉は樹木に向かい合って、その向こう側を求めるように木の幹へ手を添えていた。
「なあアンタ……どうして、初対面の親父にあんなに怒ったんだ?」
 ずっと引っ掛かっていたその疑問を、複雑な思いと共にぶつける。
 本当は、その答えを何となく予想しながら。
「君は本当に勘がいい子ですね」
 松陽はその複雑な思いも汲んだようで、苦笑交じりにそう答える。
「君の体に、銀時が付けたもの以外の傷があることには、気付いていた」
 恥に耐えるように、俯いた高杉の顔が歪む。
「でも、私だって銀時が悪さをしたら殴ります。……そういうことではないんですよ」
 君の境遇に同情したわけではない、と松陽は緩やかに否定する。
「ただ、そう……気付いたら体が勝手に動いちゃってて」
 その言葉に、高杉はそっと顔を上げる。
「私、親を知らないんです。だから、仲の良い親子とかとかにずっと憧れを持ってて……よく知りもしないくせに、親とはこうあるべきなんじゃないかって、理想なんかも持ってたりして」
「アンタも……?」
「ええ。……だから、君のお父さんに、理想を押し付けてしまっただけなんですよ」
 バツが悪そうにそう呟く松陽に、なぜだか高杉は胸が締め付けられた。
 どうして、こういう温かい場所が似合う人たちに限って、家族を知らないのだろう。家族を亡くしているのだろう。
 どうして自分は、彼らが焦がれる家族が、重くて重くて仕方ないのだろう。
「先生! もう休憩時間終わってるよーっ!」
 その時、突然かかった女子生徒の声に、高杉は現実へ呼び戻される。
「はーい! すみません、長話しすぎました。……戻りますね」
「!!」
 草履が土を蹴る音が聞こえる。どんどん離れていく足音を呼び止めることもできずに、彼は木の幹に額をぶつけた。
「先生、俺……どうしたらいいんだよ」
 初めて呼んだその敬称は、霜月の木枯らしにかき消された。


 高杉がその木陰から出たのは、松陽がその場を去ってしばらくした頃のことだ。
「……」
 その場を去る前にもう一度、松下村塾の教室を生垣の外から盗み見る。
 継ぎ接ぎだらけで丈も合っていない木綿着物、ボサボサの散切り頭、笑った瞬間見える抜けた歯。氏も素性も知れない、小さな侍たちが筆を片手に戦っている。
 少しでも真っ当な人間になろうと、己の美意識に沿い精進する。立派な武士道を貫く彼らが、高杉にはとても眩しく見えた。
「まだこんな怪しげな寺子屋に執着していたか、高杉」
 その時背後から掛かった声に、高杉は辟易しながらゆっくりと振り返る。
「いよいよお前も講武館破門だな」
 自分の目にはきっと、こちらの方がよく馴染む。高杉は見慣れた猿山の大将気取りと金魚の糞を見渡す。
 あの眩しい場所と、生垣に隔てられたこちら側に自分はいる。きっと一生、こちら側に居なければならないのだ。
『私は君だって諦めませんよ』
 高杉の口元が緩く吊り上がる。誰を嘲ったのか、彼自身にもよく分かっていなかった。
「だが残念、ウチをクビになってもお前にお前のいく所はないぞ」
 そんな場所は、元よりどこにもない。冷たい深緑の眼が、よく回る舌を見据える。
「今晩にもこの寺子屋は潰れる」
 だが、堀田兄が口走ったその一言に、高杉の体内に立ち込めていた自暴自棄な空気は霧散した。
「……どういうことだ」
 唸るような声が発せられたことに満足したのか、堀田兄はその顔に張り付けた笑みをより深くする。そして、手にしていた竹刀を肩で担いでこう言った。
「場所を変えようか、高杉晋助」


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