「行かせて良かったのですか? 井上を」
病室の重たい沈黙を最初に破ったのは、その場をずっと静観していた桂だった。
「みやびは聡くて意志の強い子です。ああ言ったということはおそらく、彼女にしか出来ない何かがあるということ」
しばらくじっと手にした飴を眺めていた松陽だったが、やがてそれを懐へ仕舞い込むと後ろ手を組んで窓の方へと歩き出す。
「それに、明日までにと言っていました。弟子入りする言質も取ってます。明日彼女が現れなければ……その時はもう黙っていませんよ」
やっと介入できる。そう言いたげな低い呟きに、高杉はますます訳が分からなくなってくる。
「あの、貴方は一体井上の何を知っていると言うんですか? 彼女の身に、今一体何が?」
同じ気持ちだったらしい桂が捲し立てるようにそう問いかける。窓際に立った松陽が、何かを言い淀んでいた。
その時だった。
「失礼する」
ざらついた野太い声が聞こえるや否や、返事も待たずに勢いよく病室の扉は開かれた。
四人の視線が一斉に出入口へ向かう。そこに立っていた中年男性に、桂は肩を震わせ、そして高杉は身を固くした。
そこには、仁王立ちして部屋をぐるりと一通り見渡す、高杉大忠太がいた。
「誰だ、おっさん」
突然の無遠慮な来訪者へ、銀時は惜しみなく疑惑の目を向ける。その少年を一瞥すると、大忠太は窓辺で立ち尽くす青年や扉近くで身を竦ませる少年には目もくれず、ベッド横で身構える己の息子の前に立つ。
そして、その頬を思いっきり殴りつけた。
「!!」
「高杉ッ!!」
ベッドに倒れ込む高杉に桂が慌てて駆け寄る。しかしそれを引き剥がすように、頬を押さえる我が子の胸倉を掴むと、大忠太は同じ場所にもう一度拳をぶち込んだ。
「言ったはずだ。今度問題を起こせば勘当だと」
「待ってください大忠太殿! 違うんです。今回のことは、元はと言えば堀田たちが!」
「君も他人事だと思わない方が良い、桂君。君が最近講武館の講義を欠席し、妙な私塾へ出入りしていることに講師の方々も大変腹を立てていらっしゃる」
「!!」
大忠太の突き放すような一言に、桂の顔が歪む。
口内に溢れる血の味を不快に感じながら、高杉は思った。だから、悪童なんかに関わるべきじゃなかったんだ、神童。と。
「いっ……!」
不安に苛まれている桂の横顔を呆然と眺めていると、突然髪を鷲掴みにされた。そのままベッドから立たされた高杉は、明らかに怒り狂っている大忠太にされるがまま病室から連れ出されようとしている。
その横目が捉えた銀時は、ベッドから上体を起こしたまま呆然としていた。
親のいないお前は、厳しくともあんなに愛情に溢れている人に拾われたお前は、この光景をどんな気持ちで見つめている?
そんなことを考えて、思わず笑みがこぼれる。
諦めと自嘲が入り混じった、寂しい微笑みだった。
「……何か御用ですか?」
次の瞬間、突然大忠太の歩みが止まったことに高杉は気付いた。
心なしか髪を掴む手の力も弱まっている。
「彼を何処へ連れて行く気で?」
激怒している大忠太の声に負けず劣らず、低く地を這うような声が病室に響く。
まさかと思って高杉が視線を上げた先に、その男はいた。
「彼は私の弟子を救ってくれた恩人です。放してください」
松陽が、大忠太の手首を握り締めていた。
その手首からはミシミシと骨が軋む音が微かに聞こえてくる。大忠太は眉間に深く皺を寄せると、息子の髪を放して勢いよく松陽の腕を振り払った。
「家に連れ帰るだけです。見ての通りピンピンしているようなのでね」
「元気そうに見えますが、つい数時間前に彼は心臓と呼吸が止まったんですよ」
そう告げる松陽を見上げて、高杉は我が目を疑う。
実力者であることは分かっているつもりだった。けれどどこかで、人の好さそうな笑みを絶やさないその男が、本当の意味での猛者であるとは思えなかったのだ。
思い違いだった。
目の前にいる男の心臓を一突きしかねないような、そんな殺気を帯びた怒りが、松陽の全身から溢れ出ている。
「それに、家に連れて帰るなら、掴む場所が違うでしょう」
そう告げた松陽の右手の握りこぶしは震えていた。
その手が、銀時の小さな手を柔く掴んで歩く様子なら、簡単に思い描ける。きっと銀時は照れたように顔を背け、松陽はそんな様子を眺めながら幸せそうに笑うのだろう。
けどどうしても、父がそれを自分にする光景は、高杉には思い描けなかった。
「人の家の教育方針に口を出さないでいただきたい」
「教育? ……怪我した我が子を、訳も聞かずにお前が悪いと決めつけて殴るのが貴方の教育だと言うのなら、なるほど道理で彼は周りに助けを求めないわけだ」
松陽の棘を含んだその言葉に、高杉はハッと顔を上げる。
「彼のことをよく知る女の子に聞きました。彼は強くて優しいから、自分が深く傷付いても見て見ぬふりして他人の傷まで抱え込む。もっと自分が強くなればいいと言って、傷を増やしていく一方だと」
「……失礼ですが、どこの馬の骨とも知らぬ人間に、息子の軟弱さを説教される筋合いはない」
「軟弱だなどと、一体誰が言いましたか」
声は決して荒げてはいなかった。
だが弱まる気配を見せない松陽の怒気に、段々と大忠太が気圧されているように見える。高杉はその二人の様子を見守りながら、大きな不安とひとかけらの嬉しさで心臓がもう爆発しそうだった。
「彼は強すぎるんです。早くに天涯孤独になったわけでもなし、飢えと外敵に怯えながら強くならざるを得なかったわけでもなし。ご立派なお父上も帰るべき家もあるのに、どうしてこの子がいつも独りで戦うような顔つきをして剣を握るのか、私は不思議でならなかった」
「いい加減にしろ。初対面の人間が何を……」
「いいえ、私は彼を通して貴方に何度も会っています」
松陽は大忠太の言葉を遮るように、きっぱりとそう言い切る。
「絶望的に大人を信頼していない目や、歳の割に妙に達観した言動、傷を負うことを躊躇わない捨て身の剣筋を見ながら、ずっと貴方と会っていましたよ」
「……」
「そして実際にお会いして確信した。……息子さんは、貴方によく似ておられる」
松陽の猛攻とも言うべき弁舌の最後に、大忠太の目が僅かに見開かれるのを高杉は確かに見た。
「けど、彼と貴方とは言うまでもなく、別の価値観を持った個人です。もしも貴方が、ご子息の姿に己を見て拳を振るっているのだとしたら、どうか、そんな自分も彼も傷付けるようなことはもう止めてください。……お願いします」
そう言って、松陽は深々と頭を下げる。
その様子を、大忠太は感情の読み取れない淀んだ目でじっと見下ろしていた。
「申し遅れましたが、私は吉田松陽と申します。松下村塾という私塾をこの町の外れで営んでおりまして、うちの弟子と晋助くんが大変仲良くなったようなので、私個人としましてはぜひ晋助くんもうちに入ってもらえないかと考えております」
頭を上げた松陽は、大忠太をまっすぐ見据えながら怒気を収めた穏やかな声でそう告げる。
そして懐から四つに折られた紙を一枚取り出した。
「一度、お二人で見学にいらしてください。お時間があればぜひ三者面談も。……いつでもお待ちしておりますから」
広げられたそこには、松下村塾オープンの文字が躍っている。
達筆ながらもどこか温かみがある、そんな墨字で書かれたとある一言に、高杉は目を奪われていた。
『何かを変えたい君へ』
父の武骨な筋だらけの手がその紙にゆっくり伸ばされていくのを、息子は夢でも見ているかのような面持ちで見つめている。
『君も道に迷ってここに流れついたんでしょう? ……私もそうです。いまだに迷っている』
変えたい悲劇、消してしまいたい言動がいくつもあった。
後悔ばかりで一日が埋め尽くされる日々が続いた。進むことも戻ることも、逃げることすらできずに、あの神社で独り剣を振るい続けた。
変わりたかった。でも、どう変わればいいのか分からなかった。
『それでいい。悩んで迷って、君は君の思う侍になればいい』
どこにも行けない、何者にもなれない今の自分が、唯一行きたいと思える場所だった。やりたいことがある場所だったのだ。
「親父、俺……」
数か月振りに父をそう呼んだ次の瞬間、受け取った希望を大忠太は両手で真っ二つに引き裂いた。
高杉の声帯が固まる。大忠太の手はその紙をさらに半分、もう半分に千切っていき、最後には元の原型がないほどまで細かく破り切る。
無造作に放られた紙屑が、まるで吹雪のように高杉の足元で舞った。
「帰るぞ」
息子に一瞥すらもくれずにそう吐き捨てると、大忠太は踵を返して先に病室を出ていく。
「……」
父がその紙に手を伸ばした瞬間、少しでも期待してしまった自分が、高杉は恥ずかしくて仕方がなかった。
分かっていたことだろう。なのに、どうしてこんなにも落胆している?
足元に散らばった無数のゴミが、まだ少しだって定まっていない、己の武士道のように思えた。
「高杉ッ!」
耐え切れずに、そのゴミを踏みつけて部屋を飛び出す。
桂が名前を呼ぶ叫び声が聞こえてきたが、振り返れるはずもなかった。