行きたかったよ
「晋助。お前一体どこで何をやっている」
 日没前。今日も今日とて松下村塾で銀時に叩きのめされた高杉は、帰宅早々玄関口に入る間もなく竹刀で思い切り顔を殴られる。
 高杉は石畳の上に転がりながら、無慈悲な力で竹刀を振り回した目の前の男を睨み上げた。
「また何か陰でこそこそと、余計なことをしているのではあるまいな」
 自身と同じ冷たい深緑の双眸が、虫けらを見るような目で見下ろしていた。
 少なくとも、我が子を見る目ではなかった。
「もう忘れたのか。以前お前の浅はかな行動が、どれだけの人間に迷惑を掛けたか」
 温度のない地を這うような声の主を、高杉も心底軽蔑した目でじっと見つめていた。少なくとも、実の親を見る目ではなかった。

 高杉大忠太はもともと、温かみのある人間ではなかった。
 弟子や藩校で剣術を教えていた頃の教え子たちにはそれなりに慕われていたようだが、息子に笑いかけたり褒めたりするタイプでは到底ない。高杉はいつも、頭を撫でられる代わりに拳骨を振り下ろされ、抱きしめられる代わりに家を閉め出された。
 高杉晋助は、ずっとそうやって育てられてきたのだ。
 ただ、高杉は幸か不幸か物の道理を呑み込むのが周りより早い子だった。同年代の少年少女が親に叱られて泣きわめいている頃、高杉は振り下ろされる拳に乗せられている感情を何となく察していた。
 それは、責任感や期待、それからほんの少しの、彼なりの情。
 殴られるたびに傷は痛み、家から閉め出されるたびに夜の庭は寒かったが、不思議と心底怒りや悲しみが沸くことは無かった。乗せられた僅かな情に親としての愛が混じっているとは思えなかったが、この男はきっと、自分を立派な高杉家の跡取りにしようと躍起なのだと。
 大忠太が思い描く理想の武家の長男と、現実の高杉晋助との差に苦しんでいるんだと
 そう察してしまうともう、可哀想な男だとしか思えなかった。幼い心には同情すら芽生えていた。
 自分みたいなろくでなしが長男として生まれてしまったばっかりに、この男はこれからも苦しみ続けるのだろうと。
『……背負ってるもん全部無くなる日まで、頭でも何でも下げてやるよ』
『ガキがな、最近面白いくらい日に日に強くなっていきやがるんだ。将来は強い侍になりたいんだと』
『俺だって、晋助があんな目に遭う未来など認めるわけにはいかない』
『弱腰と馬鹿にされたっていい。誰がなんと言おうと、若いヤツが笑っていられる場所が最善だ。なら俺はそこを作る』
 あの日、井上医師に父の夢を聞かされるまでは。

 高杉は、今目の前にいる男を父親だとは思っていない。
 父はあの日、親友の首を刎ねたときに死んだのだ。そう信じて、この数か月を過ごしてきた。
「聞いているのか、晋助!!」
「ッ!!」
 振り下ろされる竹刀の切っ先から頭を庇う。丸めた背中に直撃したその一撃に顔を歪めながらも、高杉はただただ、目の前の愚かな恥ずべき亡霊を睨みつける。
 折檻から責任感や期待、自分はとうとう察せなかった不器用な愛情などは一切消え失せ、代わりに重く圧し掛かるのは自己嫌悪と行き場のない妄執ばかり。
「俺が顔向けできないほどに済まないことをしたと思ってるのは、この世とあの世、合わせてただ二人だけだ」
 息子のよく響く声に大忠太の動きが止まる。
 高杉の脳裏に浮かぶのは、よく似た笑顔を浮かべる、自分にとっての理想の親子だった。
「アンタだって、本当はそうだろうが」
「!!」
 責めるような口調に、目を見開いた大忠太がわなわなと竹刀を握る手を震わせる。
 次の瞬間、高杉の小さな背に打撃の雨が降り注いだ。高杉は目をギュッと瞑って痛みに耐える。
 こんなもの、あいつになめさせられた悔しさに比べれば、どうということは無い。高杉の脳裏にはあの、ムカつく白銀のクルクル頭がよぎる。
 あの男に与えられる一撃に比べれば、この亡霊の癇癪など、少しも痛くはない。
「旦那様、お待ちください!! それ以上は坊ちゃんが!」
 見かねた何人かの使用人が勝手口から飛び出してくる。中年の女中頭が高杉を庇うように地べたに這い、若い下男と大忠太のお気に入りの奉公人である甚兵衛が立ったまま主人の前に立ちふさがる。
 そこでようやく少し冷静になれたらしい大忠太は、ようやく振り上げた竹刀を下ろした。
「次に問題を起こせば勘当だ。高杉の名をこれ以上汚すな、このろくでなしが」
 冷たく言い放たれた一言に、自身を抱き起した女中頭の動きが凍り付いたのが高杉には分かった。
「もう一度、あの日俺が言ったことをよく思い返して頭を冷やせ。甚兵衛、こ奴に飯は与えるな」
「ちょっ、お待ちください旦那様! 旦那様っ!」
 そう告げて去っていく主人を甚兵衛と若い下男が慌てて追いかけていく。傷の手当てをしようと高杉を屋敷の中へ抱えていこうとする女中頭の手を、彼は優しく振りほどいた。
「坊ちゃん、旦那様は屋敷の中に坊ちゃんを入れるなとは言っておりません。傷の手当てだけでも……」
「そーいうの、揚げ足取りって言うんだぜ。お夏さん」
 大忠太が息子へ食事抜きの罰を与えるときは、大体はもれなく一晩屋敷からの締め出しもセットで付いてくる。それを知らない女中頭ではないはずだが、それを承知で傷の手当てをしようとする彼女に高杉は悪戯っぽく笑いかける。
 だが、最初に殴られた頬が痛くて、うまく笑えなかった。
「ならせめて、ここに救急箱を持ってきますので……」
「もういいんだ」
 必死な女性の声を、声変わりもまだの少年の声がそっと遮る。
 何度か坊ちゃんと呼ばれたが、高杉は振り返ることなく生家の門を潜り、その場を後にした。


『テメェが奇跡的に俺から一勝する間に、俺はお前に何勝した?』
 汚泥にまみれた冷たい水の中。突如後頭部を襲った衝撃に、意識を持っていかれる寸前。
 世界で一番気に食わない男から告げられたその一言が、高杉の頭の中をぐるぐると回っていた。
『俺に本当に勝ちてェなら、負け分取り戻してェなら、明日も来い。テメェも、生きて来ればいいんだ。……松下村塾に』
 嬉しかった。
 その言葉が何より、嬉しかったのだ。
 辛いことがたくさんあった。高杉とみやび、桂の間ではもう、楽しいだけの思い出を共有することはできない。
 足掻いて、戦って、走って、泣いて、負けた。楽しかったことも嬉しかったこともあった。でも、それだけを思い出すことは到底できない。
 けれど、あそこには。
『スゲェェェェェ! ホントにあの銀時に勝っちゃった!!』
『やったな!! よく頑張ったよお前!!』
 心の底から自分の勝利を喜んでくれる少年たちも。
『てっきりもうウチに入ったと思ってました』
 こんな悪童を笑って受け入れてくれる先生も。
『もう敵も味方もないさ、みんなでおにぎりを握ろう!』
『敵味方以前にお前誰よ!!』
 失ったと思っていた、何もかもがある。
 冷たく暗い世界の中で、ぬるま湯のような幸せな夢を見ていた。夢の中で高杉は、みやびや桂と一緒にあの橋を駆け抜け、桜並木の向こうにある松下村塾の看板が掛かった門を一緒にくぐっていた。
 玄関の戸を開けると眠たそうな銀時と笑顔の松陽が待っている。騒がしい生徒たちと机を並べながら、高杉は教科書を片手に心地よい声で音読する松陽を目で追う。彼の投げかける質問に桂がピンと片手を上げ、その答えを褒めながら松陽は教科書の角を寝ている銀時の頭に打ち付ける。
 それをみんなで笑いながら、自分は隣の席を盗み見るのだ。
 弾けるような笑顔をきっと見せてくれるであろう、彼女を。

「あ、れ……」
 眠りから覚めた時、凍えるような寒さの中で胸のあたりにだけ、素肌で感じるぬくもりがあった。
 今にも泣きだしそうな桂の顔、心底安堵したような銀時の顔、それから驚いたような表情を浮かべる松陽の顔を青空をバックに見上げながら、高杉は自分が先ほどまでどんな状態だったかを徐々に思い出していく。
 頭のてっぺんまでずぶ濡れの松陽をもう一度見て、ああ助かったのだなと漠然と理解した。
「ごめんなさいっ……」
 胸元から聞こえてきた絞り出すような声。繰り返される痛々しい謝罪の言葉に、高杉はただ空を仰ぎ見た。
『どうして父上が死んで、貴方みたいなのが生きているの』
 堀田の元へ進んでいくみやびを止めようとした時、彼女から飛び出したあの刺々しい言葉は、自分に向けられたものかと思った。
 彼女の中には、高杉がどれだけ彼女を想おうと察しきれない闇がある。それを感じさせるのに十分すぎる、呪いのような言葉だった。
『殺してやる!! お前など、あの男の家族など!!』
『晋助くんのことが、大好きだからだよ』
『どうして私なんか!! 全部自分が蒔いた種なのにっ、溺れ死んだって自業自得だったのにっ!!』
 彼女の頬を張ったその手で、泣きじゃくる彼女をそっと抱き寄せる。
 それでも、幸せに生きてほしいと願うのは、ただのエゴなのだろうか。
「俺たちを大切にしたいなら、自分を大切にしてくれ。……お願いだから」
 己が幸せにしてやることもできず、殺されてやることも、一緒に地獄へ堕ちてやることもできず。それからきっと、同じ光の中へ手を引いて進んでやることもできない。
 本当は、お前と一緒に行きたかったよ。松下村塾へ。
 それすら告げてやることもできない自分の臆病さに自嘲を浮かべながら、せめてこれ以上彼女が自分で自分を傷つけないようにと、高杉はそんな中途半端な願いを口にするだけに留めた。


prev next

bkm
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -