起きろ
 松本川の土手を共に走って二人の姿を探し、何かを見つけて一目散に川に飛び込んでいった松陽が二人を抱えて戻ってくるまで、みやびは生きた心地がしなかった。
「松陽先生っ!!」
 もうあちこちが破けている足袋を履いたみやびが水際に立って叫ぶ。自身の足の着くところまで戻ってきた松陽は、十一歳の少年二人を抱えて水流や体に纏わりつく着物に足を取られながらも川岸へ急いで戻ってきた。
「銀ちゃん、晋助くんっ!!」
「高杉! おい、しっかりしろっ!」
 ぐったりと松陽の胸にもたれ掛かる二人に、みやびは五臓六腑が凍り付くような思いだった。隣の桂も顔色が悪く、我慢できない様子で足首が水に浸かるところまで駆け寄ってしまう。
「銀時は無事です。問題は……」
 松陽が言葉を濁しながら土手を上がってきたところで、みやびは意識が無い高杉の唇や指先がくすんだ紫色に変色していることに気付く。
「チアノーゼ……」
「えっ?」
 みやびの零した呟きに桂が反応する。
 背筋に悪寒が走った。恐怖で体中の震えが止まらない。
 チアノーゼとは血液中の酸素濃度が低下したときに見られる状態のことだ。
 つまり高杉の体には、今。
「先生、晋助くんをここに寝かせてくださいっ」
「! みやび?」
 考えるより先に体は動いていた。
 みやびは川瀬から買い与えられた赤い羽織を河川敷のぬかるみの上に広げる。目を白黒させる松陽に、彼女は震えながらも大きな声で告げた。
「おそらく呼吸停止しています! 一刻も早く心肺蘇生させないと危険です!!」
「……」
 見開かれた松陽の瞳に一瞬の戸惑いが生まれたことを、みやびはちゃんと気が付いていた。
 無理もないだろう。昨日自分が何をしでかしたかを棚に上げられるほど開き直れはしない。
 それでも、今自分がそうしなければきっと、高杉は。
「しょう、よう」
「!!」
 みやびと向き合い、二人の少年を抱えて固まっていた松陽を動かしたのは、腕に抱かれたままだった銀時だった。
 彼の左手が力なく松陽の襟元を掴む。
 それを呆然と見ていた松陽は、覚悟を決めたようにそっと高杉の体を地面に敷いた羽織の上に寝かせた。
 感傷に浸っている暇はみやびには無かった。

「……っ!」
 膨らむ気配のない胸腹部にすぐさま襦袢ごと着物を剥ぐ。そしてその平たい胸の中心、冷たい胸骨下部に右手の付け根を置いた。
『垂直に体重を掛けて胸を圧迫するんだ。大人なら少なくとも胸が五センチは沈むように、子供なら胸の厚さの三分の一ほどにね』
 まだ後妻の佐栄が嫁いでくる前、父にねだって教えてもらった人形での心肺蘇生法を頭の中で反芻しながら、左手を右手の上に重ねる。
 肘をぴんと伸ばし、中腰の態勢から両腕に体重を乗せて傷病者の胸を沈ませた。
「一分間に百回のテンポ、三十回……!!」
 医師の顔をした父が真剣に教えてくれたそれを記憶の中でなぞる。髪を振り乱しながら、上半身全体を使ってみやびは何度も高杉の胸部を窪ませた。
『次に素早く気道を確保する。片手を額に当てて、もう一方の手の人差し指と中指をおとがいに添えて持ち上げ、額に当てた方の手の指で鼻を摘まむ』
 命の色が消えうせようとしているその紫の唇を、みやびは己の唇でしっかりと覆った。
『空気が漏れないように息を吹き込む。一秒かけて一回、それを二回繰り返す。それができたらまた三十回の胸骨圧迫だ』
 父上。
「晋助くんっ、お願い!! 目を覚ましてっ!!」
 お願い、晋助くんを連れて行かないで。
 私に力を貸して。
「晋助くん!! 晋助くんっ!!」

 通常、心肺停止状態は一分続けばその都度、救命率が七パーセントから十パーセント低下すると言われている。
 五分の経過で命が助かる可能性は半分を切る。十分経過すれば絶望的だ。
 高杉がいつからこの状態なのかは分からない。だが、最初に銀時が橋から落ちてからすでに二十分が経過しようとしていた。おそらく彼がこうなってから、それほど時間が経っていないなんてことはない。
 高杉の肺を己の息で膨らませながら、ただひたすら祈った。
 己の父と母。それから、見たこともない高杉の亡き母に。
「起きろっ!! 高杉晋助っ!!」
 悲鳴のような声を上げながら祈り続けた。

「高杉、目を覚ませ……! 高杉っ!!」
 いつの間にか桂が高杉の耳元でその名を呼んでいた。その涙声に彼が反応してくれるその時を、みやびはただひたすら彼の胸を何度も圧迫して待つ。
「!!」
 すると四度目の胸骨圧迫中に、高杉の口から濁った水が零れ出てきたことに気付いた。その水が気道に逆流しないよう慌ててその顔を横に傾ける。
「高杉っ」
 いつの間にか松陽の腕の中から抜け出していた銀時が、地面に座り込んだまま高杉の元へにじり寄ってくる。みやびは懐から手ぬぐいを出す時間さえ惜しんで、川瀬から買い与えられた紅葉柄の着物の袖を指に巻き、高杉の口の中に突っ込んだ。
 吐き出した汚水を取り除くとみやびは再度胸骨圧迫を再開する。
「高杉、おいっ……こんなとこでくたばってんじゃねーぞ、テメェ!」
「起きろ、目を開けるんだっ!! 高杉っ!!」
 銀時が今にも掴みかからんとばかりの勢いで声を荒げた。桂が泣き出しそうな顔で叫んでいる。
 その中で松陽だけは、声を掛けることもせず何か迷っているように、みやびの必死の形相と高杉の青白い顔をずっと見比べていた。
 みやびの口が冷たい高杉の唇を覆い、四度目の人工呼吸に試みる。それを見ながら松陽が何かを言おうとした、その時だった。
「!!」

 みやびは、己の口の中に吹き込まれた微かな命の気配を感じる。
 慌てて口を放すと、今まで微動だにしなかった高杉の口が、開いた。
「っは……」
 一定の間隔を刻んで膨らむ胸腹部。確かに聞こえる呼吸音に、みやびは思わずはだけた彼の胸に耳を当てた。
 相変わらず冷たいその肌の奥で、確かにトクン、トクンと。鼓動は刻まれている。
 高杉晋助は生きていると、微かな命の音はそれを証明してくれていた。
「高杉っ……」
 泣き出しそうな顔で桂が高杉の顔を覗き込む。ずっと閉じられていた瞼が徐々に開いていく。
「あ、れ……」
 弱々しい掠れた声だった。でも、間違いなく大好きな人の声だった。

「ごめんなさい……」
 緊張が抜け落ち、どっと疲労感と罪の意識がみやびの小さな体に圧し掛かる。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ……ごめんなさい……」
 高杉の胸に額を当てながら、みやびは地にひれ伏すように何度も謝りの言葉を口にする。
 あと一歩で取り返しのつかない事態に陥っていた。いいや、こんなのはほとんど取り返しのつかない事態だ。
 二人の友人の命を奪いかけたのだ。自分の、我を忘れた浅はかな行動が。
「ごめんなさいっ……銀ちゃん、晋助くんっ……!!」
 先ほどまで一滴も流れてこなかった涙が、堰を切ったように溢れだし高杉の胸を濡らす。
 流れが速く冷たい川の中は、さぞ怖かっただろう。
 足もつかない、息ができない世界に突然投げ出される恐怖は、どれほどのものだろうか。
 心臓が止まるほどにあの泥水の中で晒されて、銀時だってあんなにも疲弊して。
「私の所為で……ごめんなさい……」
 その時、高杉の胸に顔を埋めたままのみやびの肩を、高杉がそっと抱き寄せた。
 みやびの着物が濡れる。高杉の体は相変わらず冷たかった。
「なあ、みやび」
 十月の終わり。憎たらしいほど晴れ渡った空を見上げながら高杉が微笑む。
「自分の所為だと思うなら、俺たちに済まないと思うなら」
 濡れた手が、優しい仕草でみやびのすっかり乱れた髪を撫でつける。
「もっと自分を大切にしてくれ。頼むから」
 妙に大人びた静かな声にみやびは滲んだ視界のまま上体を起こす。
 唇の色は相変わらず悪かったが、深緑の瞳は生気に満ちた輝きを帯びていた。
「俺はお前が大切だから……お前が危険な場所へ何かを拾いに行くなら、何度でも代わりに行く。こいつだって……」
 高杉が、神妙な顔をして二人を見つめる銀時へと一瞬視線を滑らせ、そしてみやびへと戻す。
「お前が危険な場所に投げ出されたら、きっと何度だって拾いに行くぞ」
 みやびの口からは、やがて子供のような嗚咽が漏れだす。
 言葉にならない母音を発しながら、みやびはただひたすら己の浅はかな言動を責めた。
 今となってはもう、どうしてあんなことをしてしまったのかすらよく思い出せなかった。
「俺たちを大切にしたいなら、自分を大切にしてくれ。……お願いだから」
 ゆっくりと上体を起こした高杉が、泣きじゃくるみやびを再び己の腕の中に招き入れる。
 誰も何も言わなかった。
 ただ、二人の少年の命を飲み込もうとしていた川の唸り声と、赤子のような少女の慟哭が響いているだけだった。


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