待っているから
『赤の他人の先生に、私の気持ちなんて分かるはずがないっ!!』
 怪我をした門下生への手当てもほどほどに、血相を変えて自身の書斎へ戻っていく松陽がただ気になった。気配を消してその後を追った銀時が聞いたのは、聞き覚えのある少女の声で紡がれる、聞き覚えのない怒号。
 慌てて飛び出した縁側で、こちらへ振り向くこともなく玄関口へと向かっていくおさげ髪を見た。
 それから、彼女へと伸ばした手を力なく下ろしていく、自身の家族も。
「……松陽?」
 呆然としている横顔に話しかければ、ハッとした表情を浮かべ彼はすぐに笑顔で銀時の方を振り向く。
「どうしました? 銀時」
 銀時から見て、松陽はあまり感情を表に出さない人間だった。だいたいはいつも笑っている。怒るときも悲しいときも寂しいときも、嬉しいときと同じように笑っているのだ。
 でももう何年も一緒にいると、彼が無理に張り付けている笑顔くらいは見分けがつくようになった。
「無理して笑うなよ、俺には」
 ぶっきらぼうに確信を突いた、彼なりの労りの言葉だった。
 それを受けて松陽はしばらく無言で銀時を見つめると、力を抜いたような微笑を浮かべて縁側にどかりと音を立てて座り込む。
 銀時は、寄り添うように並んで腰かけた。
「心配には及びませんよ。……ただ少し、歯痒かっただけです」
 そう呟いて疲れたように笑う松陽が、銀時は意外だった。
 吉田松陽という男は、非常に人好きのする性格と人相をしている。各地を放浪していた頃も、多少の縁があった人間はみな彼に好感を持っていたように見えた。
 その一方、松陽自身はあまり個人に執着をする人間ではないと思っていた。
 彼は人間のことが好きなのだろう、と思う瞬間は多々ある。基本的には人を信じ、愛しているのだ。銀時は大体の人間を疑って煙たがっている節があるので、松陽のそういう姿勢に呆れる一方、ほんの少し憧れてもいた。
 ただ、彼はどこまでいっても平等だった。平等にみんなを愛していた。そう、たぶん、うぬぼれでなければ銀時以外の人間はみんな、横一列だったはずだ。
「なあ。アイツ、俺みたいに内弟子にできねーの?」
 きっと松陽はそうしたいのだと、銀時は何となく察してしまった。
 みやびの何が松陽の心を動かしたのかは分からない。けれど、自分とはどこか作りが違うと思っていた松陽が、実は結構似た作りだったのだとしたら。
 きっと松陽は今、みやびを救いたくてたまらないはずだと思った。
 大した理由など無くとも。ただ、銀時がそう思うのと同じように。
「今そう提案しても、きっと首を縦には振ってくれませんね」
「……どうしちまったんだよ、みやびのやつ」
 松陽の寂しそうな声に、銀時は視線を足元の沓掛石に落としながら呻く。高杉が松下村塾に顔を出し始めたあたりから、みやびは目に見えて顔つきが変わり始めた。
 銀時はあの顔に見覚えがあった。
 戦場の跡地を彷徨い、死体から金目の物や食料を剥ぎ取り暮らしていたあの頃。鬼と呼ばれていた頃の自分と同じ、人が憎くて憎くてたまらない顔をしていた。
「きっとみやびは今、何者かによって良くない考えを植え付けられている。彼女はその暗示のようなものと、必死に戦っているんです」
 ふと、そんなことを言い出した松陽に、銀時は顔を上げた。
 松陽は、たまに見せる虚空を見つめる眼を庭の方へ向けている。灰色の瞳が、得体の知れない闇をじっと睨みつけているような、それに松陽がたった一人で挑もうとしているような。
 そんな恐怖を感じ、銀時はとっさに彼の袖を引いた。
「……松陽?」
「!!」
 我に返った松陽の瞳に、見知った銀色の光が差し込む。
「その『良くない考え』は、俺たちの力で追い払えねェのか?」
 迷いなくそう言い放つと、松陽が小さく息を呑んだのが分かった。
「やろうぜ。みやびを俺の妹弟子にしよう大作戦」
「銀時……」
 揺れる灰色の瞳に、銀時は不敵に笑いかける。
 松陽がどんな可能性に思い当たり、何にそこまで落ち込んでいるのかは分からない。けれど、銀時は信じていた。珍しく、松陽よりも信じていたのだ。
「みやびはそんな暗示なんかに、簡単に負けるヤツじゃねーよ」
 松陽は、自信満々にそう告げる銀時へ、心の底から安堵するような笑みを浮かべた。その表情はどこか、泣き出しそうでもあった。

『銀時、君に頼みがあります』
 無我夢中で橋から飛び出し、堕ちていく細い足首をしっかりと掴む。
『どうかこの先、君がどんなに変わり果てたみやびを見てしまったとしても』
 半泣きの縋るような表情で、死にたくないと訴えてくるその少女を見て、銀時は確信する。
『信じてあげてください』
「受け取れェェェ!!」
 体を捻りながら、橋の上で声にならない叫びを上げてる馬鹿面二つ目掛けて、勢いよく振り被った。
 肩の関節が外れたが、大切な届け物はちゃんと届きそうであることを銀時は確認する。
『信じて、彼女が本当に望む道から外れないように、止めてあげてください』
「銀ちゃ……」
 松陽。心配しなくても、みやびはちゃんとみやびだよ。
 どんどん橋から己の体が離れていくのを感じながらも、銀時はどこか満たされたような気持ちでいた。
 みやびが必死の形相で、銀時に手を伸ばしていた。それだけで銀時は、どんな凶行に及んでしまったとしても、彼女の中にまだ自分の知る井上みやびがいると確信できたのだ。
「みやび」
 生きろよ。
 最後に呟いた言葉は、きっとその耳には届かなかっただろう。

 大きな水音が鼓膜に飛び込んできた。
 十月末の川の水は思ったよりも冷たく、纏わりつく水を吸った着物も相まって急激に銀時の体力を削いでいく。
 何かに掴まろうにも、伸ばした左手は形のない泥水を掴むばかりだ。視界の悪い土色の水の中で、銀時はただ為す術もなく流されるしかなかった。
 懸命に藻掻いて顔を出そうにも、思ったように口は水面に出てくれない。足がどこにも付かない恐怖に、今にも体が固まって動かなくなりそうだった。
 息ができない。目が開けない。苦しい。くるしい。
「しょうよっ……たすけっ……」
 誰にも聞こえないであろう微かな悲鳴は、たった一人の家族に向けられた懇願だった。
 いつだったか、二人で旅をしていた頃。生まれて初めて見た海に、感動よりも恐怖を覚えたことを思い出した。
 誰もいない初夏の海岸で、泳いでみるかと聞いてくる松陽に銀時は首を横に振った。
 水の中では息ができないことを銀時は知っていた。泳ぐ術など知るはずもない。教えてくれる人など、誰もいなかった。
 どうしてあの時、泳ぎ方を教えてくれと言わなかったのだろう。笑顔で己の手を引く松陽を思い出しながら、銀時の胸は後悔でいっぱいになる。
 それだけじゃない。もっともっと、松陽に教えてもらいたいことが、たくさんあったのに。
「しっかりしろ、おい!!!」
「ッ、ガハッ、ゴホッ!」
 ここ数日で聞き飽きた怒声にたたき起こされたところで、銀時はようやく喉元まで入り込んでいた汚水を吐き出すことができた。
「ペッ、ペッ! うえっ、土クセェ!」
「ばっ、人の顔に向かって吐き出すんじゃねェ!」
 いつの間にか、流木のように流されていたはずの自身の体は一所に留まっていた。
 その代わりに強い水流と確かな人肌を感じる。見ると、銀時は川の中で何かに掴まった高杉に抱きかかえられていた。
「お前、どうして……」
「あ?」
 高杉が掴まっているもの、それは橋を支える橋脚だった。
 軋む木製のそれを左手でしっかりとホールドした高杉は、右手で銀時の体を引き寄せて不機嫌そうに声を上げる。
「テメェ、あれだけ俺に勝っておいて、勝ち越したままおっ死ぬなんて絶対許さないからな」
 強く掴まれた背中に、さらに力が籠められる。
 この数日間、どれだけひどく打ち負かそうとも逸らされることのなかった、闘争心剥き出しの深緑の眼が銀時を射抜いた。
「俺にあれだけ黒星付けといて、死にそうになってんじゃねェ!」
 眉間にしわを寄せ、相変わらずすかしたことばかり言う、松陽以外に初めて敗北というものを銀時に突き付けてきた男。
 その顔は、上手く隠してはいるがとても疲れ切っているように見えた。
「……おい、俺たちどのくらい流されたんだ?」
「流されたのはお前だけだ。俺は泳いでただけだよ。……橋二つ分だな。今、桂とみやびが助けを呼びに行ってくれてる」
 高杉は袂こそロープで邪魔にならないように縛っていたが、着物は着たままだった。よく見れば銀時が今感じている水圧は、橋脚と高杉の体が壁となっているものの余波で、高杉はその小さな背中で懸命に急流を受け止めている。
 いくら浮力で体重が軽くなっているとはいえ、銀時の全体重は今高杉の右手一本に支えられている状態だった。
 痛んだ木製の橋脚にしがみ付く、その左腕には剥がれた木片が刺さり血が滲んでいる。
「お前、まだ泳げるか?」
「は?」
 額に張り付いた前髪を除けようと頭を振っていた高杉に、銀時はそう問いかける。
「ここにしがみ付いてりゃ俺はしばらく大丈夫だ。先に岸に上がってろ」
「寝言は寝てから言え。利き手脱臼して溺れかけてたヤツが何言ってやがる」
 橋二つ分泳いで渡って、この急流の中子供一人抱えて、片手でささくれだらけの柱にしがみ付いてるヤツが何言ってやがる。銀時は動く左手を橋脚の方へ向けながらなんとか高杉の体から離れようとする。
「ハッ! 俺よりクソ弱いくせに、一度勝ったくらいで上から目線でヒーロー気取りかコノヤロー」
「……んだと?」
「冗談じゃねェ。テメェが奇跡的に俺から一勝する間に、俺はお前に何勝した?」
 左手だけで何とか橋脚にしがみ付けた銀時は、そのまま高杉の体から少し離れて顔をしかめる彼を睨みつけた。
「俺に本当に勝ちてェなら、負け分取り戻してェなら、明日も来い。テメェも、生きて来ればいいんだ。……松下村塾に」
 利き手を犠牲にして掬い上げた、あの少女の笑顔を思い出す。
 来ればいい、みんなで。待っているから。
 俺と松陽が、待っているから。
「……俺は」
 その時初めて、どんなに疲労していても光を絶やさなかった高杉の瞳に、一瞬の闇が差した。
「どうし……」
 銀時が声を掛けた、その瞬間だった。

 高杉の背後に細長い影が現れた。それは容赦なく高杉の後頭部に激突し、そして二人が掴まっている古びた木製の橋脚に凄まじい音を立ててぶつかる。
「!!」
 銀時の背丈の倍の長さはある、直径十五センチほどの大きな丸太だった。それは橋脚にぶつかった衝撃で銀時には衝突せず、軌道を変えて高杉の横を通り過ぎていく。
 上流に建設現場でもあったのだろうか。柱にしがみ付きながら銀時はその木材を横目で見送る。
「おい、大丈夫……」
 そして彼が高杉の無事を気遣った直後、高杉の体から目に見えて力が抜けていくのが分かった。
 剥がれていく柱にしがみ付いていた左手。銀時はとっさに利き手を伸ばそうとして、肩に走った激痛で現実を思い知らされる。
「高杉!!」
 その時初めて、銀時は彼の名を呼んだ。
 けれど、そんなことに気付く余裕など到底ない。
 虚ろな深緑色の瞳が土色の水に沈んでいく。利き手は使えない、左手を放せば自分も流される。
 考えている暇はなかった。思考よりも先に身体が動いた。
 銀時は水面に顔を突っ込み、高杉の着物の肩のあたりに食らいつく。
 指先だけで辛うじてしがみ付いている橋脚を死んでも放すかと、腕に渾身の力を籠めた。
 息ができなかった。でもそれ以上に銀時の心を焦らせたのは、高杉の顔がおそらく水面から出ていないだろうということ。
 早く、一刻も早く引き上げなければ。
 ひっ迫した銀時の思いとは裏腹に、橋脚と自身の距離を縮めることは叶わない。高杉の体に掛かる水流の負荷で、首がもげそうだった。
 息ができない、苦しい。それでも先ほどのように、死に際の後悔なんてしていられなかった。
 食らいついたこの男を、決して死なせるものか。その執念しかもう、彼の頭にはなかった。

「銀時!!」
 ふと、体が急に軽くなった。
「銀時、銀時ッ!」
 この世で最もよく聞いた声に、縋るように何度も名前を呼ばれ、噛みついていた男と共に大きな腕の中に抱かれる。
 温かい。そう思った。
「しょう、よう……」
 霞んだ視界が徐々に鮮明になってくる。長い髪が頬に張り付いたずぶ濡れの松陽が、心の底から安堵したような表情で覗き込んでいた。
「よく頑張りましたね。もう少しの辛抱です」
「しょ、よう……たかすぎ、が……」
 松陽の羽織にしがみ付きながら、銀時は息も絶え絶えにそう告げる。松陽は銀時を安心させるように一度だけ頷いた。
「銀時、体からできるだけ力を抜いて。全身ではなく頭だけ浮かせるようにしていなさい。他は何もしなくていいし、考えなくていい」
 松陽の優しい声に、銀時は無言でこくりと頷く。それを確認すると、松陽はそのまま二人を抱えて平泳ぎで岸に向かって泳ぎ始めた。
 その表情には確かな焦りが滲んでいることを、銀時は気付いていた。
 けれど、松陽の言いつけを珍しく守ろうと思った銀時は、せめて岸につくまではもう余計なことは考えないでおこうと思った。


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