生きろよ
 みやびよりも頭一つ大きな少年たちに四方を囲まれて歩かされれば、みやびの状態など周りの人間にはそうそう分かるはずもなく。口と手の自由を奪われたまま歩かされた先にあったのは、松下村塾からほど近い意外な場所。
 みやびと松陽たちが初めて出会った、あの橋だった。
 街道に直接通じる大きな橋が少し先にある所為か、その橋を通る人間はそれほどいない。橋の先にある田園地帯に住む人間が町の中心地に出てくる際に利用するくらいで、日中でも人の往来はほとんどなかった。
「来ますかね、あいつ」
 橋を渡り終えた先、土手に植わる葉先が赤くなり始めた桜の木の向こうを少年たちは眉間にしわを寄せ凝視している。みやびの胸や喉元を子分に欄干に押し付けさせた堀田兄が、竹刀の切っ先を床板に付けて仁王立ちしていた。
「来なければこの女を宣言通りいたぶるまでのこと。ぼろ雑巾みたいにしてあの得体の知れない私塾の前に放り出してやろうではないか」
 下卑た笑い声を上げる少年たちにまた頭痛が強まる。
 話の流れから推測するに、またみやびを人質に誰かを暴行するつもりなのだろう。前回は未遂で終わったが、みやびが縛られている以上今回は圧倒的にこちら側が不利だ。
 悪魔め、死ねばいい、死んでくれ、死ね。死ね。死ね。
 頭が割れるような痛みの中で、誰かが甘ったるくそう囁いている。
「あっ、来ましたぜ!!」
 一人の少年が上げた声に、みやびも上半身を欄干に押し付けられたままどうにか顔をずらして橋の向こうを見る。
 この男たちのことだ、きっとまた高杉や桂を呼び出したに違いない。そう思ったみやびは、視界に入った色に驚愕する。
 白銀の、波打つ髪が揺れていた。
「約束通り一人で来ただろうな、白髪頭」
 堀田兄が見据える先にいたのは、その体躯に見合わぬ長さの刀を帯刀し鼻をほじる見慣れた眠たそうな顔。
 坂田銀時、その人だった。
 なんで。
 みやびのその疑問を代弁するように銀時が口を開く。
「おいこら。俺ァてめーらみたいな鼻垂れボンボン共とは縁もゆかりもねェはずだぞ。喧嘩売るなら俺じゃなくて同じボンボンのアイツだろうが」
「はっ! 何を言い出すかと思えば、いけしゃあしゃあと……俺の顔を踏みつけたあの所業、忘れたとは言わせないぞ!」
「そんくれーでカリカリすんなよ。テメェの顔面なんざ玄関マットと大差ねーだろうが」
「大有りだわ無礼者! 誰の顔面が足拭きだ!?」
「そうだぞ! 確かに俺たち堀田家の顔面は残念だし兄者はそれで多少高杉や桂に嫉妬してる節はあるけど、お前程度に言われるとなんか癪だぞコラ!」
「あ゛!? ふざけんなよ少なくともテメェらモブよりはよっぽど漫画映えする顔してるわ!!」
「お前それフォローになってないからな!?」
 前方でギャイギャイと騒ぎ立てる堀田兄弟と銀時へ子分たちの注目が向いている今のうちにと、みやびは頬を手すりに押し付けて何とか猿轡だけでも剥ごうとする。
 剥げたペンキが頬をチクチクと刺す感触に耐えながらも、口にしっかり噛まされた手ぬぐいのようなものを力づくで顎下に持っていこうとしていた、その時だった。
 突如、堀田兄が振り向く。ギョッとしたみやびの目論見には気付かず、彼はそのままみやびの首元を後ろから掴んでみやびの上半身を大きく橋の外側へ突き出した。
「!!」
 思わず息を呑む。
 眼下に広がるのは、いつぞやの嵐の翌日ほどではないが、夜半から朝方まで降り続いた雨で水嵩が増した松本川。
 泥を多く含んだ雨水が流れ込み茶色く濁ったそこは流れも速く、時々大きな枝なども流れてくる。
「白髪頭、刀を置いてこちらへ来い。抵抗すればこの女を突き落とす」
 本能的に感じた恐怖に抗えず声を失っていると、そんな脅し文句が聞こえてきた。そして数秒の沈黙ののち、何か固い物をそっと置いた物音がその場に響く。
「んーっ、んんー!!」
 来ては駄目だ、逃げろ。そう思いを込めてみやびが言葉にならない叫びを上げると、背後から掴まれている首根っこが少しだけ下げられたのが分かった。
「俺をボコりてェなら好きなだけやらせてやる。どうせさっき不敗神話(しょじょまく)ぶち破られてきたところだしな」
 草鞋が橋の床板を蹴る乾いた音が響く。みやびは下腹部を手すりで圧迫されながら、体をくの字にして体を震わせる。
「だから、さっさとそいつの体を戻せ。……地獄見るぞ、テメェら」
 銀時の口から地獄という単語が出た瞬間、みやびは後ろ手に縛られた自分の腕が、堀田の着物の袂を掴めることに気付いてしまった。
 もし、それを掴み、みやびが敢えて重心を前の方へ傾ければ。
 彼を、自分諸共この川の中へ引きずり込める。
「ハッ! 地獄? 今から地獄を見るのは貴様だと分からんのか?」
 全身が心臓になったかのように、体全体で激しい動悸を感じる。

 どうしてこんなクズが平然と息をしていて、父は首を刎ねられなければならなかった?

 誰かの声ではない。みやび自身が、自らにそう問いかける。
「お前たち、やってしまえ!!」
「誰が誰をやるって?」
 突如掛かった思わぬ声に、竹刀を振り回し意気込んで飛び出した少年たちの動きが止まる。
 しかしその大好きな声でさえも、みやびの意識を引き戻すことはできなかった。
「いっ!?」
「た、高杉!? 桂!?」
 次の瞬間、みやびは腰のあたりを誰かに掴まれた。
 桂の手がしっかりとみやびの体を固定すると同時に、高杉が堀田兄の腕を掴んで思い切り捻り上げる。悲鳴を上げて右手を押さえながらそのまま後退した堀田兄を始めとした少年九人を、銀時と高杉と桂が挟み込むように行く手を阻んだ。
「き、貴様らいつの間に……!!」
「テメェらがおしゃべりに夢中になってる間に、一本向こうの橋渡って回り込んできたんだよ」
「……!! 貴様ァ! 一人で来いと言ったはずだぞ!!」
「知らねーよ、アイツらが勝手に付いてきたんだろ? 俺はちゃんと握り飯パーティーの中でこっそり抜け出してきたっての」
 余計な事をと言わんばかりの呆れ顔でそう言い放つ銀時を、高杉が鼻で笑う。
 そうしている間にも桂がみやびの猿轡や縄を解いてくれたが、みやびの視線は相変わらず堀田から離れることは無かった。
「井上、怪我はないか? どこか痛むところは……」
「死ねばいい……」
 心配そうにみやびを覗き込む桂を、みやびは見ようともしない。
 そして呟かれた静かな、けれど確かな殺気の籠った一言を、桂はしっかり聞き取ってしまった。
「……井上?」
「おい桂! みやび連れて下がってろ!」
 桂の眉間にしわが寄り、声に探るような感情が混じる。
 もうすぐ乱闘になるであろうその場で身動きを取ろうとしない彼らに、少年たちを睨みつけたまま高杉が叫んだ。
 虚ろなみやびの目には、もう堀田の姿しか映っていない。自分も銀時も、高杉すらも認識していないその姿に、桂は困惑したように瞳を揺らす。
「……井上、ひとまず下がろう。ここは危険だ」
 それでも、とりあえずは高杉の言うとおりに下がらせた方が良いと判断したのだろう。桂がみやびの腕を掴み、多少強引にその場から動かそうとする。
 だがみやびは、その手を勢いよく払った。
「!! おい、一体どうし……」
 真新しい赤い羽織を揺らしながら、彼女は桂の目の前を横切っていった。
 川瀬に買い与えられた白い鼻緒の草履で、一歩一歩その男との距離を縮める。
「みやび? ……って、おい!!」
 そこで初めて、高杉はみやびの様子が可笑しいことに気付いたようだった。
 自分には見向きもせず堀田兄の方へまっすぐ進んでいくみやびへ、ギョッとした表情を浮かべながらも咄嗟に手を伸ばす。
「どうして父上が死んで、貴方みたいなのが生きているの」
 だが、その酷く冷たい声に、高杉の手は凍り付いたように動きを止めた。
「な、何を……!!」
 戸惑う堀田の首元に、その手は本気で命を刈り取るが如く、勢いよく向かっていった。

 誰もがその行動に身の毛がよだち、一瞬自分がすべきことも忘れて立ち尽くす。
 その世界で進む時の流れが急に遅くなったかのように、みやびは己以外がとても緩慢な動きをしているように思えた。
 みやびの細く白い両手の指が、堀田兄の首に食い込んでいく。
 高杉の首に伸ばした時よりも、ずっと強く籠る力。目をひん剥き大口を開けて焦る堀田兄を、みやびはそのまま、自分がやられたように手すりに押し付け、その頭を橋の外側へ突き出す。
 死んでしまえ。
 お前など、お前たちなど。
『父を殺した男の家族を、同じように皆殺しにしてやるのに』

「殺してやる!! お前など、あの男の家族など!!」
「みやび止めろっ!!」
 みやびの叫び声を聞き、最初に動いたのは銀時だった。
 彼が叫びながら飛び出すのと同時に、少年たちが悲鳴を上げて後ずさりし始める。
「ひ、人殺しの娘だっ……!!」
「人殺しーっ!!」
 全力で町の方へと駆けていく少年たちが、高杉と桂の横を通り抜けていく。二人は相変わらずその場から動けずにいた。
 揺れている瞳は、父を亡くした少女の凶行をただ黙って見つめている。
「みやび、落ち着け!! お前まで落ちちまう!!」
「死ねっ、死ねっ、死ねっ、死ねっ、死ねえええ!!」
 断末魔のような金切り声で、呪いの言葉を絶えず吐き出していた。
 堀田の体を川に突き落とすには、みやびには力が足りない。それを補うためにどんどん前のめりになるみやびを、銀時が羽交い絞めになって止めようとする。
 しかしみやびの体には、川に落とされそうになっている堀田が必死に縋りついているため、銀時の力だけでは二人を引き戻すことは難しかった。
「何やってんだテメェら!! みやびを人殺しにさせてェのか!?」
 銀時の叫びに、二人の肩が跳ねる。
「井上っ、やめろっ!!」
 桂が何とか我に返り、叫びながらみやびの体を掴もうとしたその時だった。
「う、あああああっ!!!」
 目尻に涙を浮かべた堀田が、銀時ごとみやびを振り払い上体を起こす。
「お前が、死ねェェェ!!」
「!!」
 堀田が、渾身の力でみやびを投げ飛ばす。
 その体は、まるでブリキの人形のように、軽々と橋の外へと投げ出された。

 動けないでいた高杉の深緑の瞳に、髪を振り乱し、手を無造作に広げ、重力に従い徐々に落下を始めるみやびが映る。
 みやびの視界にもようやく、己を呆然と見つめる深緑色が飛び込んできた。
 互いが伸ばした右手は遥か遠く。少年の小さな腕では、少女の細い指では、もう互いの体を抱きしめることはできなかった。

 ああ、死ぬんだ。
 みやびは瞬間的に悟ってしまった。己の纏う赤い羽織の袂が視界の端ではためく。今から墜ちるのだと、もう二度と、そこへは行けないのだと。
 察して、そして、死にたくないと思ってしまった。

「みやび!!」
 叫んだのは高杉ではなかった。
 銀時が橋から身を乗り出し、欄干を蹴る。
 伸ばされたその手はギリギリで、しかし力強くみやびの足首を掴んだ。
 勝ち誇ったような銀時の笑みを、みやびは確かに目撃した。
 そして。
「受け取れェェェ!!」
 彼は落下したまま空中で体を捻り、橋の上へと振り向きざまに凄まじい馬鹿力でみやびの体を、振り被った。
「ぎっ……!!」
「ッ!!」
 遠心力が掛かったみやびの体が思い切り投げ飛ばされたその瞬間、彼女は銀時の肩からゴキッという鈍い音が響いたのを聞く。
 おそらく関節が外れたのであろう激痛の中でも、相変わらず彼は笑っていた。
「銀ちゃ……」
「みやび」
 生きろよ。
 唇がそう動いたのを、見た。

 時の流れが遅くなる魔法が解けたかのようだった。
 みやびは高杉と桂の体に勢いよく背中から突っ込む。そして一秒後には下方から大きな水音がしたのを聞いた。
「う、うあああああっ!!」
 情けない悲鳴を上げて逃げ出す堀田に、構っている余裕などなかった。痛みを感じる間もなく三人とも橋から身を乗り出す。
「銀ちゃん!! 銀ちゃんっ!!」
 見下ろしても、叫んでも、そこには濁流が音を立てて流れているだけでどこにも見慣れた白銀はない。
「あそこだ!」
「!!」
 桂の声に反応し二人が顔を上げて彼の指差す方を慌てて見る。
 もう橋の真下から二十メートルは先にある水面にちらつく白。時々上がる青い着物の袖が纏わりついた手は、何か掴むものを探しているようにも見えた。
 溺れている。
 もう、頭痛も動悸も、誰かの死を望む声もしなかった。
 ただ、なんてことをしてしまったんだという後悔と、掛け替えのない友人を失うかもしれない焦りだけが、みやびの全身を支配していた。
「銀ちゃん!!」
 銀時がどうして川に落ちたのかも忘れて、みやびは自らが川に飛び込もうとする。それを制ししたのは二つの手だった。
「放してっ!! 銀ちゃんが!! 銀ちゃんが!!」
「無理だ井上!! お前が飛び込んだらお前の方が溺れ死んでしまう!!」
 桂が後ろから羽交い絞めにしてみやびを欄干から遠ざける。みやびはそれでもなお足をバタつかせながら激しく暴れた。
「放してっ!! 私の、私の所為でっ!! 銀ちゃん!!」
「井上!!」
「どうして私なんか!! 全部自分が蒔いた種なのにっ、溺れ死んだって自業自得だったのにっ!! どうしてっ!? 銀ちゃ……」
 みやびの慟哭をかき消すように、乾いた破裂音のような音が響いた。

 みやびは、痛みよりも驚きで、その体の動きと叫びを止める。
 じわじわと広がる鈍い痛みを湛えた左頬を、左手でそっと覆った。その瞳がゆっくりと、目の前で平手を翳した少年、高杉晋助に向かう。
 何も言わない彼の深緑の目は、静かな怒りを纏い燃えていた。
「晋助、くん……」
 みやびがその名を呼び終えない内に、彼は川の方へと振り向いて自らが纏っていた葡萄色の羽織を脱ぎ捨てる。
「桂、みやび連れて誰か呼んで来い」
「おい、何を考えている高杉……?」
 高杉の言動に桂が焦ったように声を掛けるが、彼の問いかけに言葉が返ってくることは無かった。
 高杉は、落ちていたみやびを縛っていた縄で着物の袂をたすき掛けで留めると、そのまま欄干を跨いで外側のわずかな出っ張りに足を掛ける。
「晋助くん……っ」
「止めろ高杉! お前でも無理だ!!」
 慌てて高杉に二人が駆け寄るも、手すりに外側から掴まる彼のその表情を目の当たりにして足が止まる。
「あいつは死なせない。……だから、俺たちを助けに来てくれ」
 頼む。
 そう訴える瞳は、確かに不安や恐怖で揺れているのに、彼は静かに大人びた笑みを浮かべるだけだった。
 手すりから離れる高杉の両手。頭から綺麗に飛び込んでいった高杉は、濁った水飛沫に包まれて消えてしまう。
 結局、戸惑いなくその激流の中に飛び込んでいく高杉を、二人で見送ってしまった。
「高杉!!」
「晋助くん!!」
 二人して慌ててその行方を目で追うと、数メートル先で水を掻き泳ぐ高杉の姿を発見する。ひとまずは溺れていないようだったが、もうすでに銀時の姿は高杉よりもずっと向こうにあった。
「……大人を、呼びに行こう」
 桂が震えた声でそう告げる。彼の手はもう、欄干から離れていた。
「あの二人の命は、俺たちに掛かっている……!!」
「!!」
 呆然と、濁流に飲み込まれまいと必死に泳ぐ高杉の姿を眺めていたみやびの両肩を掴み、桂がそう言い放つ。
『生きろよ』
『俺たちを助けに来てくれ』
 墜ちていく銀時の不敵な笑みが、飛び込む寸前の高杉の大人びた微笑みが、頭の中でぐるぐると回る。
『君は松下村塾の井上みやび。私の、大切な教え子』
『血の繋がらない人間なんて、誰一人当てにできないよ』
『もしみやびが誰にも相談することなくいなくなってしまったら、きっと私は寂しくて泣いてしまうなと思って』
 少しだけ、頭痛と共に甘ったるい誰かの声がした。
 それでも、みやびの中にある松陽の言葉は、彼が灯してくれた光は消えなかった。
「先生……」
 助けを求める囁きは、無意識のうちにみやびの口から漏れ出ていた。
 高杉に己の武士道を語り、銀時と親子のように並んで歩く、あの優しい青年の姿しか、みやびはもう思い描けなかった。
 助けて、先生。
 銀ちゃんと晋助くんが。
 私の所為なの、私の所為で、二人が。
「先生、松陽先生っ!!」
 いつの間にか脱げていた草履に構うこともなく、足袋のままでみやびは葉が色づく桜並木の向こう目掛けて全力疾走を始める。今度は止めることもなく、みやびを追い抜くような速さで桂も同じ方向へ向かった。
 小石を踏みつけ純白の足袋が裂けようが、水たまりに突っ込み正絹の着物の裾に泥が跳ねようが、もう関係なかった。
 一刻も早く、松陽を二人の元へ連れていくことしかもう、考えられなかった。
「松陽せんせえええっ!!」


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