復讐より何より
 十月の終わり、萩の町に最後の秋雨が降った。夜通し続くこの小雨が上がれば、しばらくは秋晴れが続きいよいよ紅葉も見ごろを迎えるとのことだ。
 みやびはそんな天気予報士の嬉しそうな報告を、叔父の川瀬が泊まる宿の一室で聞いていた。
「今日はもうここへ泊っていくといい。今宿の人に頼んで使いを出してもらったから」
 懐に財布を仕舞いそう言う川瀬を横目に捉えながら、みやびは部屋の端で膝を抱えたままの状態から動かない。口を開こうともしないみやびに苦笑を浮かべると、川瀬は旅の荷物を包んであった風呂敷から見覚えのある摘まめる程度の小さな包みを取り出した。
 いつもの飴だった。食べるかい? と差し出されたそれへ、みやびは反射的に手を伸ばす。みやびはその飴の甘ったるさが好きだった。父と甘味をつつきながら笑いあった日々を思い出すから。
 半透明の包み紙をやや乱暴に剥ぎ取り、摘まみ上げた親指大の球体を口の中に放り込んだ。

 松下村塾から逃げるように去ったのち、みやびはいつもの就職先探しを行わずに叔父の泊まる宿へと直行した。
 家に帰ったところで、待っているのは父を殺した堀田家の人間ばかり。この町にもう自分の味方など、血の繋がった叔父以外にいないとすら思えたからだ。
 飴が溶けていくのと比例して、嫌なことばかりを想像するこの脳も溶けて無くなればいい。そんなことを考えながら、みやびは無心でその林檎味を舌の上で転がす。歯に飴玉がぶつかる音と、窓ガラスを叩く雨音だけがみやびの頭の中に響く。
「……川瀬さん」
 か細いみやびの呼びかけに、川瀬は亡き母によく似た微笑みで応えてくれた。それを眺めながら、みやびの迷いは段々と決心へ向かっていく。
「川瀬さん、言いましたよね。自分が私だったら、こんな生活は耐えられない。この町の人間に復讐してやるのにって」
「……ああ、言ったね」
 青年の笑みがどこか歪なものになっていく。それに気付いてはいたが、もうみやびが助けを求められる人間など他にはいない。
「私を、この町から連れ出してくれませんか?」
 みやびが迷いなくそう言い放った瞬間、川瀬の口元から笑みが消えた。真顔に戻った彼を、みやびは挑むように見上げる。
 もう、一刻も早くここを去らなければならなかった。
「護りたい人たちがいるんです」
 思い浮かべるのは、取り上げられた家族の姓で今でも呼んでくれる友人。父を想っていてもいいんだと言ってくれた恩人。この傷を癒す薬になりたいと言ってくれた恩師。人殺しの娘を受け入れてくれた仲間たち。
 もうあんな思いをしないで済むようにと、誰よりも強くなることを約束してくれた、大好きなあの人。
「彼らに酷いことをしてしまう前に、早くここから離れたいんです」
 みやびにももう、川瀬がただの優しい叔父ではないことくらい分かっていた。
 それでも、きっと彼の吐き出す毒を何処かで肯定してしまう自分だって、間違いなく彼と同じ良くない人間の血が流れているのだ。
 良くない人間のそばにいるのは、良くない人間の方がいい。
「この町の人間を一人残らず殺したい衝動と、一生戦い続けることになってもいい。それでも私は、彼らに幸せに生きていてほしい……復讐より何より、それを強く願っているんです」
 部屋の端に置かれた、行灯の光が揺れている。薄暗い部屋でしばしの間みやびを無表情で見つめた川瀬は、やがて張り付けたような笑みを浮かべて頷いた。
「分かった。けど僕も仕事があるから、ひとまず三日後の朝まで待ってくれないかい?」
「三日後……」
「君も明日明後日で、荷物をまとめたり挨拶周りをしたりするといい。そうしたら、君の望み通りこの町から君を連れ出そう」
 有無を言わさぬその物言いに、みやびは俯く。
 本当は今すぐにでもここから、高杉たちから遠く離れたかった。
 自分の中にある殺意を抑えきれず、頭のおかしい夢と現実の区別がつかなくなってとうとうあんなことをしてしまったのだ。明日また同じことをしない保証はどこにもない。
 しかし川瀬の元に身を寄せる以上、話の主導権は川瀬にあることくらいは分かる。
 彼女はしぶしぶ三日後を待つことを了承した。

 その夜、屋根に滴る小雨を聞きながらみやびは川瀬の泊まる宿で一夜を明かした。
 久々に人の気配がある場所で見た夢は、楽しそうに笑う高杉や桂、松下村塾の皆を遠くから見守るだけの、みやびが望んだ寂しい夢だった。

 翌朝、みやびが目を覚ました時すでに川瀬は宿を発った後だった。時計を見ればもう十時近く、付きっぱなしになっていたテレビではもう朝の情報番組がエンディングを迎えようとしていた。
 今までにしたこともないような朝寝坊に面食らったが、用意されていた朝食が美味しくてそんな罪悪感もすぐに忘れる。今日は久々に朝食を完食できた。
 昼の情報番組をぼーっと見ながら、この二日で何をしようか考える。
 ひとまずは堀田家に置いてある数少ない荷物を取りに行こうと思い立ったのは、正午を少し過ぎた頃のことだ。
 川瀬が買い揃えてくれた紅葉柄の小紋に身を包み、黒と黄色の七宝柄の名古屋帯を締めて赤い羽織に袖を通す。そろそろ宿を出ようと、みやびはテレビのリモコンを探した。
 それは、部屋の隅に置かれた風呂敷の下に半分埋まっていた。
 リモコンを取り出すために中身が詰め込まれた風呂敷包みを動かせば、中からポロポロと例の飴玉が三個ほど零れ落ちる。そしてその包みから少しだけ飛び出していた書類に書かれた化学式に、みやびは妙に好奇心を注がれた。
 書類をそっと引きずり出すと、その下には二百個はあるのではないかというほど大量の飴玉が詰め込まれている。それを少し異様に思いながら、みやびはおもむろに書類に目を通した。
「これ、アルカロイド……?」
 六角形の中に踊るNやHを目で追いながら、義母の佐栄が来るまで当たり前のように読んでいた薬の成分表を頭の中で思い返す。その化学式が薬だとは限らなかったが、みやびの記憶が正しければ、いくつか思いつく有機化合物の構造式と似た特徴が見受けられた。
 それがどことなく、昔見た薬の成分表に乗っていた向精神薬に似ている気がして、妙な寒気が背筋を襲う。
 いや、でもあの向精神薬にはこんな元素は無かったはずだ、ここは結合していなかったはずだと、もう何年も前に見たおぼろげな記憶を頼りに頭を振る。
 仮に向精神薬だったとして、きっと仕事で使う書類をたまたま挟んでいただけだ。とみやびは恐る恐る視線を落とす。
 夥しい量の飴玉を視界に捉える。そんなはずはないと生唾を飲み込む。
「……」
 気が付いた時には、みやびは宿の机の上に置かれたメモ用紙とペンを取り、一心不乱にその化学式を書き写していた。
 そして零れ落ちた飴玉を三つ掴み、メモと一緒に懐へしまい込む。彼女は乱暴に書類を風呂敷の中へ突っ込み、逃げるように宿屋を後にした。

 彼女が宿を出るころには、すでに空には清々しいほどの秋晴れが広がっていた。足元こそ朝方まで降っていた雨でぬかるんでいたが、道行く人々の表情も心なしか晴れやかである。
 なるべく、そんな町の人々の笑顔を視界に入れないように、みやびは堀田家への道を急ぐ。
 裏口からこっそりと入り、使用人や家の者に見つからないように庭の木陰を縫うように駆けた。たった数か月と言っても住処であった寂れた茶室をそっと見上げる。
 堀田の冷たい視線が脳裏をちらつき、悪魔を許すなという囁きがどこからともなく聞こえてくる。それを振り払うように、みやびは大きく頭を横に振って勢いよく引き戸を開けた。
 今後着るかどうかは分からないが、数枚の木綿着物や半幅帯をその他の肌着や襦袢と共に押し入れから引きずり出す。
 父の再婚前に撮った二人だけの写真、辞めてしまった和歌の教科書、母の形見の三味線にいくつかの髪飾り。それらをなるべく小さく纏めたのち、みやびは最後に残った私物である一冊の本を手に取る。
 松陽が手作りした教本だった。
 深緑色の表紙に、達筆ながらもどこか温かみがある字で表題が記されている。
 無意識のうちに、それを強く抱きしめていた。
 ここにいたい。彼らと離れたくない。松下村塾に通いたい。先生に、銀ちゃんに、桂くんに会いたい。
 晋助くんと一緒にいたい。
 その願いだって、確かに自分の本当の気持ちであるはずだった。
 なのにどうして、こんなにも何もかもが憎いのだろう。殺してしまいたいのだろう。壊してしまいたいのだろう。
 昨日と同じ激しい頭痛が再びみやびを襲う。今度は眠る高杉もいなければ、止めてくれる松陽もいなかった。
 助けを求めるように教本へ縋る。痛みから生理的な涙が浮かび、みやびは奥歯をギリギリと噛み締めた。
 そのまま前のめりに倒れこみ、畳に額を擦り付けた、その時だ。

 突如開かれる障子。酷薄な眼と視線が交わり、複数人の少年の笑い声を聞いた。
「……!!」
 涙で滲む視界で、ずらりと並ぶ人影を捉える。
 大きく開かれた障子の外に立ちはだかるのは、堀田の子息二人とその子分たち総勢九人。全員が竹刀を携えニタニタと気持ちの悪い笑みを浮かべているのを、みやびは畳に座り込んだまま何とか上体を起こして見上げた。
「おい、やれ」
「!!」
 すると、堀田兄がそう言って顎を動かすのと同時に、何人かが動いてみやびを取り囲む。みやびは痛む頭を押さえながらも咄嗟に立ち上がり、周りを睨みながら懸命にその包囲網を掻い潜ろうと畳を蹴った。
 しかし、途端に背後から竹刀で突かれ、膝から崩れるように転ばされる。
 手放してしまった教本がバサリと音を立てて落ちる。そのままみやびも畳の上に引き倒され、二人の少年に圧し掛かられた。大声を上げようとした口を布で塞がれ、後ろ手に手首を拘束される。
「大人しくしていれば悪いようにはしないさ。お前もようやくこの家を出て行ってくれるようだしな」
 明らかにここを去る身支度をしていたと分かる光景を見渡し、堀田は満足げに微笑んだ。みやびの顎を取ると、床にうつぶせに転がったままの彼女の顔を無理やり上げる。
「ただ、最後に宿代として我らに少し協力してもらおうと思ってな。それで先日の、我ら武士を愚弄した罪もチャラにしてやる。俺たちの寛大さに感謝するんだな」
 そう言って堀田は大げさな笑い声をあげる。弟を始めとした何人もの子分がそれに追従する。
『武士道とは、弱き己を律し強き己に近づこうとする意志。自分なりの美意識に沿い精進する、その志を指すのです』
 気持ち悪い。
『堀田家の人間は悪魔だ。君のお父さん一人を犠牲にして、自分の手は全く汚さずに地位を守り通した。本当は誰よりも淘汰されるべき存在なのに』
 様々な言葉が頭の中をぐるぐると回る。
 誰でもいい、誰かこの虫けら共を黙らせてくれと。みやびが向ける殺意のこもった視線に少年たちは誰一人として気付かなかった。


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