赤の他人
 何かに、馬乗りになっていた。
 温かく弾力のあるそれに跨って、ただ無心に手の中にある物を振り下ろし続けた。
 振り下ろすたびに、水風船を割ったかのように生暖かい液体が頬や腕に掛かる。
 どす黒い視界の中で、虚ろな深緑色の光が二つ、物言わずジッとみやびを見上げていた。
 やがて穴だらけになった柔らかい場所から飛び出してくるのは、湿った光を帯びた臓物、肉片、骨。
『やめてくれっ、お願いだっ!! 晋助には手を出さないでくれ!!』
 父を殺すと宣言したあの男が、手足を縛られ芋虫のように転がされ、無残に切り刻まれていく息子を見て叫んでいた。


 高杉が松下村塾へ道場破りに通うようになって十日が経過した。
 みやびがこの町で自力で生きると決めて早九日。みやびは毎日午後の自習を早退し、夕刻まで様々な商店や飲食店、宿屋や問屋を虱潰しに回っている。
 住み込みの女中を募集していないか。子供でも働ける店を知らないか。この九日間で萩の繁華街にある店は殆ど回り終えたが、どこも面接すらしてもらえなかった。
 就職活動は難航していたが、それ以上にみやびを蝕んだのは例の悪夢だった。
 この十日間、連続で同じような悪夢を見る。
 萩の町に炎を放つ夢、侍たちの首を刎ねる夢。
 そして、高杉晋助を惨殺する夢。
 起き抜けは正気でいられるはずがない。何度も胃液を枕元にぶちまけ、髪を振り乱しながら慟哭した。
 高杉を手に掛ける夢を見るなど、どうかしている。そう自分に憤慨する自分がいる一方で、高杉家や堀田家、父の命を踏みにじった萩の人間への殺意をもう誤魔化しきれない自分もいた。
 こんな妄執に憑りつかれてしまった、その引き金は分かっている。
『血の繋がらない人間なんて、誰一人当てにできないよ。だって君が本当に苦しい時、誰も何もしてくれなかったんだろう? 罪人の娘と後ろ指を指し、面白おかしく噂話を吹聴するばかりだったんだろう?』
『堀田家の人間は悪魔だ。君のお父さん一人を犠牲にして、自分の手は全く汚さずに地位を守り通した。本当は誰よりも淘汰されるべき存在なのに』
『高杉大忠太を許すな。善人面しておきながら、いざとなれば保身のために二十年来の親友すら切り捨てられる。お家と自分の立場を守ることしか頭にない、腰抜けの売国奴が』
『君のお父さんは本当に、君が独りで能天気に生きていくことを望んでいるのかな? 自分の無念を酌んで、君にも戦ってほしいと。そうは思っていないのかな?』
 川瀬は夜毎、みやびにそんな呪いのような言葉を吹き込んできた。
 みやびはいつも、川瀬と共に夕食へ赴く際、まるで戦いに挑むこうな心持ちでいる。今日こそは言ってやるのだ。私はそんなことは思っていない。私はこの町で生きていくのだと。
 けれど、どうしても言えなかった。
 呪いの言葉は帰り道でしか吐かれない。その時になるといつもみやびは頭が真っ白になり、叔父の言葉をただただ受け入れるしか無くなってしまう。
 それ以外の選択肢が突然自分の中から消えてしまうのだ。
 憎い、苦しい、辛い。頭のてっぺんから足の先までそんな負の感情で満たされて、堀田家に着く頃には悔しさのあまり泣き出すこともあった。
 口内に広がるいつもの口直しの飴だけが、甘ったるい父との思い出を彷彿とさせ、孤独なみやびの心を慰めてくれた。
 そんな状態で床に就き、まともな夢など見られるはずもない。朝食も喉を通らず、生きると決めたはずなのにみやびの顔は相変わらずやつれたままだ。
 それどころか、最近はどことなく目付きが荒んでいるような気すらしてくる。
 手鏡で覗いた自分の顔がどこか凶悪な気がして、みやびは人知れず頭を抱えていた。
 自分が自分で無くなっていくような感覚。井上みやびが今まで大切にしてきた気持ちや信じるものが、じわじわと塗り替えられていく気さえした。
 ここ三日ほどは、悪夢を見るのが怖くて夜通し起きようとしている。しかしいつの間にか寝入ってしまい、そしてまた醜悪な夢によって吐き気を催しながら明け方に覚醒する。それの繰り返しだ。

 そんな生活が祟ったのだろう。もうすぐ十一月という秋も深まるその日、三時間目の授業中みやびは突然激しい眩暈に襲われた。
 異常な動悸を全身に感じ、座っていることすら困難になる。
 やがて力の抜けた上体が机の上に投げ出され、端に置かれていた筆や硯を墨ごと勢いよく畳にぶちまけた。
 近くの席の生徒たちや松陽が血相を変えてみやびの名を呼ぶのを、ぼやけた世界でしばらく眺めた後に、みやびは完全に意識を手放した。

 そして彼女は夢を見た。
 美しい梅の木の下にいた。それは高杉邸の中庭のようでもあり、今は無きみやびの生家の中庭のようでもあり、そのどちらでもないような気もした。
 季節外れの梅の花は満開を少し過ぎ、花弁がほろほろとそこかしこに零れている。むせ返るような紅梅の深い香りに包まれながら、みやびは地面に散らばった梅を踏まないようにその場から動けないでいた。
『みやび』
 一陣の風が吹いた。零れていた梅が彼方へと攫われていく。
 花が目に入らないように目を閉じていたみやびが目蓋を開くと、そこには高杉がひとり佇んでいた。
『晋助くん……』
 その名を口走れば、彼はどこか寂しげに微笑んでこちらへ近づいてくる。
 そして、みやびの右手を取ると、大切そうに両手で握りしめた。
『みやび……』
 そのまま彼はみやびの手の甲に自身の額を押し当て、祈る様に目を閉じる。
『一緒に、強くなろう。……あいつらよりも、強く』
 まるで何か神聖な誓いでも立てるかのように、静かで厳かな声であった。
 ごめんなさい、晋助くん。
 私、自分の中に芽生えた悪夢に、どうやったら勝てるのか、もう分からないよ。
 そう返そうとしても声は出ず、代わりに持ち上がっていく意識。
 目が覚めた時、目尻から僅かに涙を零していたみやびは、何もない天井に右手を心もとなく伸ばしていた。
 遠くから子供たちの騒ぐ声が聞こえてくる。柔らかな西日が射し込むその部屋が松陽の書斎であると気付くまで、それほど時間は掛からなかった。
 ゆっくりと上体を起こす。先日は高杉が寝かされていた、おそらくは松陽の物であろう布団で横たわっていたらしい。彼の部屋に置かれた時計が指し示す時刻は午後二時半、いつも通りならもう高杉が道場破りに来ている時間だ。
「ああ、よかった。ようやく目を覚ました」
 すると、廊下から掛けられた声に時計を眺めていたみやびは驚いて振り返る。そこには意識の無い高杉を抱きかかえた松陽がいた。
「せんせい……」
「心配したんですよ。気絶するように眠って、それからずっと起きなかったものだから」
 体調はどうですか? と高杉を抱えながら松陽は書斎に足を踏み入れる。彼を寝かせる必要があるだろうと、みやびは布団から退いた。
「大丈夫です。……すみません、堂々と居眠りするどころか、こんな時間まで布団をお借りして」
「いいえ、こんなボロ布団で良ければいつでもお貸ししますよ」
 そう言いながら、松陽は今度は高杉にその布団を貸し出す。彼の体をそっと寝かせると、優しく掛け布団を掛けてから彼の左の目元に掛かる前髪を指先で横へ流してやった。
 その鼻筋のあたりには、強く打たれて皮膚が裂けたのか、血が固まりかけた一センチほどの横に走った傷口が見える。
 それ以外にも、布団に入った状態から見えるだけでも顎や鎖骨のあたりに大きな擦り傷や内出血の痕が確認できた。
「痛そう……」
「一応傷口を洗って止血はしましたが、目が覚めたら病院に行った方が良さそうですね」
「そう思います。顔の傷ですし、たぶん縫うことになるかと……」
 今は安らかな顔で眠る高杉を見下ろしながら、みやびは膝の上で拳を握る。
 彼女がこうして銀時にボロボロにされた高杉を見舞うのは、実に九日ぶりのことだった。
 午後の授業を早退しみやびが何をしているのかは、松陽から高杉へ伝えてもらっている。せっかく高杉も毎日松下村塾へ通ってきているというのに、完全にすれ違ってしまうことを最初は残念に思っていた。
 今は、その状況に安堵している自分がいる。
 あの夢を見続けた最近では、もうまともに彼の顔を見て話を出来る自信が無かった。
「みやび」
 寝入った高杉の顔を見つめていると、ふと松陽に呼ばれた。顔を上げると、布団を挟んで正面に座る彼がこちらにその長い手を伸ばしてくる。
 その手はみやびの頬に触れ、目の下あたりを親指でそっと撫でた。
「うん、だいぶ顔色が良くなった」
「……顔色、悪かったですか?」
「ええ、かなり。また寝てなかったでしょう?」
「……」
「何かあったんですか?」
 無言を肯定と捉えた松陽が、みやびの頬から手を退けながらそう問いかけてくる。みやびの視線が彼の陽だまりのような温かな視線から逃げる。落した目線の先には、相変わらず目が覚めない高杉がいた。
『もし辛くなったらまたいつでも言ってくださいね。何かを決めるのは苦手ですが、人の絡まった思考を解すのは得意なんですよ』
『血の繋がらない人間なんて、誰一人当てにできないよ』
 刹那、頭に激痛が走る。唯一信頼できると思った心優しい青年の声が、口いっぱいに広がる甘ったるさに掻き消されていく。
「みやび?」
「……だ、大丈夫です。ただちょっと、就職活動が難航してて」
 傷みや後ろめたさを誤魔化すためにみやびは懸命に笑った。相対する松陽の瞳は、そんなみやびを探る様に見つめていた。彼が何か口を開こうとしたその時だ。
「せんせー!! 捨吉が足捻ったー!!」
「えっ!?」
 廊下の奥から聞こえてきた叫び声と近づいてくる足音に、松陽が驚いて振り返る。一瞬だけみやびの方へ向き直り何か言い掛けようとしたが、騒ぐ数人の生徒たちがすぐそこまで来ていることを察すると、何も言わずに立ち上がった。
「みやび。少しの間彼を頼んでいいですか?」
「……はい」
 まだ余波のような軽い頭痛に見舞われる中で、みやびは顔に笑みを張り付け応対する。松陽はその様子を見てか、やはり何かを言いたげにまだ廊下へ出られずにいた。
「せんせってば!!」
「……はいはい、今行きます!」
 しかし、最後の一声に観念すると、そのまま振り返らずに部屋を後にした。
 少年たちと松陽の話す声が聞こえる。それは複数のペタペタとした裸足の足音と一つの重さを感じる大人の足音と混ざり合い、やがて廊下の奥へと遠ざかっていく。

 庭でスズメが鳴いていた。
 道場の方から聞こえる少年たちの騒がしい声と、教室から微かに響く少女たちの笑い声。
 それらが段々と遠のき、自分の息遣いばかりが大きくなってくる。
『だって君が本当に苦しい時、誰も何もしてくれなかったんだろう?』
 川瀬が耳元で囁く。
『高杉大忠太を許すな』
 あどけない寝顔を晒す、高杉晋助の顔から目が逸らせなくなる。
『善人面しておきながら、いざとなれば保身のために二十年来の親友すら切り捨てられる。お家と自分の立場を守ることしか頭にない、腰抜けの売国奴が』
 握りしめた拳をゆっくりと開き、みやびは音もなく高杉の方へと身を乗り出した。
『君のお父さんは本当に、君が独りで能天気に生きていくことを望んでいるのかな?』
 頭が割れるように痛い。
『自分の無念を酌んで、君にも戦ってほしいと。そうは思っていないのかな?』
 みやびの能面のような顔に、一筋の涙の痕が生まれた。

 高杉に会いたかったと告げたことも。抱き付き、再会の喜びを分かち合ったことも。団子を頬張りながらあの頃のように話したことや、本当は可愛いって思ってもらいたかったことも。
 彼のことが、大好きで仕方がないことも。
 全部全部、決して許されてはいけない罪のように思えた。

「はあ、はっ……」
 舐めてもいない、あの飴玉の林檎の香りが部屋中に充満している気がした。この甘ったるさの中で、幸せな思い出の中で、私は父の無念を晴らすのだ。
 晴らさなければならない。
 小さな手は、少年の細く白い首に掛けられた。
「晋助、くん……っ」
 眠る彼の頬にみやびの涙が落ちた。両手に徐々に籠っていく力に、みやびの息はどんどん荒くなっていく。
 頭の奥で、誰かが止めろと泣き叫んでいた。
 けれどもう、止められなかった。

「みやびっ!!」
「!!」
 今度こそ、本当に叫び声が聞こえてみやびは弾かれたように高杉から離れる。
 開け放たれた襖の向こうで、険しい顔をした松陽が立ち尽くしている。
「一体、なにをしていたんですか……」
 動揺のあまり震えている松陽の声に、みやびはだんだんと自分がしでかした取り返しの付かない行動を自覚し始める。
 この手で、今何をしようとした。呆然と己の両手を眺めるみやびに、松陽が駆け寄りその両肩を掴む。
「話しなさい、みやび。一体今貴方の身に何が……」
「わ、わからない、んです……」
 冷や水を頭から被せられたように、みやびの体が震えだす。
 自覚した、してしまった。
 今自分が何をしようとしていたか。
 呼吸を乱しながら大粒の涙を流しだすみやびを、松陽は辛そうに見つめ、強く抱きしめた。
「わた、わたし……最近、ずっと、頭がおかしいんです……」
「落ち着いて、みやび……何故そんな風に思うんです」
「はっ……萩の町に、火をつけるっ夢を、見るんです……!! 人を、たくさん、たく、さん!! 殺して、それで……」
「……」
 松陽の肩に顔を押し付け泣きじゃくるみやびの頭を、松陽がその大きな手で覆うように撫でる。その辛い夢から彼女を隠すように。
「晋助くんの、ことっ……殺し、て……なんども、殺して……!!」
 そう。そしてとうとう、自分は現実でも。
「……わたし、今……晋助くんを、殺そうと……」
 憎しみと怒り以外、もう何も考えられなかった。
 彼と築いた絆も思い出も、大切にしまってあるこの憧れさえも、自らの手でどろどろに汚してしまったのだ。
「みやび。気を確かに持ってください。貴方は彼を殺すなんてこと望んではいません」
「けど、だって今……!!」
「今貴方の手を動かしたのは、貴方ではない」
 もう一度、みやびの両肩を強く掴んだ松陽が彼女の顔を覗き込む。その強い力を持った眼差しは、みやびの奥底に隠れる得体のしれない化け物の正体を見定めようとしているようだった。
「誰ですか。貴方に、邪な考えを植え込んだ不届き者は」
 確信しているような口調で問いかける松陽。
 けれどみやび自身が、その不届き者は自分に他ならないと思い込んでいた。
『血の繋がらない人間なんて、誰一人当てにできないよ』
 その男は信用に値しない男だと、みやびがみやびにそう囁く。
「!!」
 それは松陽にとっては完全に不意を突かれた行動だった。みやびは突如勢いよく彼を突き飛ばし、一目散に縁側へと飛び出していく。走り去ろうとする彼女を追いかけその手を掴むことなど、松陽にとっては造作もないことだっただろう。
 しかし、掴む直前で振り返ったみやびの目を見て、彼の動きは止まる。
「赤の他人の先生に、私の気持ちなんて分かるはずがないっ!!」
 その目は雄弁に、彼女の胸の内で暴れまわる憎悪を語っていた。
 はっとした表情で動きを止める松陽を、みやびは一瞥して再び前を向き歩き出す。
 これでいい。私はもう、ここに来てはいけないんだ。
 これでこの温かい場所から距離を置けるという多大な安堵と、もう誰のものかも分からない小さな悲しみだけが、みやびを突き動かしていた。


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