美味しかった
 濃紺の絵の具を塗りたくったような夜空に、赤い光が溶け込んでいく。
 赤は建物を、人を、この萩の町を全て呑み込み煙となって天に伸びていった。
 逃げ惑う民衆。炎の中に取り残された幼子が、父母を探して泣いている。その足元に転がるのは幾人もの侍の屍。
「みやび……」
 胸に大きな風穴を開けた高杉晋助が、炎の中で首だけになった父親を抱いていた。
 みやびはそんな彼を見下ろしながら、全身に血を浴びて呆然と立ち尽くしている。
 そして、その手の中にある小刀を振り下ろした。


「あああァァァッ!!」
 みやびがその悪夢から目覚めた時、まだ萩の町に朝焼けは差し込んでいなかった。首筋を伝う酷い量の寝汗を寝間着の袖で拭いながら、みやびは枕元に置いてあった水差しの水を注いで一気に飲み干す。口の端から零れた水がボトボトと胸に落ちる感覚が気持ち悪かった。
 空になったガラスの器を布団の上に落とし、膝を抱えて顔を埋める。嫌な夢なんてものではない、ここ最近で一番惨い悪夢だった。
 夢の中で、みやびはこの萩の町の人間を惨殺していた。
 町に火を放ち、逃げ惑う人々を背中から刺し殺して、大忠太の首を刎ねた。
 あの日、彼が父にそうしたように。
 そしてあろうことか、父に駆け寄る高杉晋助の胸にも、その刃を突き立てたのだ。
「しっかりしなさい、井上みやび……」
 布団に顔を押し付けたままそう呟く。こんな悪夢を見る理由を、彼女は薄々察していた。

 事の始まりは昨日。高杉と共に萩の城下町まで帰り、その後約束通り叔父の川瀬と共に夕食を食べに出かけた時のことだ。
 一緒に蕎麦を啜りながらかき揚げをつつき、腹を満たして店を出た。前日と同じように叔父がくれた口直しの飴を口に含みながら、店から堀田邸までの道のりを歩く。口内に広がる林檎の蜜のような甘ったるさを堪能していると、ふと叔父がこんなことを訊いてきたのだ。
『みやびは、お父さんを殺した人間が憎くないの?』
 明日は何処へ食べに行こうか、そんな何でもない問いかけをするかのような調子で、川瀬は訊いてきた。
 みやびの脳裏に過るのは、父が首を刎ねられたあの夜のこと。幾人もの大人に体を拘束され、父から引き剥がされたあの瞬間。
『君のお父さんは、ただこの町を攘夷志士から守っただけなのに。……あまりにも酷い結末だと思わないかい』
『!!』
 驚きのあまり声を上げそうになったみやびの唇に、川瀬は自身の人差し指を押し付ける。そして目を細めて笑った。
『お義兄さんが金の貸し借りなどで人を殺すわけがない。こちらにはいろいろとツテもあってね、調べさせてもらったよ。……この町の中にも、真相を知る人間は少なからずいる』
 頭の中が真っ白になっていくような気がした。まるで口内に残る飴玉の甘ったるい林檎味の蜜が、脳にまで回って馬鹿にしてしまったみたいに。
 そのことを誰にも言わないで。何も知らないクセに、知ったような口をきかないで。言いたいことは山ほどあったのに、みやびの口から漏れるのは甘い吐息だけだ。
『僕がみやびだったら、こんな生活は耐えられない。たとえどんなに血に塗れようとも、この町の人間に復讐してやるのにな』
『!!』
『父親を死に追いやった男の家なんか飛び出して、温かく平穏な場所から少しでも距離を置いて……父を殺した男の家族を、同じように皆殺しにしてやるのに』
『川瀬さん……!!』
 川瀬が垂れ流す甘い毒のような言葉に、真っ白になっていく頭でどうにか拒絶出来たのは、その父を殺した男の家族である大好きなあの少年を思い浮かべたからだった。
 口内から飴玉はもう消えている。口を覆って俯くみやびをしばらく見下ろした後に、川瀬は微笑んで彼女の頭を撫でた。
『ごめん、怖がらせちゃったかな? 深い意味は無いんだ。ただ、そうしないみやびは大人だなって思っただけ』
『……そんなこと、無いです。私はただ……』
 ただ、流され続けているだけだ。みやびはその言葉を飲み込み、肩を抱いてくる川瀬に従って堀田家への帰路を黙って歩いた。
 父を酷い目に遭わせた人間に、同じ思いをさせてやりたい。その昏い復讐心は、父が殺された直後から確かにみやびの心の中に存在していた。
 けれどそれは、みやびが自ら命を絶つよりも、父の分まで前を向いて生きるよりも、物理的に不可能に近い険しい道だ。
 みやびは自身の非力さを理解している。大人の侍相手に仇討ちなど仕掛けても、返り討ちに遭うのが関の山だろう。
 そう。悪夢で見たような悪魔の所業を、みやびがこの手で行うことなど出来るはずがないのに。

「って、そうじゃない!」
 昼休み。松陽が去った教室でみやびはそう叫び思いっきり額を机に打ち付けた。ゴッ! という鈍い音が響き、次の瞬間思ったよりも激しい痛みがみやびを襲う。思わずそのままうずくまって額を両手で押さえた。
「……みやびちゃん、何やってるの?」
 帰り支度なり昼食の準備なりをしようとしていたクラスメイト達が全員、奇行に走るみやびを凝視していた。何故かみやびの近くをうろちょろしていた銀時など、急に叫んだみやびに驚き飛び退いて壁に激突した状態で固まっている。
「あ、あはは! ちょっと変なこと考えちゃって、それを止めようと思って頭でもぶつけてみようかなーって……」
「なにそれ、変なみやびちゃん」
 クラス全体が何やってるんだよお前、という和やかな雰囲気に包まれる中、みやびはとりあえず額を擦りながら笑っておいた。取り付かれていた妙な妄想は全く笑い事ではなかったが。
「あはははは……銀ちゃん、何やってるの?」
「てめーにだけは言われたくねェよ!!」
 そんな中、一人だけ壁に張り付いたままだった銀時が目に入ったので指摘すると、我に返った彼に思いっきり指を差されて怒鳴られる。相変わらずどうしてこう怒りっぽいのかこの少年は。
「銀時のヤツ、みやびに言いたいことがあるんだってよー」
「バッ、余計な事言うんじゃねェ!!」
 みやびの隣に座っていた男子が少し冷やかすようにそう言う。銀時が彼の後頭部を殴りながら顔を真っ赤にしていた。
「何? 言いたいことって」
「……ちょっとこっち来い」
「えっ? ここで言えないの?」
 クラスメイトたちがこちらの様子を伺う中、銀時の機嫌はどんどん悪くなっているように見えた。心なしか周りがニヤニヤしているのを不思議に思いつつも、みやびはなんとなく嫌な予感がして二人きりになるのを拒みたくなる。こういう機嫌が悪い時の銀時と一緒に居てもあまり良いことは言われないからだ。
「!! いいからこっち来いブス!!」
 そして、吐き出されてしまった例の禁句。言った瞬間銀時の顔はしまったと言わんばかりにハッとしていたが、それ以上に周りの落胆具合が激しかった。
「何やってんだよ銀時……」
「銀ちゃん、謝るって話だったじゃん」
「ほんっと口悪いのな」
「だあああ!! もううっせえよおめーら!!!」
 周りから吐き出されるため息の嵐に、銀時は頭を抱えて雄叫びにも似た悲鳴を上げる。そんなやりとりを眺めながら、だいたいの話は読めたみやびが苦笑を浮かべて立ち上がった。
「もういいよ、怒ってないから」
「……え? でもお前今日また朝から暗ェ顔して……昨日鏡見て泣いてたんじゃ」
「鏡?」
「あ、いや……何でもねェ」
 松陽のヤツ、適当言いやがって……とブツブツ独り言をつぶやく銀時へ、みやびは足音も無く近づき急にその顔を覗き込んだ。
 壁際にいた銀時は、ギョッとしてそのまま再度壁に張り付く。小豆のような赤味の強い茶色の瞳が、みやびの顔を綺麗に映したかと思ったらすぐに逸らされてしまった。
「な、なん……」
 みやびの視線から逃れるように顔を背ける銀時を、みやびはしつこく追いかける。
 いつも眠たそうにしている所為で気付きにくいが、意外に大きくて丸っこい目をしている。眉と目の間が妙に離れている所為でやる気がない印象を持たれやすいが、これはこれで愛嬌があるとみやびは思った。
 実は鼻も高くて顎の形も整っているし、あんなに鼻をほじっているのに案外鼻の穴は小さいし上を向いていたりもしない。
 なにより本人はコンプレックスに思っているらしいこのふわふわの白髪は、男子からはよくイジられているが一部の女子からは可愛いと人気なのだ。
「おい、みやびのやつ何やってんだ……」
「ビンタか、ビンタすんのか?」
 クラスメイト達がそんなことを囁き始めた頃、銀時が意を決したように逃げるのを止めみやびを睨み返した。
 死んだ魚のような目をしているとよく言われているが、白目と虹彩のコントラストがとても綺麗だとみやびは思う。
「な、んだよ」
「いや、別に? 私は銀ちゃんのこと可愛いって思うけどなって」
「!!」
 みやびがそう告げた瞬間、銀時の体は見事に凍りついた。外野もシーンと静まり返る中、ようやくみやびは銀時から離れて背を向ける。
 もちろん、ちょっとした仕返しのつもりでやったことだ。急に顔を近づけられたり普段は言わないようなことを言われるとすごく恥ずかしい気持ちになるのは、昨日の高杉がやってくれた件で己の身をもって立証している。
「まあ、何を可愛いと思って何をブスと思うのかは、個人の勝手だからね。ブスだと思うなら、別にそう言ってくれて構わないよ。可愛い銀ちゃん?」
 そう言い放って、ニヤリといつもの意地悪そうな銀時の笑い方を真似する。呆然とする銀時よりも先に、クラスメイトたちが笑い始めた。
「一本取られたな銀時ィ!」
「銀ちゃん可愛いもんね、分かるー」
「えー可愛いかー? あんなやつ」
 口々に銀時をからかったりみやびに賛同したりするクラスメイトの笑い声を聞きながら、銀時は俯いて全身を震わせ始める。耳が真っ赤だったが、それが羞恥によるものか怒りによるものかはみやびには判別できなかった。
 よし、気も済んだし昼休みが終わるまで避難しよう。とみやびが忍び足で出入り口の方へ向かうのを、強い力の籠った腕が彼女の肩を掴み止めたのは三秒後のことだった。
「ちょっと顔貸してくれるゥ? ドブスがり勉ちゃーん?」
 盛大に顎をしゃくらせて血走らせた目を剥き出しにした、化け物みたいな形相の坂田銀時が振り返った先にいた。なんで可愛いって言っただけでそんなに怒るのよ、とみやびは苦笑を浮かべながら、諦めて彼に従うことにした。

「んで? 昨日といい今朝といい、何でそうこの世の終わりみたいな顔してんだよてめーは」
 ブスがさらにブスになんだろ、鬱陶しいんだよと吐き捨てるように言う銀時が、頭を掻きながら縁側に腰を下ろす。みやびは少し間を空けた隣に腰掛けながら、宙ぶらりんになった足をパタパタと動かした。
「……銀ちゃんは、甘い物毎日たくさん食べさせてくれる大金持ちの家に養子に行ける代わりに、松陽先生と離れて暮らせって言われたら……どうする?」
 最初に話すのは高杉にと決めていたはずだった。けれど、気が付いたらそんな例え話を口走っていた。
「あ? んだよそのトンデモ状況」
「例えばの話。どうする?」
「んなもん、なんとか松陽連れて養子に行くに決まってんだろ」
 甘いもんと遺産は俺のものだとのたまう銀時にみやびはガクリと項垂れる。二択を迫っているのに何故それ以外の道を選択するのか。
「銀ちゃんに相談した私が馬鹿だった」
「で? 養子の話でも出てんのか」
 深いため息を吐いたみやびに、銀時が懐から竹皮に包まれたおにぎりを取り出しながらそう確信を突いてくる。
 なんとなく、察せられてそうだなとは思った。やはり銀時は意地悪だとみやびは思う。分かっているなら真面目に答えてほしかった。
「そんなところ」
「どこに?」
「下関」
「近いじゃん」
「遠いよ!」
 他人事だと思って! と唇を尖らせるみやびに、他人事だからなと銀時が返す。おにぎりを片手に持って頬張るその横顔を、みやびは恨めしさを込めて睨んだ。
「私はこの町に……ここにずっといたいのに」
「……だったら断りゃいいだろ」
「でも今お世話になってる家は早く出たい」
「なら早く出ろよ」
「……あのねえ」
 みやびがしたくても出来ないことを簡単に提案してくる銀時に、片眉を引くつかせながらみやびが抗議しようとしたその時。銀時が自身の太ももの上に広げた竹皮の上から、おにぎりを一つみやびに差し出した。
「やる」
「えっ……」
「お前いっつも昼飯食ってねーだろ。やる」
 銀時の白い手が、海苔の巻かれた三角形のそれを、戸惑いながら差し出されたみやびの手に乗せる。
 自分が昼食を持ってきていないことを銀時が知っていたことに、みやびは驚いていた。
「いつまで受け身でふわふわ生かされてるつもりだよ。生きるって決めたなら自力で立て、前見てちゃんと明日生きるための計算をしろ。人間は、生きるためには食わなきゃならねェ。食うためには働かなきゃならねーんだ」
 そう言って、銀時は大口を開けて残りの一個を口いっぱいに頬張る。膨らんだ白い頬を見ながら、ああ彼は生きているんだなどとみやびは漠然と感じた。
「帰る場所が無いってんなら、それは何処にでも行けるってことだ。お前は自由なんだよ。どこで働いて、何を食って、どう生きるのか。全部自分で決められるんだ」
「自由……」
「この町が好きなんだろ? だったら、ここで生きればいい」
『僕がみやびだったら、こんな生活は耐えられない。たとえどんなに血に塗れようとも、この町の人間に復讐してやるのにな』
 銀時の鈍く光る温かい言葉に、昨夜の甘い毒が重なる。
 一瞬走る頭痛。思わず右手でこめかみを押さえた。
「……おい、みやび?」
 心配そうに覗き込んでくる銀時の言葉で我に返ったみやびは、そのまま大口を開けて左手に持った大きなおにぎりに思いきりかぶりついた。
 ふかふかとした白米の歯ごたえと、僅かに塩気のある海苔の風味を口いっぱいに感じる。二、三度噛んでゴクリと音を立て呑み込み、もう一口食らいつく。今度は口内にしょっぱい塩鮭の味が広がった。
 生かされるのではなく、生きろ。
 背を丸めて手にたくさんのご飯粒を付けたみやびは、今、生きるために食べていた。
「銀ちゃん」
 最後の一口を飲みこんだみやびは、手についたご飯粒を唇で攫いながら彼に微笑む。
「ありがとう。美味しかった」
 みやびの目に宿った光を満足げに眺め、銀時は唇の端を釣り上げた。
「おう」


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