朝焼け
 昼下がり。萩の町はずれにある松下村塾では、素振りをする男子十数名の掛け声があたりに響き渡っている。道場とは反対側にある松陽の書斎で、みやびはそんな喧騒を遠くに聞きながら、布団の上で横たわる少年の枕元にて物言わず座していた。
 少年、高杉晋助は今は眠っている。実力差のある人間に何度も真っ向勝負を挑み、全身を打たれながら神経を研ぎ澄まし続けた結果、彼は最後の一撃を食らったときに意識を失ってしまっていた。
「おや、あれだけで足りましたか?」
 追加の包帯やガーゼを取りに行っていた松陽が戻ってくる。みやびは、救急箱の中にあった物で足りたことを告げた。
「さすが、手際がいいですね。それとも彼の怪我の手当てをするのは慣れているとか?」
 持ってきたそれらを救急箱に仕舞いながらそう訊いてくる松陽に、みやびは目線を高杉の顔から逸らさず答える。
「晋助くんが負けて怪我をするところなんて、ほとんど見たことありません。私が知っている限りではどちらも大人相手、真剣を持った攘夷浪士と、不意打ちで殴り掛かってきた侍相手の時だけです」
「そうですか……そうでしょうね。きっと並みの子供では、何人いても彼には勝てないでしょう。大人でも手こずるかもしれない」
 それは遠回しに、高杉が手も足も出なかった相手、坂田銀時が並みの人間ではないと言っていた。
 試合中、高杉の顔が苦痛に歪む様を見つめながら、みやびはただただ驚き、困惑し、目を逸らしたくなるのを懸命に堪えながら祈り続けていた。相対する銀時は息こそ上がっていたが余裕を残した表情で、高杉の癖や攻撃パターンを冷静に見極めては、動きの読めない我流の剣術で何度も彼へ強烈な一撃を叩きこむ。
「知りませんでした……銀ちゃんがあんなに強いだなんて」
「そうですね……中々あそこまで、銀時が自身の強さを見せることもありませんから」
 そう言いながら、松陽はみやびの隣に座って眠っている高杉を覗き込む。
「お互い、いい刺激になったのではないでしょうか」
「……先生」
 俯いたみやびが、布団から出ている高杉の手をそっと取る。
「先生、言いましたよね。心の傷に効く薬は、時間の経過と人との交流だって」
 竹刀ダコの出来た温かい手を、両手で包み込んだ。
「晋助くんにも、大きな心の傷があるんです。けれど、彼は強くて優しいから……それを見て見ぬふりして、人の傷まで抱え込もうとしてしまうんです」
『死ぬな、死なないでくれみやびっ……頼むから、お願いだから……っ』
『なあ……どうして俺なんかに、会いに来たんだよ』
『……俺、強くなるから』
 何かあった時、自分の弱さを責めてしまう人だと痛いほど知っている。
 みやびは、高杉が目を覚ました時になんと言うか、それがただひたすら怖かった。
「自分がもっと強くなればって……そう言って、どんどん傷を増やしてしまう彼に……私が出来ることはあるんでしょうか?」
 そう問いかける声は、か細く沈んだものだった。
 久々に握ったその手は、数カ月前よりも竹刀ダコが明らかに増えている。
 自分が彼を避けていた数か月、彼があの神社でどう過ごしていたか。その光景が目に浮かぶ。
「彼の隣で、その強さを信じてあげることではないでしょうか」
 朝と違い、松陽が返事を迷う様子はなかった。
「彼は負けた。だからもっと強くなる。勝者が得るのは自己満足と慢心くらいなものです。……敗者が得るのは傷なんかじゃない。もっと意義のあるものなんですよ」
 そして松陽は、高杉へと笑いかける。
「そうですよね、道場破りさん」
「えっ……」
「……」
 いつの間にか、目を覚ましていたらしい。横たわったままの少し寝ぼけたような眼が、みやびを黙って見上げていた。
「晋助くん、大丈夫っ? どこか痛むところは……」
「もう大丈夫だ。……ったく、なんて顔してんだよお前」
「いたっ」
 ゆっくりと体を起こした高杉が、呆れ顔でそう言い額を軽く突いてくる。そう痛くはなかったが、みやびは反射的に目を瞑って小さく悲鳴を上げた。
「思ったよりも元気そうで良かった」
「元気なもんかよ。……本当はアンタとやる予定だったってのに、まさかあんなヤツに」
 頭を掻きながら悔しげにそう吐き捨てる高杉。まだ額を擦っているみやびの隣で、松陽は楽しそうに笑っていた。
「貴方は充分に強いですよ、恥じることはありません。……それに、あの子はちょっと特殊ですから」
 松陽の声が少し低くなったのが気になったのか、みやびと高杉の顔が松陽の方を向く。彼は視線を高杉から逸らし、どこか別の場所を見据えていた。
「生きるために……生き残るために、強くならざるを得なかった子です」
「銀ちゃんにはご両親がいないって訊きましたけど……先生が、どこかで保護されたんですか?」
「保護……そうですね。私が拾ったのか、私が拾われたのか。今となってはよく分かりませんが」
 微笑んで明言を避ける松陽を、高杉がムッとした表情で見つめている。
「氏も素性も知れないガキを集めて、手習いだの剣だの教えてどうなる。あんな連中が侍になれるとでも?」
 少年からの一見乱暴に見える生真面目な問いかけに、松陽は楽しげに笑った。
「さあ、どうなるんでしょう。私も楽しみです」
「こっちが訊いてんだよ」
「私も訊きたいのです。侍って何ですか? 教えてもらえます?」
 そう言って立ち上がり、庭の方を向いた松陽を四つの幼い眼が追いかけた。二つはただ不思議そうに、もう二つは苛立ったように彼を睨みつけている。
「アンタ、侍じゃねェのかよ」
「さあ? ……少なくとも、君が思うような侍ではない」
 その返答に、少年の眉間に刻まれていた皺が、少しずつ無くなっていく。
「君は、侍になるには何か資格でもいると? 護るお家が無ければ、尽くす主君がいなければ、侍にはなれないと思っているんですか? ……私はそうは思いません」
 みやびはその言葉に、思わず高杉を盗み見た。
「武士道とは、弱き己を律し強き己に近づこうとする意志。自分なりの美意識に沿い精進する、その志を指すのです」
 彼の瞳は、まるで初めて見る朝焼けでも映したかのように、眩そうに細められていた。
「だから、勉学に励み少しでも真っ当な人間になろうとする彼らも、少しでも強くなりたいとこんな所に道場破りに来た君も……それから、自分で立ち上がり進む道を選ぼうと懸命に悩むみやびだって」
 私にとっては、立派な侍なのです。
 みやびはその言葉に、こちらに背を向ける松陽を再び見上げる。
「たとえ氏も素性も知れなくとも、たとえ守る主君も戦う剣も持たなくとも……それぞれの武士道を胸に掲げ、それぞれの侍になることはできる」
『このアマッ、罪人の娘の分際で、武士を愚弄したな!』
『男に、侍にそういった生意気な態度をとっては、私もお前を庇えなくなってくるぞ』
 振り向いた松陽の、その真っ直ぐな目が眩しいと思った。
「そんな彼らを一人でも多く見届けるのが……そう、私の掲げた武士道なのかもしれません」
 こんな罪人の娘ですら、彼は侍として、見届けてくれるというのか。
 それを、自身の武士道だと言ってくれるのか。
「君も道に迷ってここに流れついたんでしょう? ……私もそうです。いまだに迷っている」
 問いかけられた高杉は、肯定も否定もせずにただ松陽を見つめ返している。
 薬だ。みやびはそう思った。
 こういう優しくも強い言葉との出会いが、きっと人の心を癒すのだと。
「それでいい。悩んで迷って、君は君の思う侍になればいい」
 盗み見た高杉の表情は、今までみやびが見たことの無いものだった。
 驚きの中にどこか希望が混ざったような、毒気を抜かれた無邪気な顔をしていた。薄く開いた唇から、小さく吐息が漏れる。瞬きすら惜しむかのように、その目はただ松陽を見つめている。
 この出会いが、高杉を救う第一歩になればいい。みやびは少し俯き微笑みながら、そんなことを祈った。

 黄昏時、既に松下村塾の周りから桂の姿は消えていた。松陽の部屋で十分に体を休めた高杉は、その包帯だらけの身体でみやびと共に帰ることになった。
 高杉邸と堀田邸は近い場所にあるわけではないが、松下村塾から帰るなら同じ方向だ。茜射す橋の上を二人並んで歩く。二人はしばらく無言であったが、気まずさは無かった。
「明日も行く」
 橋を渡り終えたところで、高杉がそんなことを呟いた。
「やられっぱなしは性に合わねェ。次は絶対勝つ」
 隣を歩く彼の瞳は、夕焼けの光を帯びてキラキラと輝いていた。その様が美しくて、みやびは返事も忘れて見惚れてしまう。
「……アイツに勝てば、俺はもっと強くなれるはずだ」
 その視線の先に、みやびはいない。平蔵も、大忠太も、あの時敵だった何もかもが無い。過去ではなく今、坂田銀時という壁を彼は睨みつけている。
 安堵する一方、みやびは少しだけ銀時に嫉妬した。
「強くなりたい。アイツよりも。……アイツらよりも」
「……うん」
 きっとみやびは一生、侍としての高杉晋助に、こんなにも熱く見つめられることはないだろうから。


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