強くなるから
 時刻は十二時十五分。松下村塾では午後から授業に参加する者と午前までしか参加できない者が入れ違い、互いに挨拶をする声がそこかしこで聞こえていた。
「みやびちゃん、また明日ねー」
「ばいばーい」
「今朝の銀ちゃんのあれ、気にしちゃダメだよ」
「そうそう、元気出して」
「……うん、また明日」
 帰っていくクラスメイトに苦笑を浮かべながら手を振る。その表情も一瞬で、彼女はすぐに物憂げな顔に戻って机の上に頬杖をついた。
 何人ものクラスメイトがいる中、銀時にドブス呼ばわりされ高杉に可愛くない宣言されてから四時間以上が経過した。最近仲良くなり始めた女子生徒たちが休み時間のたびに「みやびちゃんは可愛いよ!」と慰めに来てくれたが、元凶の銀時は未だ謝りにも来ず。それどころか一時間目から四時間目までノンストップで不貞寝を決め込んでいた。
 昼休みに入った今も、いつも通り松陽が握ったおにぎりを数分で平らげると、昼寝をしに縁側へ出て行ったきりだ。
 どうして銀時は、自分にばかりあんな意地悪を言うのだろう。憎まれ口はいつものことでも、他の女子に対してドブスだとかキモいだとか連呼しているのは聞いたことが無い。
 ひょっとしてかなり嫌われているのだろうか。そんなことを考えては、みやびは何故だか惨めで泣きそうになっていた。どうして、自分は友達だと思っているのに。
『みやびなんか、可愛くもなんともねェよ!!』
 高杉にも、叔父の件を相談し辛くなってしまった。
 松陽に他の友人にも相談すべきだと言われ、一番に思い浮かんだのはやはり高杉だった。みやびが変わりたいと思ったきっかけ、憧れの人。けれど、自分はそんな人へ感情任せに冷たいことを言ってしまった。
 苛々していたのだ。誘導尋問と分かっていても、あの場であんな大きな声で可愛くないと言われたことに対して。
 だが、もしも可愛いと言われていたとしたら、それはそれで恥ずかしくてその場から逃げ出していただろう。自分でも彼にどうしてほしかったのか分からず、ただドブスと可愛くないという単語がどす黒い色を帯びてみやびの腹の中をぐるぐると回っていた。
 気分転換しよう! そう思い立って彼女が席を立ったのは十二時二十分のことだった。少し散歩でもすれば気がまぎれるかもしれない。そう考えたみやびは、数人の生徒が残る教室をそっと後にする。
 門をくぐって十月下旬の柔らかな日差しを浴び、思いっきり伸びをした。遠くにクラスメイトの笑う声と、スズメのさえずりが聞こえる。川原のあたりまで行って少しボーっとしよう。そう思って門を背にした状態で左に伸びる道を歩き出す。
 そして気付いた。
 生垣に誰か突き刺さっている。
「……えっ」
 突き刺さっているというよりは、頭から生垣に自ら突っ込んだと言うべきか。不格好に下半身だけ突き出た状態のそれを無視すべきか否か、みやびは一瞬大いに迷った。
 とりあえず声を掛けてみようと思ったのは、見えている羽織や袴がなんとなく見覚えのあるものだったからだ。
「桂くん?」
 声を掛けると、突き出た尻がビクりと震えた。
「桂くんじゃない、生垣だ」
「いや桂くんだよね。何してるの?」
「桂くんじゃない、生垣の精だ」
「……生垣の精は何してるの」
 顔を引きつらせながらみやびは自称生垣の精に問いかける。生垣の精はおもむろに生垣から頭を引き抜くと、一緒に太めの枝を二本折ってきて一本ずつ両耳に突き刺したではないか。
 みやびは無言でドン引きしていた。
「うむ、少し偵察にな」
「……講武館の授業は?」
「心配には及ばぬ。朝飲んだ牛乳が消費期限切れで当たった演技を先ほど完璧にこなしてきた」
「……」
 己の中で桂のイメージ像が音を立てて崩れていくのがみやびには分かった。頭が良くて品行方正で優しい、友達でありながらどこか兄のようにも思っていた桂に、まさかこんな不思議ちゃんな面があったなんて。前々からその片鱗が少しも無かったとは言えないが。
「もしかして、桂くんも道場破りとか言わないよね?」
「桂くんじゃない生垣の精だ。どこぞの馬鹿が午後イチで道場破りをすると聞いてな。馬鹿をやらないか見張りに来た」
 と、現在進行形で馬鹿みたいな格好をしている桂が神妙に答える。相変わらずはみ出し者の高杉を放っておけないらしい。ドン引き一色だったみやびの心に少しずつ平穏が戻ってきて、そんな桂に笑いかけるくらいの余裕は出てきた。
「じゃあ、どうせ見張るなら中入りなよ。松陽先生に言えばきっと入れてくれるよ」
「……いや。俺は、ここからでいいよ」
 桂はそう言いながら、視線を松下村塾の敷地内へ向ける。開け放たれた木製の引き戸の奥、道場の中がそこからはよく見えた。
「ここからなら馬鹿がよく見えるだろうし……井上にも会えたからな」
 微笑む桂に、みやびは察する。ああ、彼はきっと私の様子も見に来たのだと。
 私がここで、どのように過ごしているのか案じてくれたのだと。
「……ねえ、生垣の精。ちょっとだけ、相談に乗ってくれないかな?」
「? どうした、浮かない顔して」
『自分一人で出せない結論は、案外誰かがヒントを持っているものです。貴方にとって大切な存在である彼らなら尚更のこと』
 松陽が今朝みやびにくれた言葉を、彼女はふいに実行してみたくなった。
 みやびが今抱えている一番の懸案事項はそれではないのだが、だからと言って今朝のモヤモヤをそのままにしておくことはできない。この相談を持ち掛けるなら、適任は桂だとみやびはそう判断した。
 銀時が自分にばかり意地悪を言うこと。もしかして銀時に嫌われているのだろうかということ。それから、誘導尋問に掛かった高杉に可愛くないと言われ、とてもイラついてしまったこと。
 朝あったことを掻い摘んで話しながら、みやびは生垣の精にそんな悩みを打ち明けた。生垣の精は時々相槌を打ちながら、真剣に話を聞いてくれた。
「井上は可愛いぞ。友達としての贔屓目を抜きにしてもな」
 みやびが話し終えると、桂は開口一番でそう断言してくれた。
「ふふっ、ありがと。お世辞でも嬉しいな」
「世辞などではない。……ただまあ、人には好みのタイプというものがあるからな。絶世の美女でも可愛いと思うかどうかは個人の感覚に寄る、とお隣のおじさんが言っていた」
「好みの、タイプ」
 いつの間にか生垣の影に隠れるようにしゃがんだ二人は、まるで内緒話でもするかのように顔を寄せ合っていた。
「もしかしたらその『銀ちゃん』とやらは、みやびのような顔立ちがあまり好きではないのかもしれない」
「なるほど」
「それは個人の好みだから、みやびの努力ではもうどうしようもない。元々万人に好かれる人間がいないように、万人に好かれる顔などあるはずがないのだ。……確かに容姿のことを何度も貶されるのは頂けないが、あまり気にしない方がいいと思うぞ」
「……じゃあ、銀ちゃんと友達になるのは諦めるべき?」
「そうは言ってない。別に嫌いな顔とでも友にはなれるさ。俺は高杉のあのすかした顔が嫌いだが……アイツのことは、友だと思っているからな」
 いけるいけると頷く桂を、みやびは何か大きな希望を見出したかのような心持ちで見つめる。初めて桂と面と向かって話した時、高杉の友達などではないと断言していた彼のことを思い出して胸が熱くなっていた。
 なるほど、自分と銀時の理想形はきっと高杉と桂のような関係だ。それならば銀時がみやびに対して辛辣なのも説明がつく。
 みやびは、高杉と桂が互いに辛辣なのは友愛の裏返しだとちゃんと知っていた。
「ありがとう桂くん……! 銀ちゃんとどんな感じで付き合っていけばいいのか、ちょっと分かった気がする!」
「お役に立てたなら何よりだ」
 そう言って得意げに笑う桂に、みやびも釣られて微笑む。
 友達って不思議だな、と彼女は笑いながら思った。自分と桂との関係が自分たち二人でしか実現できないように、銀時に対してもこれから手探りで彼だけの付き合い方を見つけなければいけないのだ。
 全く同じ形など一つもない。人と人との間にある絆は、まるでそれ自体が人であるかのように個性豊かだと、面白さすら感じる。
 そしてふと脳裏を過ったのは、昨日交わした高杉との抱擁だった。
「……晋助くんは、私のこと本当はどう思ってるのかな」
 高杉のことは間違いなく友達だと思っていたが、桂や銀時と違って純粋な友情とは違う色が混じっていることを、みやびはすでに気が付いていた。
 みやびはそれを『憧れ』と呼んでいる。桂や銀時の強さを尊敬するのとはまた別の感情、もっとキラキラとした宝石のような想いだ。
「……直接本人に訊いてみたらいいと思うぞ。な、高杉」
「!?」
 物思いに耽っていたみやびの意識を、桂の一言が覚醒させる。肩を跳ねさせてみやびが桂の視線の先へ振り返れば、そこには高杉が腕を組んで佇んでいた。鋭く光る深緑色の瞳が静かにみやびを見下ろしている。
「……い、いつからそこに」
「『井上は可愛いぞ』のあたりから」
 だいぶ前から聞かれていた。みやびが気まずさから目を泳がせつつも立ち上がると、高杉は目線で付いて来いと訴えてくる。そのまま背を向け歩き出した高杉を見て、みやびは桂になんとなく助けを求めるような視線を送ってしまった。
 大丈夫。桂は口パクでそう伝えてくる。本当にそうだろうか。朝の自分の言動が不快で、今からお咎めでも受けるのではないか。みやびはそんな憂鬱さを抱えながら、仕方なしに高杉を追う。
 やがて、桂から死角になる場所まで来ると、高杉は勢いよくみやびの方へ振り返った。
「……悪かった」
 飛び出してきたのは、みやびにとっては予想外の素直な謝罪。
「アイツの口車に乗って、傷付けるようなこと言っちまった」
 みやびがよく知っている高杉晋助は、子供の身体ながらに肩で風を切る様に歩き、自身の進む道を自分で決められるかっこいい人。深緑色に鋭く光る瞳で敵をまっすぐ見据え、決して逃げないし怯えない強い男の子だ。
 その彼が、心なしか肩を落としてどこか不安げに謝っていた。
 いつもより小さく見える身体、自信無さ気に揺れる瞳に、みやびは何故だか胸が苦しい。
 悲しいだとか後ろめたいだろか、そういう痛みではない。もっと甘く、興奮すらも孕んだ痛みだ。
 端的に言うなら、高杉の可愛らしさに妙な胸の高鳴りを覚えていた。
「……みやび?」
「!! そ、そんな、気にしてないよっ! こちらこそごめんねっ、あんなふうに怒っちゃって……」
 反応がないみやびを小さく呼ぶ高杉に、慌てて自身も謝った。みやびはそれから高杉に背を向けて頬を両手で覆う。
 顔が熱い、心臓が壊れたかのように脈が速かった。今動脈を切れば凄い勢いで血が出てきそうだななどと、物騒な事を考えては頭を振って思考を掻き消す。
「みやびは、俺に可愛いって思っててほしいのか?」
「!?」
 そんな時だった。高杉によって心臓が止まるくらいの衝撃がもたらされたのは。
「な、なん……」
「……あれで怒ったってことは、つまりそういうことなんだよな?」
 高杉の様子がどうにもおかしいと気付いたのは、恐る恐る彼の方へと向き直っている最中だった。
 声音が先ほどと違う。小さく元気の無いそれではなく、どこか楽しげなものへと変わっていくのが分かる。
 振り返ると案の定、すでに高杉は目を細めて意地悪そうな笑みを浮かべていた。
「なあ、お前こそ俺のこと、どう思ってるんだよ」
「えっ……えっ!?」
 不思議な光を帯びた彼の瞳が、みやびを射抜く。それはみやびの高杉への気持ちを、一つずつ丁寧に暴いていくような探る視線だった。
「お前が言ってくれたら教えてやるよ。俺の本当の気持ち」
「!!」
 まるで着物が一枚一枚剥がれていくような羞恥を覚えたみやびが、思わず後ずさる。すると、逃がさないとばかりに高杉が距離を詰めてきたではないか。
「ちょっ……近い、晋助くん近いよっ……!」
「何言ってんだよ、昨日はお前から抱きついてきたクセに」
「ち、ちがっ……それは……」
「……何も違わねェよ。俺にとってはな」
 高杉の声がどことなく甘い。もうみやびは羞恥で泣きそうだった。羽織越しに帯の太鼓がガサリと音を立てて生垣にぶつかる。高杉の顔はもう目の前に迫っていた。
 みやびの脳裏に、昔本屋で立ち読みした少女漫画のワンシーンが蘇る。壁際まで追い込まれたヒロインが好きな男性に唇を奪われるその絵に、自分と高杉が重なってしまう。
 もう駄目だ、唇が当たる……!! 思わずギュッと目を瞑ったみやびに襲ったのは、唇の感覚ではなく鼻の違和感だった。
「何期待してんだよ、マセガキ」
「!!」
 目を開けると、したり顔の高杉がみやびの鼻を摘まんでいた。
「し、晋助くんーっ!!!」
 みやびが絶叫すると、すぐに鼻を放した高杉が上機嫌で背を向けて去っていく。まるで鼻歌でも歌い出しそうな様子に、みやびは朝とは違う怒りが込み上げてくるのが分かった。
「晋助くんのばかああ!!」
「あーすっきりした。これで心置きなくアイツらと戦れる」
 みやびの心からの罵倒が響くが、悲しきかな。すでにみやびに興味を失くしたらしい高杉は、もう銀時や松陽と戦うことしか頭にないようだ。信じられないという面持ちで力なく崩れ落ちるみやびの着物に砂が付く。叔父からのせっかくの土産だが、今のみやびにそれを気遣う余力はなかった。
「松陽先生にボコボコにされちゃえ……!!」
「されねーよ。今は負ける気がしねェ」
 悔し紛れにみやびが放ったなかなか酷い一言にも、高杉は機嫌よく答える。
 そして立ち止まった彼は、地面にへたり込むみやびの方へ振り返った。
「……俺、強くなるから」
 急に真剣みを帯びた声音に、みやびはハッと高杉を見上げる。
「絶対に、誰よりも強くなる。……もう、俺もお前も、あんな思いをしないで済む様に」
 その眼差しには、何人たりとも邪魔できないような、強い意志が宿っていた。
「だから、見ててくれよ。……みやびに見ててもらいたいんだ」

 見ないでいられるはずもない。みやびの心は、見つめられなくとも、鼻を摘ままれなくとも、とっくに高杉に捕らわれて放してもらえないのだから。
 きっとあの散り行く梅の木の下で、友達になりたいと言えたあの日から、高杉はみやびにとって唯一無二の存在だった。かっこよくて、強くて、大切なことをいくつも教えてくれた、死ぬなと言って泣いてくれた優しい人。
 強くなりたいと思った。傷を抱えてもなお、自分の意志で強くなる道を選んだ彼のように。みやびもまた、ずっと彼を一番近くで見守れるよう、強く在ろうと。

 その日、高杉晋助は坂田銀時に完敗した。みやびはその光景を、人だかりの奥から黙って見ていることしかできなかった。


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