松子
 大股で医学館内を闊歩する高杉を、桂とみやびは小走りで追いかける。
「待て高杉!」
「なんで待たなきゃならねーんだこのストーカー」
「検査が終わったということは、明日は来るんだろうな講義に!」
「行かねーよ、明日も明後日も明々後日も」
「このっ……」
「しっ」
 それまで振り向かず歩みを止めず桂とやりとりをしていた高杉は、急に立ち止まると人差し指を立てて口元にかざす。そしてみやびの手を引き、彼女を背後に隠すように振り返った。
 後方の部屋の襖が小さな音を立てて閉まったのを、幼い眼は見逃さなかった。
「何だ、今の」
「テメェがギャーギャー騒ぐからだ。さっきも井上先生が言ってたろ、学者はうるさいのが……」
「誤魔化すな高杉」
 呆れた口調で喋る高杉に、桂はピシャリと言い放つ。高杉は自分より少し背丈がある桂を睨みつけるように見上げた。
 みやびの手首を握るその腕に、力が籠る。
「……行きながら話す。今は早くここから出た方が良い」
 言い終えるが早いか、彼はまた早足で歩き始めた。みやびは気になって後方を振り返る。
 また少し、襖が開くのを見てしまった。何故だか急に怖くなって、自分を放すまいとする力強い腕に少し縋る。
「大丈夫だ。さすがに攘夷戦争負傷兵の大恩人、井上平蔵の娘に手ェ出す馬鹿は居ねェよ」
 怯えるみやびを宥めようとする声は少しだけ優しかった。
「狙いはお前か」
「おそらくな」
「いつから」
「一週間前。検診で来ただけの医学館でもこれだけ人気者だったのは驚いたがな」
 攘夷戦争負傷兵の大恩人だとか、狙いだとか、一週間前という単語が引っかかったが、みやびの思考が纏まる前に桂が口を開く。
「一週間前というと……大忠太殿か」
「さすが耳が早いな、特待生」
「茶化してる場合か。この事、親父殿は」
「あのジジイは俺の身なんて些事なことに構ってる暇は無ェよ。もうこの一週間顔すら見てない」
 話している間に、医学館の玄関口へとたどり着く。その建物内からそそくさと立ち去り、そして正門の前まで来たところでようやく高杉は止まった。
「桂、みやびのこと送ってやってくれないか」
「お前……一人で帰ると言うのか!?」
「自分の身一つ守るのは簡単だからな。それに俺の家はここから目と鼻の距離だ」
「しかし……」
「首突っ込むなって言ってんのが分からねェのか」
 高杉の斜め後ろにいたみやびに、桂へ凄む彼の顔は見えなかった。
 だが勝気な桂が閉口し冷や汗をかく様を見て、みやびは高杉の本気を察した。丁度みやびの手首を掴む力が緩み、彼女は名残惜しく彼から離れて桂のそばへ寄る。
 正面から見た高杉の顔は、少しだけ笑っていた。彼はそっとみやびに近づき、軽く頭に手を乗せる。
「気を付けて帰れよ」
 そう言って、高杉は踵を返し門を出ていった。

 少しして、高杉の姿が完全に見えなくなった頃に桂とみやびも門を出た。
 道中桂は、みやびが分からなかった高杉とのやりとりの部分を説明してくれた。
「高杉の親父殿……高杉大忠太殿は根っからの保守派でな。思想云々というよりも危険な賭けにはまず乗らない。先の攘夷戦争時にも、最後まで攘夷派に対して意見し続けていたらしい。その堅実さが買われて、中枢が幕府恭順派に挿げ替えられた時に大出世をして今の身分になった」
「剣術の腕が買われたんじゃなかったの……?」
「表向きはな。だが藩士の多数はそう思わなかった。大忠太殿が恭順派に擦り寄って今の地位を得たと思ったのだ。……そして一週間前の未明。クーデターを画策する攘夷派の攘夷戦争生き残り十二名が、恭順派の重鎮と宴席を共にしていた大忠太殿とその弟子数名を襲い、返り討ちに遭った」
「えっ……!?」
 初耳の大事件にみやびは言葉を失う。そしてしばらくして、ようやく先ほどから引っかかっていた『一週間前』という単語の心当たりを思い出す。
 高杉が神社に姿を現さなくなったのは、丁度一週間前からではなかったか。
「……おそらく、先ほど医学館内で感じた殺気は、攘夷派の医師たちによるものか、もしくは医師たちに匿われた攘夷戦争の生き残り……」
「なんで!? 高杉のおじ様を恨むのは逆恨みだし、まして晋助くんを狙うなんて見当違い過ぎる!」
 桂にそんなことを言っても無駄なのは分かっていた。だが、それでもみやびは口に出さざるを得なかった。まだ子供の高杉がそんな恐怖に晒されているなど、考えたくもないことだ。
「……俺には、よく分からないよ。生き残りたちも、かつてはこの国を憂い立ち上がった立派な侍だったはずだ。なのに彼らは敗戦を経て、武士道も何もないただの復讐者に成り下がってしまった」
 桂は目を細め、拳を握りしめる。その姿には見覚えがあった。先ほど平蔵と話していた時に見せた、何かに怯える表情だ。
「俺が今住んでいる裏町の長屋通りは、お世辞にも治安が良いとは言い難い。……近所に潜伏しているのか、よく見かけるのだ。体中にあちこち痛々しい痕を残した、その復讐者たちを」
 恐ろしい眼をしていた。そう言って、桂はそれきり口を閉ざしてしまった。

 余所の男子である桂に送ってもらったと知ったら、また佐栄がうるさいだろう。そう思ったみやびは屋敷の門から少し離れたところで桂と別れた。門に入る一歩手前で振り向くと、別れた場所でまだ桂が立ってこちらを見ていた。その律義さを好ましく思いつつ、みやびは軽く手を振って無事帰宅した。
 考えることが山ほどあった。弾圧された攘夷派の生き残り、彼らに恨まれる大忠太、狙われる高杉。明日からも高杉を探すのか否か、桂に聞けば良かったと今更みやびは後悔する。けれど探して何になるのか。もしかしたら高杉は、周りを巻き込まないためにこの一週間姿を暗ましていたのではないか。
 義母や義兄と顔を突き合わせ夕飯を食べる間も、みやびは心此処に在らずといった様子で物思いに耽り続けていた。置物同然のみやびに義母佐栄は特に頓着することなく、実子の弥七との団欒を楽しむのみだった。
 やがて時刻は夜十時を回る。玄関の引き戸が開く音がして、玄関近くのみやびの部屋の前を、佐栄がパタパタ駆けていく音が聞こえた。
「おかえりなさいませ」
 佐栄は毎日、どんなに平蔵の帰りが遅れても出迎えをする。平蔵もそんな佐栄に必ず「ただいま」と言ってから風呂なり食事なりをするのだが。
「みやび、みやび居るかっ?」
 夫婦のやり取りを複雑な思いで聞いていたみやびは、その声で我に返った。
「……はい、ここに」
「お前、晋助くんとはいつ別れた? 一緒に帰ったのだろう?」
 慌てて玄関へみやびが参上すると、そこには少しくたびれた様子で汗をかく平蔵がいた。みやびは、己の中にあった小さな胸騒ぎが確信めいた予感に代わっていくのを感じた。
「晋助くんに、何かあったのですか!?」
「先ほど高杉家の奉公人に聞いたんだが、まだ家に帰ってきていないそうだ。今、家の者と大忠太の弟子全員で町中を探し回っているようだが……っ、みやび!!!」
 どっぷりと闇に浸った町に飛び出すのは初めてだった。
 だが、どうしても立ち止まったり、戻ったりすることはできなかった。
 どうしてあの時、一人で彼を帰したのだろう。凄まれたから、突き放されたから何だというんだ。三人で帰れば良かったんだ。例えその結果襲われたとしても、誰かがもしかしたら逃げられるかもしれない。逃げた誰かが助けを呼びに行けたかもしれない。
 仮に三人で捕まったとしても、高杉一人を辛い目に遭わせるよりはマシだ。
 みやびは悔しくて泣き出したくなるのを懸命に堪えて駆けた。着物が走りにくくてもどかしかった。早く高杉晋助に会いたかった。
 彼はきっとこうなることを予感していたのだ。だからこの一週間、巻き込まないようにしてくれていたのに。自分がそれを台無しにした。
「晋助、くん……!!」
 目指したのは、裏町の長屋通りだ。
 普段表通りしか歩かないみやびは、当然『恐ろしい眼をした復讐者たち』など見たことがない。彼らが高杉をどこへ連れ込んでいるかなど皆目見当がつかなかったが、手掛かりは一つだけあった。
『俺が今住んでいる裏町の長屋通りは、お世辞にも治安が良いとは言い難い。……近所に潜伏しているのか、よく見かけるのだ。体中にあちこち痛々しい痕を残した、その復讐者たちを』
 開国して、天人が持ち込んだ電気なるものが生活に入ってきてから、人々の就寝時間はだいぶ遅くなった。しかし夜の下町など一歩裏道に入れば常闇だ。遠くの方の歓楽街の喧騒を聞きながら、みやびは必死に長屋の入口一軒一軒に耳をそばだてた。人の気配、息遣い一つ聞き漏らすまいと。
 子どもたちが今日の寺子屋での出来事を話す、家族団欒の声。独立した娘息子の話で穏やかに盛り上がる老夫婦の話し声。職場の女と食事に行った行かないで揉める恋人の痴話喧嘩。零時頃から落雷を伴う大雨になると告げるラジオニュースや、最近江戸で流行っているらしいロックやラップといった天人の音楽。様々なものが聞こえてきた。子供の呻き声、複数の男の話し声は聞こえてこない。当てが外れたか、そう思っていた時だ。
「なーにやってんだお嬢ちゃん」
 ざらついた成人男性の声に、肩が跳ねた。
 ぎこちない動作で振り向くと、酒瓶を片手ににやつく小太りの中年が見下ろしている。
「そこは俺ん家なんだが、お嬢ちゃん、何か用か? ん?」
 相手は帯刀もしていないただの酔っ払い。帰宅したら玄関の戸に耳を張り付けている子供がいたら、誰だって声をかけるだろう。適当にあしらえば切り抜けられる局面だった。しかしみやびは気が動転して声が出なくなっていた。高杉のことを心配しすぎて忘れていた恐怖心が、一気に噴き出してしまったのだ。夜中の野外、しかも治安の悪い裏町だ。
 腰が抜けて、地面にへたり込んでしまう。眉を顰めた酔っ払いがみやびへ手を伸ばそうとした、その時だった。

「松子! お前、また勝手に家を飛び出して!!」
 凛とした、真っ直ぐな声が闇夜に響いた。
 肩を力強く抱きしめたその腕の主を、緩慢な動きで確認する。
 酔っ払いを困り顔で見つめている、桂小太郎がいた。
「申し訳ない。妹が母と喧嘩して家を飛び出してしまったんだ。お前、どうせ腹でも空かせてへたり込んでいたんだろう? ほら、この人に謝るんだ」
 大丈夫だから。ギュッと肩を抱く腕に、そう宥められた気がした。みやびはやっと震えながらも、声を出すことができた。
「ご、ごめ、なさ……」
「なんだァー、そうだったのか……だったらさっさと帰りな。あんま優しい兄ちゃん困らせるんじゃねーよォ」
 よっぱらいは酒臭い大口を開いて、ニカッと笑っていた。桂は再度丁寧に謝ると、みやびの手を引いてそこを後にする。
「かつ、ら、く……ど、して……」
「ん? ああ、銭湯の帰りでな」
 言われてみれば彼は髪を解いていたし、その毛先は僅かに濡れている気がした。みやびを掴んでいる逆側の手には風呂敷包みも持っている。
 やがて男の家の死角に入ると、彼はようやく立ち止まり振り向いた。
「大丈夫か? なんでこんな時間にこんなところに……」
 言い終わる前に、みやびの緊張の糸が派手に切れた。
 瞳から大粒の涙を流し嗚咽を上げ始めるみやび。止めようと思っても無理だった。当然桂はあたふたして声を上ずらせる。行き場を失くしたように手が激しく動いていた。
「お、怒ってないぞ、俺は責めてはないからな井上? 怪我は見たところ無さそうだが、どこか痛いのか? そんなに怖かったかあの男は?」
 ほとほと困り果てた様子で、それでも何とかみやびを宥めようと笑う桂に、みやびはますます涙が止まらなくなる。こんなことをしている場合ではなかった。そんなことは分かり切っていた。ままならない自身の身体に、虚しさが膨れ上がっていく。
 やっとの思いで絞り出せた一言が、
「晋助く、いなく、なっ……さがし、て……」
 このたどたどしい言葉だった。
 所在無さ気に彷徨っていた桂の手が一瞬止まる。そして「そうか」という硬い声が返される。
「探しに、来たのか……こんな夜中に、独りで……」
 そっと、桂の手がみやびの頭の上に置かれた。その手の温もりに、遣る瀬無さや恐怖心が少しずつ落ち着いていく。引いていく嗚咽の代わりに、ポツリポツリと言葉が零れていった。
「晋助くん、言ってた……自分のこと、心の底から心配してくれる人は、いないって……寂しそうに、言ってた……」
 桂は何も言わずに、ただみやびの頭を撫でている。
「自分は、私や桂くんのこと心配して、る、くせにっ……! なんで、私たちの気持ちは、信じてくれないのっ……」
 違う。そうではない。そういうことを言いたいんじゃないんだ。そう思って、みやびは奥歯を噛みしめる。
「晋助くんのことが、心配だって……ちゃんと伝えれば良かった……っ」
 言いたいことを吐き出し、ようやくみやびの涙が落ち着いた頃になって、桂は自身の着物の裾でみやびの涙を拭ってやった。
 そして細い路地の遥か奥を見据え、強い口調でこう言い放ったのだ。
「本人の耳元で怒鳴り散らしてやればいい、心配したと」


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