こえー女
 道すがら、桂が住んでいるという長屋の前を通りかかった。少しだけ待っていてくれと言って戸を開けた彼は、手荷物を放り玄関横に立てかけていた子供用の木刀を持ってまたすぐ出てくる。それを腰に差して、またみやびの手を引いて歩き始めた。
 入り組んだ裏町の路地を何度か右へ左へと折れる。だんだんと人が住んでいる気配のない、空き家の多い方へ移動しているのがみやびにも分かった。そうしているうちに、中から行燈の明かりが漏れる一軒の大きな長屋を二人は発見する。
 障子張りの扉越しに、複数人の影が揺れるのが分かる。二人は向かいの家屋の間、大きな屑カゴや新聞紙の詰まった段ボールの後ろに入り込んで、陰からその長屋の様子を伺った。
 そこから見る限り、扉はほんの少しだけ開いているようだった。
「桂くん……あそこからそっと覗いてみようか」
 話しかけるみやびの口元を、桂は唐突に掌で塞ぐ。そのままみやびをもっと壁に押し付けると、射抜くような鋭い目を長屋の前の道の先に向ける。暗闇の奥で、ぼんやりと明かりが浮かんでいた。
 提灯を持った二人の男が、程なくして現れた。
「大忠太の野郎、来ますかね」
「さァな。噂じゃあのせがれをあまり可愛がってねェって話だったが……まぁ、体面気にして来ることに賭けるしかねェな」
「くっそあの恭順派の犬が……自分のせがれすら切り捨てるってのか」
「噂じゃ痘瘡にかかったテメェの息子、天人かぶれの妙な女医の実験台に差し出したそうだ。鬼の所業だよ」
「じょい、ですか?」
 会話を聞けば聞くほど、その長屋が真っ黒であることは確実になっていった。口元を抑える桂の手に、だんだんと力が入っていくことをみやびは感じる。
 男の一人はその場に提灯を置いて腕を組む。会話はだんだん熱が入っていった。
「女に医師の医って書いて女医だよ。なんでも、女が医者の真似事をしているそうだ」
「女が? 産婆じゃなくてですか?」
「ああ、女医っつーらしい。江戸の方ではもう職業婦人なんてのが山のように出てきてるそうだ。その女医も、攘夷戦争初っ端こそ後方支援としてこちら側に参戦したそうだが、勝てないと見るやすぐ天人どもに寝返って医学の勉強するためにヤツらの星へ渡ったんだと。あの高杉の小僧の体内には、その女が別の星から持ち帰った得体の知れない薬が入り込んでるらしいぜ」
「末恐ろしい……。それじゃあモノホンの売国奴じゃねーですか」
「ああ。今ではここよりずっと東にある小さな農村の外れに住みついて、夜な夜な怪しげな天人の薬作ってるって話だ」
 彼らの話している人物が、おそらく昼間会ったあの女医なのだろうという見当は付いた。だが、今はその女医よりも高杉だ。どうにか彼らに悟られず、この場を離れて大人を呼びに行かなければ。それぞれ考えを巡らせていた、その時だった。
 長屋の中から何かを叩きつける音、そして男たちの怒声が聞こえてくる。
 外で立ち話をしていた男たちは、血相を変えて中を覗きこんだ。
「おい、どうした!?」
「眠らせてたガキが起きて暴れてんだ、手伝ってくれ!」
「馬鹿野郎、縛ってなかったのか!?」
「縛ってるよ後ろ手に! クソッ、調子に乗るなこのガキァ!!」
「テメェらこそ、調子こいてんじゃ、ねェ!!!!」
 野太い男たちの声に交じって、確かに聞こえた。声変わりもまだの少年の声、聞き間違えるはずもない高杉晋助の声だった。
 男たちが建物の中に入っていくのを見計らって、桂が立ち上がる。
「加勢してくる。お前は大通りに出て助けを呼ぶんだ」
「でもっ……」
「早く行けっ!!」
 そう叫ぶと、桂は木刀を抜いて長屋の中に飛び込んでいった。
「何だこのガキッ!?」
「桂ッ!?」
「もうすぐ助けが来る、それまで持ちこたえろ高杉!」
 中からは幾度も激しい衝撃音が響いてくる。みやびは誰か大人はいないかと周りを見渡すが、元からこの辺りはやはり空き家が多いらしくあたりには人っ子一人いない。
 自分がやるしかないんだ。みやびがそう決意し一歩を踏み出そうとしたその時だった。
「このガキァ!!」
「ぐっ……」
「高杉っ!!」
 男の怒声、何かが千切れる様な生々しい音、高杉の呻き声、そして桂の悲鳴が連続して聞こえてくる。
 みやびが足を止めてしまうには十分すぎるきっかけだった。
「おい、人質傷つけるなよ!! 死なせたらどうすんだ!」
「うるせぇ! どうせなぁ、売国奴の息子も売国奴になるんだ。今天誅を下しても構わんだろう!?」
「っ、貴様ァアアアア!!!」
 高杉が、負傷したのだ。刀で斬られたのだ。そう認識した瞬間、もうみやびの足は一歩も前に進まなかった。このままでは高杉は殺されてしまう、どうすればいい。気が動転するばかりで何も考えが浮かばなかった。
 そのとき、みやびの視界に男の一人が置いていった提灯が目に入った。
 先ほどまで自分たちが隠れていた場所の新聞紙を見る。
 この辺りの長屋は攘夷浪士が隠れ家にするほど、空き家が多い。
 時刻はおそらく深夜零時前。
 先程色々な長屋に聞き耳を立ててる時に聞いたラジオが言うには、今夜の予報は零時頃から落雷を伴う大雨。
 迷っている時間はなかった。みやびは、提灯の中に入っていた火種を新聞紙に投げ込んだ。そして、叫ぶ。
「火事だーっ!! 火事、だーーーっ!! 逃げろーーーーーっ!!!」
 新聞紙の束に引火した炎は、見る見るうちにみやびの半身くらいの大きさぐらいに育っていく。すると、みやびがいる場所から幾分か離れた場所にある民家から、何人が様子見で顔を出す。そして炎を見るや否や、彼らは血相を変えて飛び出してきた。
「火消しを呼べ!! 早く!!」
「水! 誰か水持ってこい!!」
 あたりは一気に喧騒に包まれる。その様子に一番肝を冷やしていたのは、間違いなく長屋の中にいる男たちだろう。
 慌てて出てきた数人の男たちと入れ違いに、みやびは素早く長屋の中に入った。
 あたりには気絶した男が数名転がっていた。そしてその最奥には。
「晋助くんっ!!」
 右足のふくらはぎから血を流してうずくまる高杉、そして自身の羽織を当てて懸命に止血をする桂がいた。
「井上、高杉が斬られたっ……血が止まらないんだ!」
 駆け寄るみやびに桂が早口でそう告げる。気が動転しているのか、外の騒ぎや部屋に押し入る前自分が彼女に頼んだことなどは少しも頭にないようだ。
 高杉は壁に凭れ、脂汗をかいて顔を歪ませながらも、なんとか笑おうとしていた。
「外の騒ぎは、テメェの仕業かよ……こえー女、だな……」
「傷口、見せてっ」
 高杉の無理やりな軽口を無視し、みやびはそっと桂の手と血染めの羽織を退けた。
 傷口からは血が勢いよく噴き出している。血まみれで幹部はよく見えないが、明らかに動脈を傷つけていた。
「晋助くん、袴、脱がせるからっ」
「えっ、ちょっ……」
 みやびは血に濡れるのもお構いなしに、高杉に抱き付くような形で彼の袴を擦り下ろした。ぐったりとした様子の高杉が一瞬だけ焦るが、抵抗できる元気はもう無かったらしい。されるがままにその脚を晒した。
 みやびは青白い顔の高杉をそっと床に横たわらせると、彼の脚の付け根で脈を感じる場所を探した。そしてそこを指先で探り当てると、グッと体重をかけ始める。
「桂くん、羽織、貸してくれる?」
「あ、ああ……」
 右手で高杉の脚の付け根を押さえたまま、左手で直接患部の止血を行い始める。上手くいっているのかはみやびには分からなかった。だが、やらなければ高杉は出血多量で死ぬ。そう断言できる出血量だった。
「お願い。私はここから動けないから、桂くん、誰かお医者さん呼んできてくれない?」
「だがっ」
「お願い」
 みやびの必死な表情を見つめ、桂は一瞬だけ戸惑った。しかし決断は早い男だ。
「高杉を頼む」
「……うん」
 炎がだいぶ大きくなっているらしい外へ飛び出し、桂は大声で叫びながら駆けて行った。
「お医者を、誰かお医者を呼んでください!! 誰か!!」
 ほとんど悲鳴のようなその声が遠くなっていくのを、二人は黙って聞いていた。
 やがて、雨音が木製の屋根を叩く音が響き始める。みやびの目論み通り、雨が降り出したのだ。遠くの方で雷が鳴る音を聞きながら、彼女は予報を外さなかったラジオの天気予報士に心の底から感謝した。
 血だらけになった桂の羽織を剥がし、今度は先ほど脱がせた高杉の袴を裏返しにして押し当てる。動脈を圧迫しているお陰か、先ほどよりも流血の量が少なくなっていた。みやびは彼の脚を抑える手がずれない様に、注意を払って身じろぎをする。右手にそろそろ痺れを感じ始め、少しだけ俯き深く息を吐いた。
 高杉が、その様子を仰向けになりながら見ていた。
「なぁ、疲れて、ねェか?」
「……えっ?」
「その体勢、キツい、だろ……」
 目を細めた高杉が、心配そうにみやびを見上げる。
 その表情に、言葉に、血塗れで死にかけているその少年の馬鹿さ加減に、みやびはまた、どこか乱暴な気持ちがこみ上げてきていた。行き場のないもどかしさを思い出す。
「ちょっとは、自分の心配、してよっ……」
 声が震えたのは、泣きそうだったからではない。みやび自身はそう思ったはずなのに、気持ちに反して視界は滲んだ。
「こんなに、ボロボロになって……死んじゃったら、どうするの……?」
「みやび……」
「心配、したんだよ……? 晋助くんと、もう、会えなかったら……どうしようって……っ」
 泣いたら力が抜ける。そう思って懸命に涙を堪えていた。そんなみやびを察してか、それ以上高杉は何も言わなかった。遠雷の音が徐々に近づいてくるのを感じる。みやびは何度も鼻水をすすり、止まれ止まれと祈りながら彼の脚を両手で押さえ続けていた。
 雷光が走り、彼らに大きな影が差すまでは。
「お前たちが、台無しにするんだ……この国を……俺たちを……」
 高杉が目を見開く。みやびが振り返り、そして思わず両手を放した。
 ギラリと鈍く光る日本刀。それが血に濡れていることから、その男が高杉を斬ったのだとみやびは理解する。
「みやび、逃げろっ!!」
 上体を起こし、桂が置いていった木刀を掴もうとする高杉を抑えて、みやびは彼を抱きしめる。
「お侍様、どうか、どうか剣を収めてくださいっ……ここにいるのは手負いの子供とただの町娘ですっ。後生ですから、後生ですからっ……!」
「黙れ、黙れ黙れ黙れ黙れっ!! 汚らわしい売国奴の子だ、お前ら二人とも!! 我ら尽忠報国の士を愚弄した罪、その身をもって償えっ!!」
 みやびの命乞いは、届かなかった。血を吐くように呪いの言葉を叫ぶ男に、みやびは絶句する。せめて高杉に刃が届かないようにと、きつくきつく抱きしめる。
 稲妻の光を受け鈍く光る、翳された人殺しの道具。高杉は必死にもがくが右足の激痛が邪魔をするのか上手くいかない。
「みやび、放せっ! ……クソッ、止めろ!! みやびに手ェ出したら、俺がテメェを殺してやるっ!!」
 最後の足掻きで男を睨みつけ吠えるが、男の耳にはもう届いていたかった。
「天誅!!!」
 振り下ろされる刃。雷が近くに落ち、高杉はみやびの頭を両腕で強く抱え込んだ。

 何かが飛び散る音がした。生ぬるい液体が全身に掛かる。
 目を開けるのが怖かった。互いに、互いが死んだと思った。何故なら自分は何処も痛くなかったからだ。
 みやびがぼんやりと目を開けると、護りたいと願った男の胸元が見えた。抱きしめられる力が弱くなったのを悟り、そっと体を放す。
 焦点の合ってない、高杉の瞳が見えた。僅かに動く口元、眼球、それらから、彼がまだ生きていることを悟る。
 だが、彼は全身血まみれだった。
「しん、すけ、くん……?」
 血まみれの彼の頬に触れる。触れられた彼はというと、緩慢な動きでみやびの頭上に視線を送っていた。
「おや、じ……」
 その言葉にみやびもゆっくりと振り向く。雷の光で、その場に一瞬光が射す。そこには、刀を振り下ろす体勢で絶命した男と、その男の心臓を日本刀で真後ろから一突きにした高杉大忠太がいた。
 彼女のその日の記憶は、そこで終わっている。


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